13話「幼鬼の提案」
無意識のうちに喉が鳴った。カサカサになった口内で舌を動かす。意識が彼女から逃げるように、舌先に当たる牙の感触がいつもよりはっきりしている。
鬼域で一目見た瞬間から。琴奈が連れてきた時から。いや、もしかしたら俺とこいつがかつて住んでいた鬼域に訪れた時から。きっとこうなると、いつか逃げられない時が来ると、俺はわかっていたのかもしれない。
「――っ」
目を逸らそうとしても逸らせず、ただただ顔を顰めるだけ。俺は普通の鬼で、莉乃は幼鬼だ。それはまさに蛇に睨まれた蛙。頬を伝う冷や汗すらはっきりと感じる。
「……む。ねえお兄ちゃん。せっかくの再会なんだから、あいさつくらい返してくれてもいいじゃん」
いつまでも何も返さない俺にしびれを切らしたのか、唇を尖らせながら彼女はそう言った。その姿ははたから見れば拗ねた少女のようで。だがしかし俺はそのうちに秘める残虐性を知っている。だから彼女の表情一つでまた一筋汗を流した。
「……お兄ちゃん?」
「……久し、ぶりだな」
「うん、そうだね。でもどうしたの? なんだか辛そうだよ?」
彼女が俺に近づいた。俺の目の前まで来て、俺の顔を見上げながらそっと手を伸ばす。頬にヒヤリとした冷たい感触。明らかに熱のあるやつの温度じゃない。
「……やっぱり熱っていうのは嘘か」
「あたりまえだよ。鬼が熱を引くはずがないんだから。わたしが欲しかったのはあれのほう」
そう言って莉乃はさっき外した布を指さした。
つまりは俺が年がら年中口に布を巻いているのと同じ理由――牙を隠したかったのだ。
「牙を折って治癒能力を抑えてここに侵入。で治っている間はあれで隠すってことか」
「さすがお兄ちゃん、ってほどでもないか。お兄ちゃんもこの方法でここに入ったんでしょ?」
「…………」
その沈黙を肯定と受け取ったのか、莉乃は「むふー」と得意げにほほ笑んだ。
自我持ちはコツさえつかめば自身の治癒能力をコントロールできる。だがそれも万能ではない。感覚は傷のある部分を常に力んでいるような感じ。実際に力むのと同じで、限界がある。俺でも押さえておくのは数日が限界だ。莉乃は俺より性能が断然いい幼鬼。治癒能力も強力になり、抑えておくのも俺よりつらいはずで。
よくもまあ五日ももったほうだと、感心してしまいそうになる。
「…………」
「ん? どうしたの?」
俺は探るように彼女を見下ろした。無邪気にこちらを見つめるその大きな瞳は、五年前から変わっていない。
幼鬼ともなれば、治癒能力を抑えるのが逆につらい。だからこそわからない。莉乃が何を考えているのか、見当もつかない。
「んーやっぱ辛そうだね、お兄ちゃん。さては最近血飲んでないでしょ」
「――っ!」
両手にチクリとした痛み。気が付けば鬼の感覚で痛みを感じるほどに両手を強く握っていた。
ばれている。元々知っていたのか、今気が付いたのかわからないが、目の前の彼女にはもうばれている。
「もう。ちゃんと飲まないとだめだよ? いくら不老不死の鬼とはいえ、血がなかったら死んじゃうんだからね」
それはまるで子供をたしなめる親のように。……いや、事実彼女からすれば俺なんて子供のようなものなのだろう。鬼と幼鬼の実力差はそこまでに広い。
「周りにこんなに人間がいるんだから飲んじゃえばいいのに。んー、そうだね。琴奈お姉ちゃんなんてどう? 多分ここだと最年少だし、健康状態も良好。味もいいよ」
「いきなりあいつが死んでも怪しすぎるだろ。お前が人間だったら真っ先に飲んでやるのにな」
「怪しすぎる、ね……。別にお兄ちゃんが犯人とは思われないんじゃない? わたしが送り込んでる鬼もいっぱい殺してるみたいだし、人望はあるでしょ?」
「……ああ、そうかもな」
「…………」
莉乃は呆れたようにため息をついた。なにについて呆れているのか。見当もつかず彼女を睨みつければ、彼女はもう一度ため息をついた。ため息をつき、一歩、また一歩と俺から離れていく。
「それにしても、もう五年かあ。もう八〇年近く生きてるわたしたちからすれば短いけど、お兄ちゃんがいないってだけでなんだかすごく長く感じたよ」
彼女は俺に背を向けてそう口にした。隙間風で彼女のポニーテールが揺れ、俺の頬をなでる。だがそこからは待ってもなにも来なかった。刺すような静寂。
今更俺に鬼として接触してきて、なんのつもりなのか。わざわざ琴奈がいないわずかな時間を使って、まさかそんな世間話がしたかったわけじゃないだろう。口を開こうとした瞬間。莉乃は振り向いて、言葉を紡ぐ。
「……ねえ、お兄ちゃん」
彼女の表情は先ほどまでのものとどこか違っていた。笑みを浮かべてはいるが、どこか不安げで。つい昔の癖でどうかしたのかと声をかけそうになって、あわてて口を閉じる。それすら彼女にはお見通しだったのだろう。小さく笑うと、また不安げな笑みに戻った。
そして、その表情のまま、言う。
「――鬼側に戻ってこない? また、昔みたいに一緒にいよう?」
「……っっ!!」
気が狂いそうになるような衝撃。数多の感情が口から飛び出そうになるような、腹の底から何かが湧き上がってくるような。頭が殴られたようなとか、そんな生易しいものじゃない。本当に気が狂って、暴れだしそうになるようだった。
「お前がっ……お前が、それを言うのか……!!」
手のひらに爪がさらに深く食い込んで。口の布の下でギリと奥歯がきしみ。頭は沸騰するかと思うくらいに熱く。跳びかかりそうになる四肢を必死で押さえつけた。
「五年前、俺を追い出したのはお前自身だぞ……! 五年前、俺を殺そうとしたのは、お前自身だぞ!」
「――っ」
その時初めて莉乃は顔を歪めた。何かに耐えるような表情。だがそれでさえ、今の俺には感情を荒ぶらせる要因にしかならない。
なぜお前がそんな顔をするのかと。お前は何を考えているんだと。
そう思わずにはいられない。
「昔みたいになんて無理に決まってる。俺がお前に裏切られて、殺されかけたという事実は消えない」
ついに莉乃は顔をうつむかせた。よく見れば肩が細かく震えている。
そして少しすると、ボソボソと何かが聞こえてきた。
「……ちゃんが、……じゃん」
「は?」
「お兄ちゃんが先に裏切ったんじゃん!」
「は!?」
「お兄ちゃんが、人間を助けたからじゃん……!」
「それは……」
莉乃は顔を勢いよくあげて俺を強く睨みつけ。そうはっきりと口にした。
そして、今度は俺が顔を歪める番。
確かに、俺は人を助けてしまった。五年前人の血を飲みに来た時、襲われていた少女を――黒羽琴奈を助けてしまった。そして莉乃が俺を殺しかけたのはそれが原因というのもまた事実で。俺はそのことについて何も言えない。
「ねえ、お兄ちゃん。忘れちゃったの? 人間は、悪なんだよ。私たち鬼や自我持ちよりもずっと。先に裏切ったのは、あっちなんだよ?」
「…………」
「ねえ……お兄ちゃん。忘れちゃったの? 大変異があってからしばらくのこと。あいつらが私たちにしたこと」
「……忘れるわけ、ない」
忘れるわけがない。忘れられるわけがない。あの時期は毎日が傷心の日々だった。俺も莉乃もお互いがいたから壊れこそしなかったが、その一歩手前までは来ていた。事実莉乃は人を憎むようになった。
「なら……」と、なんの感情ゆえか眉をひそめながら、彼女は俺に問いかける。
「なんであの時助けたの?なんでまだ人の近くにいるの?」
「……それしか、なかったから」
「自我持ちは強いよ。一人でも生きていける。たとえ人を殺して大勢に狙われても、返り討ちにできる。それしかなかったなんてこと……ないよ」
その通りだ。祥吾にも言った通り、莉乃が言う通り、自我持ちは強い。血さえ飲めればそうそう死ぬことはない。
……なら、なぜ俺はここにいるんだ? バレるとかなんとか言って、なぜここに居続けているんだ?
グラリと頭が揺れる感覚がした。顔は下を向き、視界がだんだんぼやけ、思考に意識が吸い寄せられる。
そんな時でも遠慮なしに、莉乃は俺に語りかけてくる。
「ねえ、もう一回聞くよ? ――わたしと一緒に来てよ。鬼域に帰ろうよ。また一緒にいようよ」
「…………」
「断るなら……わたし、ここ潰すよ。喰鬼奴隷のみんなを殺すから」
「っ! お前……!」
飛び上がるように顔を上げた。意識が一気に現実へと引き戻される。
俺の視界に映るのは、まっすぐ俺を見つめる莉乃の姿。それを見てすぐにわかった。こいつは本気だ。
だが俺はわざとらしく、仰々しく、見せつけるように鼻で笑ってみせた。
「お前脅しのつもりか? あいつらを人質にしたつもりか?」
「……そうだけど?」
「それなら残念だったな。あいつらは人質にならない」
確かに俺は五年もの間ここに居た。あいつらとともに幾度となく死線をかいくぐってきた。遺憾ながら友情のようなものも生まれて。かなり大きなつながりといってもいい。
だがしかし。
俺にとってあいつらが全てというわけじゃない。いつでも切り捨てることができる。切り捨てれるようにしてきた。切り捨てれるようにしてきたつもりだ。
「なら、いいんだね? 拒否って考えて、いいんだね? ここ潰しちゃって、いいんだね? 皆殺しで――いいんだね?」
念を押すように莉乃は何度も訪ねてくる。だが俺の答えは変わらないし、揺らがない。切り捨てれるからこそ。
「ああ、勝手にしろ」
そう、はっきり告げられる。
もう話は終わりだろう。俺は彼女に背を向け、扉に向かって歩き出した。背後から「わかった」と冷めた声が通り過ぎる。
「うん、そう言うことなら勝手にするね。どのみちお兄ちゃんに断られたら近々ここは潰すつもりだったし。人が鬼を殺してるなんて、考えたくないし」
「…………」
「明日、大量の鬼を攻め込ませるから。いつもの何倍もね。もちろんわたしも加わる。きっと喰鬼奴隷でも耐えきれない。皆殺しだけど……ねえ、お兄ちゃん」
最後の呼びかけ。少し低くなったその声に、ドアノブへと伸びていた手が自然と止まった。
「最後に聞くよ。――本当に、いいの?」
「――っ!」
声が出なかった。なぜか乾いた息だけが漏れた。
「ああ」と軽く答えようとしたんだ。その時ふと、ドアノブに伸ばした右手に巻かれた布の切れ端が目に入った。
他でもない、黒羽琴奈に巻いてもらったもの。
瞬間、脳裏に彼女の顔が浮かんだ。いつもの笑った顔。戦闘の時の冷徹な冷たい顔。鬼域で初めて見せた怯えた顔。その全てがフラッシュのように頭を駆け巡り、俺の喉の時間を止める。
切り捨てることができるはず。できるように今までやってきたんだから。なら、彼女の顔が、喰鬼奴隷のやつらの顔が頭から離れないのはなぜだ?
まるで体が鎖できつく締められているようだった。少しも動かず、動かそうとすれば軋むようで。
だが俺はなんとか絞り出すように。
「……あ、あ」
自分でもわかるほどに、風が吹けばかき消えてしまうくらいに弱々しく、そう口にして。
軋む体を無理やり動かし逃げるように莉乃の家を後にした。
そして後ろ手でドアを閉めた途端、ドッと疲労感が全身にのしかる。
「はあっ……はあっ……はっ……は……」
荒い呼吸。胸に手を当て、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせた。
そう時間もかからず呼吸は落ち着いた。だが気持ちまで落ち着いたわけじゃない。落ち着けるわけがない。
「ああもう……くそっ……」
自然と俺の足は動いていた。どこに向かうとか、そういうことじゃない。それこそまるで莉乃から逃げるように、いつもの倍近くの速さで俺は歩いていく。
莉乃の家の隣、ちょうど琴奈の家の前を通り過ぎようとした時だった。タイミングを伺っていたのかと思うくらいにちょうどよく扉が開いた。
「あれ、明人さん?」
そこから出てきた琴奈は、まさにキョトンとした表情を浮かべていた。その手には定期便でもらったであろう、この場所には不釣り合いな綺麗なティーセット。
ああ、そういえば莉乃と二人きりになったのはこいつのせいだったか。俺と莉乃の仲を取り持とうとしたのに俺がここにいるなんて、琴奈からしたら不思議なことだろう。
彼女を責めるつもりはない。琴奈はあくまで俺と莉乃を思って行動したに過ぎないから。
……いや、責めないわけじゃない。責める余裕がないだけだ。
「ちょ、ちょっと明人さん!? どこ行くんですか!?」
慌てた調子で彼女は俺に声をかける。そしてそのまま通り過ぎようとする俺の腕を掴んだ。
「すまん。調子が悪い。帰らせてくれ」
だが俺は止まれない。端的にそれだけ口にして琴奈を剥がし、無理やり前に進んだ。背後から俺を呼び止める声が聞こえるが、それからも逃げるようにただ歩く。
俺は鬼だ。だから痛覚も人より感じない。だというのに、琴奈に強く掴まれた部分がやけに熱を持っている気がした。
「失敗じゃない。失敗してない。……失敗なんか、していない……!!」
その部分を抑えながら、何度もそう口にしながら、ただただ前へと歩き続けた。




