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18話「鬼は零した」



 そこらで上がる叫び声。むせ返るような、吐き気を覚えそうなほどに濃厚な血の匂い。見渡す限りの鬼。

 俺がいるのは、そんな地獄だった。


 ギリギリ間に合ったと、つい安堵に気が緩みそうになる。あと数瞬遅かったら琴奈は死んでいただろう。

 ここに来て当てもなく鬼を殺しながら進んでいた時、遠くに鉄骨が見えたのだ。あんなもの持ち上げるのは自我持ちで幼鬼の莉乃くらいしかいない。一目散にその方向へと向かったが、まさか琴奈がいるなんて。


 助けることに成功したが、安心こそすれど気分は良くなかった。むしろ、イラつきににたモヤモヤが俺の胸の内に巣食っている。


「やっぱり来たね」

「やっぱり? 俺が来ると思ってたのか」

「うん、わかってたよ。あんなこと言ってたけど、お兄ちゃんはきっと来るって。……わたしにとってはすごい嫌だけど」


 背後には琴奈が座り込んでいて。目の前では莉乃が白羅を纏っている。何が楽しいのか、ニヤニヤと笑みを浮かべて気味が悪い。


「もしかして、鬼側(こっち)に来てくれるの?」

「はっ」


 俺は吐き捨てるように、笑う。莉乃は少しムッとした表情になった。


「そんなわけないだろ。俺がこっちにいる時点で、それくらいわかるだろ? わかりきってることを聞くな」

「……うん、そうだね。そうだよね」


 莉乃は一瞬俯き、そして顔を上げるとそこに張り付いていたのはやはり笑みで。だが先ほどとは違う。目は笑わずこちらを睨みつける。


 そして、そのときだった。


「あの……明人さ……っ!?」


 俺に声をかけようとした琴奈の声が突然詰まる。俺はその原因がわかっていた。だからこそ、それを気にせず無視をする。明らかに琴奈は平常ではない。先ほどよりも息は震え、呼吸も荒い。


「あ、明人さ……それ……」


 きっと琴奈の視線も意識も俺の傷に向かっているだろう。

 ここに来るまでに負った傷は深くはないにしろその数は多く、身体中に刻まれていた。それが今、グジュグジュと不快な音を立てている。それはつまり治癒が始まっているということで、つまるところ――


「明人さんは……鬼……なんです、か……?」

「……っ」


 恐る恐ると言った調子で琴奈はそう言った。

 つまりはそういうこと。ここまで治癒が早いということは俺が鬼ということを如実に示してくる。

 背後の琴奈がどんな表情をしているのか、簡単に予想ができた。恐怖に歪んでいるかもしれない。怒りに燃えているかもしれない。どちらにせよ、きっと見て嬉しいものじゃない。


 覚悟はしていた。もしここに来て、莉乃にたどり着き、戦うことになったら俺は鬼として戦わないといけない。そこにたとえ琴奈がいても、バレるとしても俺は白羅や鬼の能力を使うと、そう決めていた。

 だが実際にその時になればどうだ。これほどまでに胸に突き刺さるものなのか。今すぐ振り向いて弁解したくなる。裏切らないでくれと、無様に請いたくなる。

 だがそうするわけにはいかない。俺はただ彼女に背を向け、無言を貫いた。


 しかし琴奈は返答を求めているのだ。待ちきれないといったように琴奈はギリと歯を鳴らす音がした。


「明人さ――」

「そうだよ。お兄ちゃんは鬼だよ」


 琴奈の声を遮って答えたのは莉乃だった。


「黒羽琴奈の家族を殺したやつと同じ。黒羽琴奈が憎んだわたしと同じ。自我持ちの鬼だよ。ひどいと思わない? ずっと、ずっと騙してたんだよ?」

「騙し、てた……」


 そこにこもっていたのは、一言で言えば絶望だろうか。一度死にかけてただでさえ生気のなかった声からさらに魂まで抜かれたような、そんな掠れた声だった。

 彼女を襲っているのはどれほどの衝撃か。それがわかるだけにこれからどんな反応をされるか容易に想像できて。

 そして思い出すのはやはり大変異の時の家族の拒絶。またあんなことになるのかと、知らず知らずのうちに俺は拳を強く握っていた。思わず体を震わせる。呼吸が荒くなる。

 俺もそれを隠そうとした。こんな弱さ、目の前の莉乃に見せたってデメリットしかない。だが莉乃も俺と七〇年一緒にいたからか俺のことはよくわかっていて。そんな俺の無駄な抵抗も簡単に見抜いてしまう。


 その証拠に、莉乃は苦しむ俺を見て楽しむように笑顔を深めていた。


「ほら、ほら。お兄ちゃん、また裏切られるよ? また苦しむよ?」

「うるさい……」

「わたしの方に来ないなら、ここに来るべきじゃなかったね。失うだけだよ。やっぱりここに来るのは失敗だったんじゃない?」


 "失敗"


 その言葉が俺に重くのしかかる。

 失敗は避けるべきことだ。失敗はしてはいけないことだ。失敗すれば自分が傷つき、失う。失敗すれば大切なものが傷つき、失われる。


 なら、俺のとった行動は? これは失敗なのか? それとも、否なのか?

 考えるまでもなく、俺の中で答えは決まっていた。


「失敗……ああ、そうだな。これは、失敗だ」


 莉乃は少し目を見開いた。まさか俺が簡単に認めたことを驚いているのだろうか。


 まさか。考えればわかることだ。

 莉乃と敵対するのにここに来る意味はない。いらない傷を負い。喰鬼奴隷のメンバーに正体はバレて。莉乃と戦っても勝てる見込みは少ない。

 考えれば考えるほど、デメリットだらけで。これを失敗と言わずに、何と言うのだろうか。


 だから俺は少し俯いて、口にした。


「ああ……失敗だ。失敗、失敗。失敗だった。失敗だったんだよここに来たのは!」


 どんどん口調が荒くなるのを、俺は自分で抑えられなかった。

 これが失敗? そんなことわかってる。わかってるから、ここまで俺の心はざわついているんだ。わかってるのに俺はなぜかここにいるんだ。


 一体いつから間違ってしまったのだろうか。一体いつから、俺は失敗しているのだろうか。

 そう考えて真っ先に浮かぶのは五年前のあの日、あの夜。死にかけた少女を見つけ、そして助けてしまったあの夜。


 ふぅ、と。少し息を吐いて、空を見上げる。

 今は夜だ。黒いキャンバスに光をばらまいたような。あの日と同じように、ムカつくくらいに綺麗な星空が広がっていた。視線を下げれば、鬼の大群。そして、崩壊した世界。


 そして、俺は呟いた。


「ああ、失敗した」



 五年前のあの夜血を飲みにさえ行かなければ、こんな鬼の大群に突っ込まずにすんだのに。


 五年前のあの夜叫び声を無視していれば、全身に傷を負うこともなかったのに。


 五年前のあの夜争いを目にしなければ、ここまで悩むこともなかったのに。



 それはもう覆せない後悔。それを憂うように俺は想いを馳せる。


 無意識に震えるように息を吐いていた。

 右手を握れば、琴奈が手のひらに巻いた布が指に触れる。

 そしてまた無意識に、そう言っていた。



「あのとき琴奈を助けなければ――」



 こんな思いを胸に抱いたのは、いつからだろうか。

 最初はただいい隠れ蓑になるかなと、そう思って所属していただけだったのに。


 幾多の死線をあいつらと乗り越えた時だろうか。

 無理やりだったが、あいつらと宴で柄にもなく騒いだ時だろうか。

 琴奈が入ってきた時だろうか。

 琴奈の笑顔を見た時だろうか。


 あの時、この時と、過去が連続して脳裏に映し出されて。


 俺は二度拒絶された。家族(にんげん)に拒絶されて。莉乃(おに)に拒絶されて。

 そんな俺でもそう思ってしまうような何かを、異常者のあいつらは持っていた。


 そして、黒羽琴奈。

 ずっと付いてきてくれた。なぜかはわからないが、ずっと隣に立とうとしてくれた。俺に笑いかけてくれた。俺を慰めてくれた。

 もしかしたら俺が鬼だと知らなかったからかもしれない。だがしかし、事実俺は救われていたのだ。


「あのとき琴奈を助けなければ――」


 そして俺はポツリとこぼした。





喰鬼奴隷(おまえら)を――黒羽琴奈(おまえ)を、こんなに大切に思わずにすんだのになぁ……」





 自分で口にしたからだろうか。こんな騒がしい場所なのに、その一言はやけに響いた気がした。


「「――ッ!!!」」


 背後で琴奈が息を飲む音が聞こえる。目の前で大きく表情を歪める莉乃が見える。


 それは失敗だった。失敗だったが、俺の偽りない本心だった。逃げ出して、悩んで、苦しんで。そして最終的にそこに行き着いたからこそ、俺は今ここにいる。


 なんとなく目の奥が熱い気がする。今この場ではふさわしくない感情が溢れ出しそうな気がした。俺はそれらを全て吐き出すように、大きく息を吐く。そして莉乃をまっすぐ見据えた。


「お兄ちゃんっ……!」


 絞り出すように莉乃はそう言った。先ほどまでのニヤケ顔はどこへ言ったのか。今まで見た中で一番鋭い視線が俺に突き刺さる。


 様子が変わったのは、視界にこそ入れてないが琴奈もそうだった。荒い呼吸、そしてかすかな嗚咽。なんとなくどうなっているのか予想はつく。だが俺は振り返らない。声をかけない。そんな資格、俺にはないから。もし振り返ってしまえば、俺の中の何かが崩れ落ちてしまいそうな気がしたから。


「明人さ――」

「だが! ……これが失敗というのも事実だ」


 琴奈の言葉を遮るように俺はそう叫んだ。これは拒絶だろうか。だがやっぱりまだ怖いんだ。拒絶されるのが。

 だからこうして逃げるしかない。

 でもどうか、許してほしかった。さっき言った通り琴奈が大切なのも事実で。きっと守ってみせるから許してほしいと。口にすることなくただ願っていた。


「……そうだよね。なら、どうしてきたの? いつもお兄ちゃんはわかりきってる失敗は全力で回避するでしょ? なのに、どうしてきたの」


 質問というよりかは、尋問のようだった。相変わらず彼女の声は苛立ちを孕んでいて。どうやら俺の中にはまだ莉乃に殺されかけた時の記憶が眠っているらしい。ついつい体が硬くなる。


 それじゃダメなんだ。それなら、なんのためにここにきた。


 だが莉乃の言っていることも正しい。俺はいつだって失敗は避けてきた。だからこそ、ここまで悩んだ。だからこそ、ここまで苦しんだ。


「どうやら、俺にとってはどっちに転んでも失敗らしくてな」


 自分を選べば感情が琴奈を助けろと声を上げ。喰鬼奴隷を選べば理性が逃げて隠れろと叫ぶ。


 あっちを選べば失敗だと引き返し。引き返してはこっちも失敗だとまた振り返り。

 あっちへこっちへと考えている間に、これほど悩むのは無駄だと気がついた。


 俺のいる迷宮に正解という出口なんかない。どちらに行っても失敗の壁だけがあって。なら俺がすべきことは何か。出られないのなら、その中で動くしかないのだ。どれだけ苦しくても、迷宮の中でもがくしかないのだ。


「だから俺は――」


 そう言って俺は刀を抜き、莉乃へと向ける。

 それは宣戦布告。『おまえを殺す』と、莉乃に告げるということ。

 莉乃は表情を変えない。ただただまっすぐ俺を睨みつける。大気が冷えるような、強者の気配を携えて。


「だから俺は――俺の好きなようにやることにした」


 さあ、鬼退治を始めよう。

 あいにく俺は勇者でもなく、莉乃と同じ鬼だけど。

 だが、だからこそ、俺はおまえを殺せる。


 今まで人の皮を被って生きてきた。鬼から――自分自身から逃げてきた。


 だが喰鬼奴隷を守るためなら、黒羽琴奈を助けるためなら。



 ――喜んで鬼になってやろう。


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