15話「鬼は逃げ出した」
◆
「鬼の襲撃です」
喰鬼奴隷のメンバーがホールに集められそう告げられたのは、なんてことない日常の合間だった。
基本喰鬼奴隷のメンバーは古堅総一郎があまり好きではない。だが鬼との戦闘が始まる時だけは、彼の話をきちんと聞くようになる。ホールに集まったメンバーはその例に漏れることなく、"ほぼ"全員が古堅に視線を向け、無機質に紡ぐ言葉に耳を傾けた。
"ほぼ"というのは大半のメンバーとは違う人がいるから。それが呉嶋明人、黒羽琴奈、轟祥吾、白谷莉乃だった。
まず明人と莉乃はこの場にいなかった。
そして琴奈は不安げに、何かを探すようにあまりに視線を彷徨わせ、逆に祥吾は集団の一歩後ろで壁に寄りかかり、腕組みをしながら目を瞑っていた。
当然古堅もそれに気がついている。だが彼の今の仕事は喰鬼奴隷に情報を伝え、命ずること。二人も話は聞いているだろう。なら問題ないと判断し、話を続けた。
「約一時間前、観測班から連絡がありました。いつもの鬼域から、鬼がこちらに向かっていると」
「いつもの鬼域っていうと、この前黒羽と明人が言ったところってことか?」
「ええそうです。やはりあそこに鬼に命ずることができる自我持ちがいると考えて間違いないでしょう」
「ま、大丈夫だろ。なんとかなるって」
琴奈と祥吾を放って話は進む。
ここまではいつものやりとりだった。事実いつも新入りは命を落としたり危険な目にあったりするが、今いるようないわゆる慣れたメンバーは、特に問題ない。だからそう言った男も古堅がそうですなんて返すことを期待した。
が。
「…………」
帰ってきたのは無言。そして無機質な顔に浮かんだほんの少しの歪み。
それを受け、余裕ムードだった男たちに緊張が走る。
「……余裕か余裕じゃないかで言えば、今回は余裕ではないかもしれません」
「なんかやばいやつがいるってことか?」
「危険な個体かどうかは観測班では判断できません。今回問題なのは、その数です」
毎回攻めてくる鬼の数は決まっていない。多かったり少なかったり。多くて約三〇〇体、少なくて五〇体。しかし古堅が告げる数は。
「目測なので詳しくはわかりませんが……いつもの五倍はくだらないでしょう」
「「「……っ!!」」」
琴奈と祥吾を除いたメンバーが一斉に息を飲んだ。だがそれも想定内なのか、感情を隠しているのか、そもそも古堅とはそういうものなのか、彼に変化はない。壊れたラジカセのように、ただただ無機質に事実を垂れ流す。
「あ、あの」
とそこで、ついに琴奈が声を上げた。全員の視線が彼女に向く。琴奈はそんなこときにする余裕もないのか、その視線を無視し不安げな視線を古堅に向けた。
「莉乃ちゃんと明人さんがいないんですけど……」
瞬間、小さくないざわめきが沸き起こった。「明人がいない……?」「だいじょうぶなのか?」なんて動揺が波のように広がる。
莉乃はともかく、明人は毎回討伐数トップの確固とした最高戦力だ。それを誰もが知っているし、認めている。しかも今はこれまでにない鬼の数を知らされた直後。動揺もいつもより大きかった。先ほどまで一人目を瞑っていた祥吾も、ピクリと反応すると片目だけ開けて琴奈を見た。
そんな中、古堅は顎に手を当て考え込むような仕草。そして五秒と経たずに顔を上げた。
「お二人の家には確認に行きましたか?」
「はい……行ったんですが、いなくて……」
「…………そうですか。わかりました。他の人間に探させておきます」
雑とも言える扱い。だがどうしようもなく、渋々といった調子で琴奈は「わかりました……」と言った。
たしかに明人の不在は大きい。だが少なくとも古堅にとっては数時間後に訪れる襲撃の方が優先度が高かっただけ。莉乃のことについてはなおさらだ。所詮彼女は最近琴奈が鬼域から連れ帰った弱々しい少女。古堅の仕事にはなんの影響もない。
だから古堅は改めてメンバーに向き直り、告げる。
「別に逃げたとしても罰しはしません。たとえ内地に行っても、また犯罪者として捕まり、今度こそ死刑になるでしょう」
それは脅しではない。ただの事実。
「それに今回に限ってはそれすら無駄です。あなたが抜けた分、数十体がここを抜ける。鬼というのは人に貪欲です。ここから内地までの距離は大きい。すぐに追いつかれるでしょう」
ただ淡々と、古堅は述べる。
「逃げるか否かで違うのはほんの少しだけです。ここで戦うか、向こうで戦うか。ここで生きるか、向こうで生き、そして死ぬか。ここで死ぬか、向こうで死ぬか。それだけです」
そこからは大きな出来事もなく、そのまま解散となった。各々が自分の家へと帰り、戦いに向けて武器なり自分自身なりを整える。そのために皆ホールから外に向かってぞろぞろと歩き出した。
そして、琴奈もその一人だった。
(明人さん……。莉乃ちゃん……)
だが他と違うのは、戦いとは関係のないことを考えていること。
彼女はわからなかった。なぜ莉乃はいなくなったのか。直前までおかしなことは一つもなかった。あったとしても髪をくくっていたくらい。琴奈は儚げな雰囲気のストレートも好きだったが、明るさの増したポニーテールも可愛らしく感じた。
だが琴奈に少なくともいなくなるような心当たりはない。だから何か大変な目にあってるんじゃないか、なんて考えてしまう。
逆に明人に関しては心当たりがあった。
(私じゃ、ダメだったのかな……)
思い出すのは昨日の明人。
年不相応の落ち着きと異常性を孕みながらも、どんな時だってどこか落ち着きを保っていた彼。しかし昨日の彼は全く違っていた。見たこともないほどに弱り切っていた。きっとここでの生活に、そして殺しに耐えきれなくなったのかなんて琴奈は予想したが、それはどこまでも予想で正解はわからない。ただ少しでも和らげてあげたくて、後々悶えることになりそうなこともした。昨日の時点で、その目的は成功できているように琴奈は感じていたが。
(耐えきれなくて、逃げ出した……とか……。なら、私のせいだ)
そう考えると、琴奈の表情はさらに悪くなる。
これで襲撃を切り抜けられるのか。そんなことを頭の片隅で考えながらも、やはり琴奈の思考は明人と莉乃に引っ張られてしまう。
その時だった。
「おい」
そんな野太い一言とともに、琴奈は肩を引かれた。それは少女が受けるには大きすぎて、彼女は後ろに倒れこみそうになる。だが琴奈もただの少女ではない。きちんと体勢を立て直し、振り向きつつ自身の肩を引いた犯人を睨みつけた。
「……祥吾さん」
「よう。どうしたんだ? お前。このままドアに突っ込むつもりか?」
「え……」
呆然とした調子で琴奈はそう呟き、正面に向き直る。そこには祥吾の言う通り、文字通り目と鼻の先に外へと通じる扉があった。このまま進んでいたら顔から突っ込んでいただろう。これほどまでに自分はぼーっとしていたのかと琴奈は恥ずかしくなり、思わず俯いてしまう。
「な?」
「うぅ……その、ありがとう、ございます」
「ん」
祥吾は琴奈の隣を通り過ぎ、扉を開けて外に出た。琴奈もそれに続く。そして二人どちらとも言わずに並んで歩き出した。
二人の家は距離こそ違えど方向は同じだった。
会話は特にない。普段から話こそするが、一緒にいるからと常時話しているわけでもない。そもそも気楽に雑談をするような状況でもないし、琴奈にしてみればそれよりも考えてしまうことがあった。
「明人と、莉乃ちゃんのことか?」
その時、ふと祥吾はそう言った。
特に驚くことでもない。琴奈は正直に「はい……」と漏らす。
祥吾も「ふーん」と言うだけで、そこから会話は続かなかった。ただただ歩き、彼らは古びた無人の家をいくつか通り過ぎる。数時間後に生き死にもわからない戦いがあるというのに砂利の音が響くほどに静かだった。
「まあ、大丈夫だろ。莉乃ちゃんはそう遠くには行けないだろうし、すぐに見つかる。明人だって……ま、あいつは強いからな。死にはしないだろ」
「でも、明人さん昨日すごい参ってるみたいでした」
「あー……、一昨日会った時もまあ参ってた、な、うん、たしかに」
祥吾が思い出すのは、一昨日の夜。明人の正体を初めて見たときだった。今でも思い出せば鳥肌が立つほどの強さ。だがその本人はどこか悩んでいるようで、どこか迷っているようだった。
このことを祥吾は琴奈や他のやつに言うつもりはない。琴奈が言っている『参っている』と、祥吾が言っている『参っている』は違う。だが参っていたということについては祥吾も同意だった。
「でもま、大丈夫だ。あいつは強いからな。絶対に死なないし、何かあったなんてこともない」
祥吾はそう断言する。
明人の全てを見た祥吾だからこそ、そう断言できる。
祥吾の見る限り精神的にはまだ弱さもある。だが彼は信じることができた。明人は強いから大丈夫だと。
あまりにも自信に満ちた言葉に、つい琴奈は祥吾に顔を向けてしまった。まじまじと目を大きく開き、口をポカンと開けて彼を見つめる。
「……なんだ? その顔は」
「いえ、なんていうか……。もしかして、慰めてくれてるんですか?」
「はあ!?」
祥吾にとってあまりにもそれは突拍子なかったことなのか、やけに大きな声が漏れた。静寂の中で響きながら、それに重ねるように彼は続ける。
「そんなんじゃねえよ! 俺はただ、莉乃はすぐに見つかるって、あいつは強いから大丈夫だって――」
「つまり莉乃ちゃんや明人さんの安否を心配している私に、彼らが大丈夫だって押してくれたんですよね? これはもう立派な慰めじゃないですか?」
クリクリとした大きな目を丸めながら、まるで無垢な子供のように琴奈は尋ねる。誰がどう見たって作った表情だと丸わかりで、バカな祥吾もそれは理解できた。だからこそ莉乃は自分をからかっているとわかってしまって。でも考えてみればたしかにそれは慰めで、祥吾はただ「ぐぐ……」と唸ることしかできずにいた。
琴奈はそれを少し見ると、フフと笑みを漏らす。
「ありがとうございます、祥吾さん」
「だから俺は――」
「いいんですよ、祥吾さんにとってどちらでも。ただ私は元気が出たんです。だから、ありがとうございます」
「だから――はぁ……。もういいや。わかったよ。どういたしまして」
渋々といった調子で彼はそうぼやいた。顔を逸らし、照れ臭そうにボリボリと頭を書きながら。強面の男が照れる様子はなかなか面白いと、琴奈はさらにフフと笑みをこぼす。
気がつけば憂鬱な気分はどこかにいっていた。
そしてそれから数時間後。
喰鬼奴隷のメンバーは各々武器を持ち、いつもの場所に並んでいた。
まず耳に入るのは笛のような風の音。それを追いかけるように壊れた世界が顔を出す。
視界いっぱいに広がる瓦礫のじゅうたん。それに這うように草木が絡まる。大きなクレーターに水が溜まり池ができて。そこから何かの残骸が天に手を伸ばすようにそびえたつ。
そのさらに向こうにはかつての大都会。今にも崩れ去りそうなビルが、まるで鉄の森のように乱立している。
視線を上げれば昔では考えられないような星々が闇夜を覆いつくしていた。
等間隔で並べられたライトが、これから地獄となる戦場を照らしている。
そしてそこに立つ二〇数名の男女。皆一様に口に布を巻き、各々の武器を持つ。皆の視線はまっすぐ鬼域の方へと向かっていて、珍しくも息遣いが聞こえてくるくらいに静かだった。
そのとき、琴奈の耳につけたインカムにザザ……とノイズが走る。
『もう少ししたら来ると報告がありました。みなさん、健闘を祈ります』
いつも明人がつけていたインカムから、無機質な声がさらに機械的になって琴奈の耳に入ってくる。
(いよいよ……来る)
自分は生き残ることができるのか。明人や莉乃は大丈夫なのか。
琴奈の中にある不安の種は、祥吾のおかげで弱まりこそすれど消えてはいない。だけどいつも通り戦えるくらいにはなっていた。
琴奈は今聞いたことを伝えようと振り向いた。すると、皆が琴奈を見ていた。もう何を言いたいのかわかってるのか、緊張感のある顔つきで。そして何かを求めるように琴奈を見つめていた。
何を求めているのか琴奈はすぐにわかった。それはいつも自分が明人に求めていたものだから。
それを今自分が求められている。そう思うと少し顔が引き締まるような気がした。
そしてスゥと少し大きく息を吸い、告げる。
「戦争の時間です。みんな、準備はいいですか?」
戦闘前の鼓舞。それは最強の役目だった。力が全てのここでは、力あるものは敬意を払われるここでは、最強がそれを行うのが一番効果がある。
そして明人のいない今、最強は黒羽琴奈だ。
「感情は捨てましたか? 常識は捨てましたか? 容赦は捨てましたか? ――同情は捨てましたか?」
それはかつて明人が口にして、いつしか鬼と戦う心得になったこと。皆それを理解しているし、捨てることもできている。
彼らは奴隷だ。鬼を喰らう奴隷だ。鬼を喰らうのだから、同じ鬼にまで堕ちなければならない。
わかっていても聞くのは儀式のようなもの。これから鬼になる、儀式のようなものだ。
「鬼は悪です。私たちは悪です。悪をもって悪を喰らう。それが喰鬼奴隷。さあ、今日も殺しましょう。今日も喰らいましょう。悪の鬼どもは皆殺しです!」
その瞬間、堰を切ったように歓声が湧き上がった。たかだか二〇数名。だがその声はまるで倍以上の人が発したもののように大気を揺らす。
その中で琴奈は一人、ホゥと小さく息を吐いた。自分に士気がないわけじゃない。ただ、少し疲労感を感じただけ。
琴奈はそこでふと視線を感じた。皆がやる気に溢れている中、祥吾だけが彼女を見ていた。いつものようにニヤニヤと笑みを浮かべ、そこにはありありと『もう大丈夫なのか』と書かれているようで。それは心配してのことじゃなく、明らかにバカにするような表情。
だから琴奈は祥吾に声をかけた。
「どうしたんです? 祥吾さん。なんかいつもより大人しいですね。もしかして怖気付きました?」
「ハッ。冗談! 殺る気しかないな! それより、お前はどうなんだ?」
それを受け、琴奈は一度目を瞑った。
ずっと追いかけてきた。ずっと隣に立ちたいと願い続けてきた。ずっと共有したいと思い続けてきた。
それは五年前、明人に助けられたからじゃない。喰鬼奴隷での明人との生活が、琴奈にそう思わせていた。
だが今、目標だった明人はいない。
(明人さんが何を考えてるのかはわからない。でも壁はあるけどきっと明人さんも私たちのことを大切に思ってくれてる。だからきっと来てくれる。私はそう願ってる)
琴奈は大きく息を吐き。そして、全ての憂鬱な気持ちを吐き出すかのように、大きく嘆息する。
(明人さんはこの状況を切り抜けられる。だから私もできないと、隣に並べない。並ぶ価値がない。だから私は殺す。全ての鬼を殺してみせる)
そう決意して、琴奈は目を開ける。そして祥吾に背を向け、来たる鬼達を睨みつけるように視線をとばし。
ニヒルに笑って琴奈は言う。
「奇遇ですね。私もです!」
◆
「…………」
どこかから歓声が聞こえてきた気がして、思わず振り返った。
だがそこには何もない。ひび割れたコンクリートの地面を緑が多いつくし、ところどころで車や瓦礫など人間の痕跡が顔を出している。見渡す限り同じような光景が続き、それを頭上から月が見下ろしていた。そしてそのさらに向こうにぼんやりと灯りが見えるあそこが喰鬼奴隷。俺がつい数時間前までいた場所。
ああ、そういえばもう直ぐ喰鬼奴隷が戦闘態勢に入ることか。もしかしたらその歓声かもしれない。
「……っ」
そう考えて、その考えを否定するように拳を強く握る。
歩いてここまできたから走るよりかは距離が少ないとはいえ、そんなもの聞こえるはずがない。そんなことはわかりきっているし、そもそもあそこのことを考えていること自体が気に食わなかった。
「お前は逃げ出したんだろ……呉嶋明人……!」
あそこのことを考えると言うことは、すなわち捨てきれていないということ。いつでも切り捨てれるなんて言っておいて、それができていないということ。いつまでもダラダラと引きずっているということ。
それが我慢ならなかった。そんな自分の弱さが嫌だった。
「俺は逃げ出したんだ。だからもう」
あそこには、戻れない。
前を向き、歩き出す。一歩歩くごとに腰にぶら下げた刀がガチャガチャと音を立てて、それに合わせて体が重くなっていくようだった。
確かに昨日、俺は琴奈に慰められた。彼女の慈悲に包み込まれ、ひと時とはいえ俺はそれに浸ってしまった。
彼らにも事情があることはわかった。俺と似たような苦しみを、あそこの誰もが味わってきたと理解した。
理解して、あの温かな場所ならもしかして――なんて、考えたりもした。
だが俺の理性がそれを許さない。
確かにあそこの仲間意識は琴奈を筆頭にかなり高い。血は繋がっていないが、それこそ本当の家族のように。ならば俺も受け入れられるんじゃないかと、そう考えてしまう。
だがしかし。
どうしても脳裏に浮かんでくるのだ。
大変異のあの時、俺を拒絶した家族の姿が。
血が繋がった家族に裏切られておいて、どうして血の繋がってない家族は大丈夫と思えるのだろうか。
琴奈たちならきっとと、どこかで考えている。
あいつらもどうせと、どこかでは感じている。
頭がごちゃごちゃのまま、体の中で何かがうごめいているような気持ち悪さを感じつつ、俺はあそこから背を向けていた。
「あ――っ」
思わずいつもの口癖を口にしようとして、慌てて飲み込んだ。
「……ああ、くそ……」
そしてそう言いながら開いたままの口を閉じる。
失敗だなんて言いたくなかった。
失敗だなんて思いたくなかった。
これが正しいと俺の理性は告げていて。
だけど意識は背後へと向かっていて。
忘れようとしても、静寂と代わり映えのしない景色は意識を内側へと引っ張っていく。
何をするべきか。
何が失敗なのか。
何が正しいのか。
何をしたいのか。
堂々巡りのような思考の中、ただただ無意識に足だけは前に進んでいて。
「……寒いな」
荒野に吹く夜の風が、やけに冷たく感じた。




