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16話 「幼鬼と殺し屋」




 そこは、一言で言うと『混沌』だった。


 地面が見えなくなるほど大量の人――否、鬼。

 白黒逆転させたような目をぎらつかせ、この混沌の中に存在する数少ない人――喰鬼奴隷へと押し寄せる。

 吹き上がる真っ赤な血に、むせ返るような鉄の匂い。地面に横たわる、漆黒の死体。途絶えることのないうめき声に叫び声。

 まさに地獄と表現するにふさわしい状態だった。



「はあっ!」


 そんな地獄の中で琴奈は戦っていた。両手二〇センチほどのナイフを携え、それをまるで舞うように振るう。

 一振りすれば血が飛んだ。二振りすれば肉が飛ぶ。三振りすれば腕が飛ぶ。四振りすれば黒く染まった。

 彼女の足元にはするたいの黒い死体が転がっている。漆黒に染まり金属に負けないほどに硬くなったそれは、黒化して死亡した鬼の末路。


 琴奈の背後から青年の鬼が一体飛びかかる。それは完全に死角からのもの。だが琴奈は背中に目でも付いているのか、ナイフを逆手に持ち替え、振り返る。振り返りざまに腕も振り、そのナイフは鬼のこめかみに突き刺さる。そこから血が吹き出て、顔の半分まで黒く染まった。

 だが鬼は不老不死。その程度では死なない。

 そして鬼を喰らう喰鬼奴隷の琴奈はそれを心得ている。


「ふっ!」


 琴奈は突き刺したままそのナイフを地面に振り下ろした。ナイフは鬼の頭に引っかかったまま、鬼は地面に叩きつけられる。そして流れるようにもう一本のナイフで首を切りつけ、また出血。鬼の体は全て黒く染まり、鬼は黒化した。


 だがまだ終わりではない。鬼はまだ大量にいる。

 今度は琴奈の左右から二体の鬼が飛びかかった。戦闘が始まってから、この繰り返し。


(ああもう! キリが無い!!)


 琴奈は心の中で悪態を飛ばす。もう何体黒化させたのだろうか。戦い始めてからどれだけの時間が経ったのだろうか。考えるのも面倒になる程、彼女も他のメンバーも戦っていた。


 一体一体が強いと言うわけじゃ無い。ここに攻めてくる鬼は皆血に飢えていて普通の鬼よりさらに直線的。しかも血が足りてないのだから黒化もしやすい。一体一体はかなり弱く、まさに有象無象だった。


 だが数というのは暴力だ。

 今までは多い時でも三〇〇体ほど。その時ですら、ギリギリの場合もある。だというのに今回の数は、古堅曰くいつもの五倍らしい。

 それはもはや大軍というよりは災害。琴奈の心中にも、だんだんと焦燥感が湧き上がってくる。


(これはっ、本当にきついなぁ……。まずい、下手したら死んじゃうかもしれない)


 他人事のようにそう考える。もちろん彼女に死ぬつもりはない。死んでしまったら明人に並べないから。

 だがいつもほぼ無傷で切り抜ける琴奈が、すでに身体中に傷が散見できている。それに疲労も積もりだしていた。琴奈の息遣いは次第に荒くなり、体の動きも鈍くなる。集中力もなくなりかけてきていた。

 だからこそ、ひっそりと潜むそれに彼女は気づけなかった。


 また一体黒化させた時だった。

 琴奈の腕が何かに掴まれた。


「ぐっ……!」


 思わず琴奈はうめき声を漏らす。視線を向ければそこにいるのは鬼。ギラギラと目を輝かせ、牙を輝かせながら三日月状に歪む口からは唾液が垂れ流される。


 琴奈は振りほどこうとした。が、鬼は身体能力が人の何倍もある。琴奈の腕を掴むそれは、まるで動かずむしろミシミシと万力のように腕を締め付ける。


「このっ……!」


 琴奈はその鬼の腕にナイフを突き刺す。

 鬼の口から漏れるうめき声。だが腕を離すまでには至らず、逆に鬼は口を大きく開いた。


(っ!! まずい!)


 そう感じたが時はすでに遅い。

 鬼は琴奈の華奢な腕に噛みつき、二本の牙が肌に突き刺さる。


「がっ……あっ……!!」


 琴奈の鼓膜がジュルジュルと不快な音を捉える。背筋にムカデが這うような悪寒が走り、必死にもがくも鬼は振りほどけない。

 さらに周りからは他の鬼も飛びかかろうとしている。

 だがその時だった。


「うおぅりゃぁああああ!!!」


 野太い叫び声。だがすこし掠れたその声が聞こえると同時に、琴奈の方へ何かが飛んできた。その何かは琴奈の腕を掴んでいた鬼に見事にあたり、解放された琴奈は飛びかかってきていた鬼を避ける。


(一体何が……。っていうか、今の声、まさか祥吾さん?)


 飛んできた何かを見ると、黒化した鬼の死体だった。金属ほどに硬くなったそれに当たった鬼は、見事に潰れてしまっている。こんなものを投げ飛ばせるなんて、鬼の他には祥吾しか思いつかなかった。

 琴奈はすこし周りを見渡したが、見えるのは相変わらず鬼の群れだけ。祥吾の姿はかけらも見当たらない。

 だが今のはどう考えても誰が考えても祥吾の仕業だ。


「祥吾さん! ありがとうございます!」

「ああ!? ……っ。何が!?」


 とっさにこんな異常な状況でお礼を口にしたのは、やはり琴奈も異常者だから。

 祥吾からの声は琴奈からそれほど離れていないようだった。先ほどのあれも意図してのものじゃなかったらしい。


(……危なかった)


 まだ気は抜けない。が、とりあえずの危機は脱し、琴奈は一つ息を吐く。そして同時に祥吾の声を聞いて、琴奈は胸が軽くなった気がした。戦闘が始まってから、琴奈は誰の姿も見ていない。他の喰鬼奴隷(かぞく)の安否も分からなかったのだ。


 だからつい、琴奈は押し寄せる鬼をかわしながら言った。


「祥吾さん! 状況は!?」

「琴奈か! 今は――っ! くそ!」

「どうしたんですか! 大丈夫ですか!?」

「……っ! ああ! ――くそ! お前ら次から次へと来やがって! 俺の腕片方なくなってるのが見てわかんねえのか! すこしは手加減しやがれ!」

「――っ!!」


 思わず琴奈は顔をしかめた。

 喰鬼奴隷のメンバーはそれぞれ元殺人鬼だ。だがもちろん殺し方も戦い方も違う。

 琴奈は元殺し屋だ。正面から戦うこともあったが、基本は不意打ち。常に一対一になるように戦って来た。

 対して祥吾は元剣闘士だ。戦う相手は剣闘の主催者によってまちまちで、一対一の時もあれば一対多、なんなら相手が人ですらないこともある。そんな祥吾の戦い方は、力で押しまくるパワープレイ。琴奈よりも断然この戦いに向いている。


 そんな祥吾が片腕を失うほどの重傷を負った。

 その事実が、今この状況の危機感をありありと表していた。


 これでは他のメンバーの安否も怪しい。下手をすれば死人が出ている。だが確認できないし、できたとしても助けるほどの余裕が今琴奈にはない。

 しょうがないといえばしょうがないのだが、それはこれでもかというくらいに琴奈の胸を締め付ける。

 だからだろうか。まるでその鬼の壁の向こうの仲間を探すように、琴奈な視線を遠くへ向けた。

 それは普段なら愚策だ。鬼はほぼ絶え間無く飛びかかって来ていて、遠くを見るということはそれから視線を外すということ。


 だが今回だけは、それが新たな道を示した。


「…………あれ?」


 戦闘中ということも忘れ、ぽそりと琴奈は漏らす。

 彼女はそこにあるはずのないものを見たのだ。


(今のって……!)


 そして彼女はそちらに足を進める。飛びかかる鬼をかわしつつ、鬼の壁を崩しつつ。一心不乱に突き進む。

 それほどまでに今見たものは彼女に大きな衝撃を与えたのだ。


 彼女が見たのは――銀色。

 鬼の壁の向こうで一瞬だけ揺らめいた、気がした。

 馬の尾のように揺れるそれは、彼女にとっては見慣れたものだが、決してこの場にはないはずのもの。あってはいけないはずのもの。


(まさか、そんなはずない! こんなところにいるはずない!)


 だが銀髪というのはかなり珍しい髪色で。今朝から彼女が見当たらなかったということも琴奈をあせらせる一因だった。


 でもまさか、と。彼女はただただ内の衝動に身を任せ、そちらに突き進んだ。



 焦りだけが心の中でくすぶって、邪魔をする鬼たちが心底邪魔に感じていた。鬼を切り裂き、時折傷を受けながらもそれすら意に介さず。ひたすら突き進み。


(ああもう……!! 邪魔!)


 琴奈の目の前に一体の鬼が立ちはだかった。その向こうがきっと目的の場所。気持ちだけが向こうに行って、焦りだけが体を動かしていて。

 殺すことすら煩わしい。琴奈は二本のナイフを寸分たがわず両目に突き刺し。視界を失った鬼の横を通り過ぎ。


 そして琴奈はすこし開けた場所に出た。


 開けたといっても、地形的な話ではない。この辺り一帯は鬼で埋め尽くされているが、半径一〇メートル程度の円形、なぜかそこだけ鬼がいなかったのだ。


「はあっ……はあっ……はあっ……」


 体力配分も考えずひたすら全力で突き進んだせいで、琴奈の息は荒い。だがしかし、彼女はまっすぐ目を向ける。


 そしてその中心に、それはいた。



「莉乃……ちゃん?」



 それは歩いていた。銀色のポニーテールを揺らしながら、傍に二体、男女の鬼を連れ。そして鬼のいない空間は彼女を中心に移動している。

 大人の男女、そして小学生くらいの子供があたかも散歩をしているかのようにのんびりと歩いている姿は、家族を連想させた。

 琴奈の声は掠れた、吐息と区別がつかないくらいに小さなもの。だが幼鬼である莉乃はそれを捉えた。


「あれ?」

「……っ」


 キョトンとした丸い瞳で琴奈を見る。その声、そしてその表情で琴奈は察してしまった。今の莉乃は今までの莉乃とは違うと。今まで偽っていたのか、それとも今変わってしまったのか。どちらかはわからないが決定的に変わってしまったと、彼女は理解してしまった。


「黒羽琴奈じゃん。あーあ、見つかっちゃったかぁ」


 かくれんぼで鬼に見つかったかのように、莉乃は大げさに肩を落としてみせる。この場ではあまりにも違和感のあるその反応。だが琴奈はそれどころではなかった。

 前までの弱々しい態度が消え、自信に満ちた声や仕草。そして『琴奈お姉ちゃん』ではなく、『黒羽琴奈』という切り捨てるような呼び方。

 莉乃に慕われていたと感じていた琴奈は、変わりすぎた莉乃と急激に開いた距離についていけずにいた。

 ただただ目を見開いて。何か言おうと口を開けても、「あ……あ……」と声こそ出るが言葉は出てこない。

 細かく手が震えていた。鼓動が早くなった気がした。


 なぜ彼女かここにいるのか。どうして鬼に襲われていないのか。考えられることは一つだった。


(いや、そんなはずない!)


 それを琴奈は思いつきながらも、必死に目をそらす。


 莉乃はしばらく琴奈を見ていたが、あまりにも反応がなかったからか呆れるように息を吐き再び歩き出そうとした。

 そして琴奈が感じたのは焦燥感。莉乃が行ってしまう。ただただそのことに焦り。


「なんで……ここに……」


 そしてそんな一番最初に聞くべきことを、琴奈は初めて口にした。

 それを受け莉乃は足を止める。そして琴奈に改めて向き直り――嗤う。


「なんでって……そんなのわかってるでしょ? なんとなく感じてるでしょ? そんなにバカじゃないでしょ? 黒羽琴奈は」

「…………っっ!!」


 もはや確定だった。琴奈の考えが正解だと、莉乃が認めたということだった。


 つまるところ――莉乃は自我持ちであると。

 鬼を引き連れているのは、莉乃であると。


「莉乃ちゃんが、こいつらを連れてきたの!? いつも鬼をこっちに攻め込ませてたのも、莉乃ちゃんなの!?」


 琴奈はいつか古堅が言っていたことを思い出した。


 鬼が定期的に、しかも一度に攻めてくるのはここだけ。

 鬼は力にしか従わない。

 つまり、何者かが鬼を指揮している。

 それができるのは、自我持ちだけだと。


 事実莉乃は鬼をコントロールできているようだった。彼女が歩みを止めている今、彼女の傍にいる鬼も鬼のいない範囲も移動していない。琴奈は気がついていないが、今琴奈が襲われないのも莉乃の気まぐれによるものだった。


 つまり、琴奈の問いの答えはイエス。莉乃は「うん、そうだよ」と少しも悪びれることなくそう言った。


「なんで……なんで……!!」


 琴奈は力強く拳を握る。彼女の脳裏に浮かぶのは、傷ついた喰鬼奴隷(かぞく)たち。今も傷ついている仲間(かぞく)たち。

 死んでいった人もいた。精神が壊れた人もいた。その度に家族を失ったと傷ついた。

 それが目の前の鬼のせい。それを理解した途端琴奈の胸に浮かんだのは、怒り。そして、疑問。


「なんで……なんで、こんなこと……!!」

「なんで……?」


 そこでふと、莉乃の表情が歪んだ。まるで子供を見るような視線を琴奈に向けていた莉乃が、初めて別の感情をあらわにした。


「なんで……なんでって……」


 ボソボソと口にしながら、莉乃は俯く。前髪で表情は隠れ、銀色の髪が風に揺れた。そこから少しの沈黙。どうひたのかと琴奈が莉乃に声をかけようとした時、莉乃は顔を勢いよくあげた。

 そこに映っていたのは先ほどとは違う、明確な怒り。目尻を吊り上げ、歯を食いしばって琴奈を睨みつけていた。


「なんでって……そっちが先じゃん! そっちが先に私から奪ったんじゃん!」

「……え?」

「わたしはただ取り戻したいだけ! 戻ってきてほしいだけ! そのために人間が邪魔なの! それだけなんだから!」

「莉乃ちゃん……?」

「死んじゃえばいいんだ! 轟祥吾も黒羽琴奈もみんな!」

「――っ!!」


 その時、莉乃の言葉に反応するかのように二体の鬼が琴奈の背後から飛び出した。

 もう両手にナイフは持っていない。莉乃にとっては武器を持っていないという、絶好のタイミングだったのかもしれない。

 だが琴奈に限ってはそれは間違いだ。


 琴奈の右後ろ、左後ろに一体ずつ。全員男で年齢は三〇代ほど。身長も同じくらい。


「フッ!」


 琴奈は短く息を吐き、片腕を伸ばして勢いよく回転。一体目の鬼に差し掛かる瞬間、手首を外に曲げ仕込みナイフを出す。それは見事に二体全ての目を切り裂き。二体目を切ったところで元に戻す。

 よろめいたところで琴奈は二体の頭を鷲掴み。ろくに体に力が入っていない今、女の琴奈でも容易に押し倒せる。彼女は地面に彼らを叩きつけ、また手首から仕込みナイフ。それはまっすぐ頭に突き刺さり、脳を傷つけた。

 莉乃は琴奈の戦い方を知らない。側から見れば――琴奈が意図的に見えないようにしているのもあって――何も持っていないのになぜか切られたようにしか見えない。だからつい莉乃は先ほどまでの感情を忘れ、キョトンとした顔をした。


 足元でのたうち回る二体の鬼を見下しながら、琴奈はゆっくりと立ち上がる。

 鬼は回復能力があるといえど、本当に驚異的なのは幼鬼だけだ。ほぼ全ての怪我が瞬時に治る幼鬼とは違い、普通の鬼はひどい怪我を治すのに時間がかかる。琴奈の足元の鬼の脳が回復し動き出すのに、早くても一五分はかかる。


 だが、琴奈の頭にそんな考えは存在しなかった。


(なんだろう、この気持ち……)


 胸の内で激しく燃えるようだが、怒りとはまた違う。悲しんでいるわけでもなく、かといって思考を奪われるほど憎んでいるわけでもない。


(ああ……これが殺意ってものなのかな)


 琴奈はそう結論づける。

 殺気ではなく、自分は殺意――殺す意思を覚えていると。

 手段として殺気を向けることはあっても、実際に人を殺していたとしても、琴奈が本心から全てを抜きにして人を殺したいと思ったことは、実はない。いつも彼女は仕事だから、仕方がないから殺していた。


 そんな彼女が初めて心から殺したいと思う。


(喰鬼奴隷(みんな)が死んじゃえばいい? 家族(みんな)を殺す? そんなこと、させるわけない)


 琴奈はナイフを取り出して、振り返った。そして初めて莉乃を睨みつける。

 琴奈の殺意のこもった視線と、莉乃の子供を見るような視線が交差し――そして莉乃は薄く笑みを浮かべた。


「へえ……やるんだ。わたしを殺すんだ」


 それは嘲笑。身の程知らずの琴奈を馬鹿にするように、莉乃は嗤う。


「でもできるの? 確か黒羽琴奈は幼鬼を殺せないんじゃなかった?わたし、幼鬼だよ? それでもわたしを殺せる?」

「……確かに、莉乃ちゃんは幼鬼だよ。それに私は幼鬼を殺したくない」


 琴奈が幼鬼を殺したくないのは孤児院時代を思い出すからだ。あの時小さい子の面倒を見ていたから、琴奈にとって小さい子供は総じて庇護対象で。だから自分で殺せない。助けたい。


「私、喰鬼奴隷が好きなんです。異常者ばかりですけど、犯罪者ばかりですけど、それでもやっぱり好きなんです」


 琴奈は愛おしそうに言葉を紡ぎ、そして莉乃を睨みつけた。


「でも、それを傷つけようと、壊そうとしてるやつがいる。それならもう――殺すしかないよね」


 琴奈はナイフを両手に持ち、構えた。

 視線をまっすぐ莉乃に向け、そして言う。




「喰鬼奴隷、黒羽琴奈。私はあなたを――莉乃さんを、殺します」


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