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12話「鬼と鬼」



 後戻りといえば後戻り。

 莉乃の血に反応してから途方にくれて。そして定期便の男を襲おうと考えつき、実行すれば失敗して。結局俺は一昨日と同じように座り込んで虚空を眺めていた。


「……いや、後戻りじゃないか」


 ハッと自嘲気味に笑みがこぼれる。

 何が後戻りだ。戻ってなんかいない。むしろさらに悪化した。


 ダランと垂らした右腕に視線を移した。傷一つないはずのその手のひらには相変わらず琴奈が巻いてくれた布が巻いてある。だがその下には確かにあるのだ。真っ黒に変色した俺の手のひらが。

 血を飲むのに失敗して翔に正体がバレて。しかも黒化までしはじめて。

 ああ、そういえば定期便の男を殺して、そのままだ。本来なら血を飲んで殺した後、機関車に男を乗せて動かし、自分は降りるつもりでいた。でもそんな余裕もなく俺は死体も機関車も手をつけていない。


「はぁ……」


 重く、大きくため息を。じっと扉を見つめてはもう一度息を吐いた。

 カーテンの隙間から差し込む光の帯が床に突き刺さっていた。気がつけばもう朝。時間で言えば8時くらいか。皆が起きて定期便の受取場所まで行き、昨日の惨状を目にするのも時間の問題。

 ただただ呆然としたまま扉を見つめる。

 そこを叩くのは古堅の無機質なノックか。琴奈の軽いノックか。それとも扉をぶち壊して他の奴らが入ってくるのか。

 そうなれば今度こそ、逃げ場はなくなる。殺す以外の方法が本当になくなる。


「――っ」


 思った以上に気持ちが沈んでいることに気がついた。

 別になんともないはずだ。以前と同じように戻るだけ。

 憂鬱な気分を吐き出すように、またため息をついたその時。


 コンコン、と。


 静かな部屋に響く軽いノック。


 ついにきた。ヒュッと短く俺は息を飲む。

 来たのは琴奈か、古堅か。いつも以上に重い体を起こして、扉に向かった。いつもの布を口に巻いたのは、まだ儚い希望を抱いているせいか。


「……どっちでもいいか」


 希望を持とうが持たなかろうが。結果はきっと一つだけ。ただ絶望の度合いが変わるだけ。

 ならもうどうでもいい。なるようになるだけだ。


 半ば投げやりになりつつ、俺はドアノブを回し扉を開けた。




「……はあ、失敗した」

「またそれですか? 失敗なんて言わなくてもいいじゃないですか」

「あの……私のせい、です、よね。ごめんなさい……」

「もうなんでもいいわ……」


 柔らかく白っぽい朝の空気の中、げんなりとしたまま俺と琴奈と莉乃でいつもの道を歩く。


「なんで俺がこんなこと……」

「古堅さんが言ってましたよ? 明人さんと私は保護者みたいなものだって」

「にしたってこれは」


 そう言いつつ手元に視線を移した。そこにあるのは小さなテーブル。しかもこの場所に似合わなすぎるピンク色。ほかでもない莉乃用の家具だった。

 それを俺と琴奈で持って歩く。俺と同じように口に布をつけた莉乃が隣を歩いていた。


「しょうがないですよ。ここに運んでくれる人なんていないでしょうし。……もうちょっと力入れてくれません?」

「入れてるって」




 朝扉を開けてそこにいたのは琴奈だった。何の用かと問えば、定期便に莉乃用の家具があるから運ぶのを手伝ってほしいとのこと。もちろん断ろうとした。俺の正体についてどうなっているのかまだわからなかった。それに定期便がどうなっているかもわからなかったし。しかし琴奈が一生懸命に俺を説得する中、莉乃が。


『えっと、ごめんなさい……いそがしい、ですよね……わたし轟お兄ちゃんに頼んでみます』


 そう口にした。そして思いだすのは昨夜の祥吾。莉乃はそれを狙っていたのかたまたまか、俺は思わずわかったと口にしていた。

 そのあと機関車の発着場に行き。

 これについてはなぜか定期便には何もなかった。死体も、機関車もだ。ついつい

声を上げてしまうくらいには衝撃を受けたが、結果理由もわからないまま。何かないかと探そうにもすぐそばには琴奈と莉乃がいる。

 結果なにもわからないまま莉乃の家まで彼女の荷物を運んでいた。


「あの……お兄ちゃん、本当にごめんなさい。迷惑かけて……」

「自覚してるなら頼んでくれるな」

「うぅ……」

「もー! なんで明人さんはそういう言い方するんですか!……ごめんね? 莉乃ちゃん。明人さん、普段はこんなんじゃないんだけど……」


 正面の琴奈から責めるような視線が突き刺さる。だが訂正するつもりはない。俺はそれに顔を逸らすことで答えた。視界の外で聞こえる琴奈のため息。莉乃の表情がさらに曇った。


「明人さんは莉乃ちゃんが嫌いなんですか?」

「え……そう、なんですか……? わたし、なにかしましたか……?」

「嫌いというか、苦手なだけだ」


 弁解とも言えない俺の返答に、莉乃は顔を俯かせる。琴奈がこちらを睨みつけているような気がしたが、俺は彼女から顔を逸らしている。気が付かないふりをした。



 それからはこれといった会話もない。俺と琴奈で机を運び、そこに莉乃が付いてくる。そんな状態のままひたすら歩き、すこしすると莉乃の家が見えてきた。

 喰鬼奴隷のいる場所は円形になっている。中央に少し大きめのホールがあり、それを囲むようにいくつか小屋が建てられている。とはいっても喰鬼奴隷自体人数が多いわけでもなく空き家も多い。莉乃、琴奈の家は彼女の性別も考慮してか、他のメンバーの家よりも少し離れたところにあった。

 確か運ぶのはこれで最後だったはずだ。もうこれであそこと定期便の発着場所を五往復したことになる。これで終わるかと思えば、なんだか体が重くなるような気がした。


 そして莉乃の家に到着した。外見は他の小屋と何も変わらない。ぱっと見ただの直方体で、コンクリートの壁は無機質さを際立たせる。頑丈なプレハブといったほうが分かりやすいかもしれない。


 琴奈も疲労はたまっていたのだろう。莉乃の家の扉前まで来て小さく息っを吐いた。


「莉乃ちゃん、ドア、開けてくれる?」

「う、うん。わかった」

 

 莉乃が少し背伸びしながら扉を開けた。そこに俺と琴奈がテーブルを持ったまま入り、部屋の中央あたりに置く。そして俺も琴奈の今度は大きく息を吐いた。


「はぁぁ。やっと終わりましたねー」

「ああ、疲れた」

「えっと、ありがとう、ございました……」


 琴奈とともに座り込みながら、視線をあたりに向ける。

 外見と同じく、中も俺や他の奴らの家と何も変わらないようだった。むき出しのコンクリートの壁。裸の電球が隙間風でユラユラと揺れる。その中に置かれたピンクを基調とした、テーブル、ベッドなどの家具たち。なんとも違和感を覚える光景だった。


「んー……壁紙とかもあればよかったんですけどねー。ごめんね。なんか息苦しいでしょ」

「そんな! ベッドとかだけでも、十分ありがたいです……」

「そう? でも莉乃ちゃんだって年頃の女の子なんだし、もっと可愛くしたほうがいいよ! 次の定期便で頼んでみよっか。また私も明人さんも手伝うから!」

「俺も……?」


 莉乃の前だからか琴奈の表情も言葉遣いもいつもより砕けていた。琴奈は俺に対して基本敬語だ。砕けた口調の彼女がなんだか新鮮だった。

 それに表情もなんだかいつもより明るい気がする。

 幼鬼が殺せないと知った時も、鬼域で莉乃を助けた時も、莉乃にこれほどまでに入れ込んでいると知った時も、なぜと疑問に思った。でも目の前の琴奈を見ていると、ただ単に子供が好きだからなんじゃないかと思えてきて。

 その相手が莉乃というのが少し思うところがある。でもここまで楽しく、気楽な琴奈を見ているとそれもまあいいんじゃないかなんて、つい笑みがこぼれてしまいそうになってしまった。


 

 それはともかく。



 これで頼まれていたことも終わりだ。これ以上ここにいる理由もない。なぜか機関車も死体もなく、琴奈も何も知らないようだったが、昨夜の件がどうなっているかまだ正確にはわかってないのだ。

 だからさっさとここから出ようと。

 キャッキャとはしゃぐ彼女らにバレないようにそっと立ち上がった時だった。


「そうだ、お茶しませんか?」


 琴奈が急にこちらを向き、そう口にした。


「……いや、俺は――」

「遠慮は無用ですよ。私お茶とかお菓子とか持ってきますね!」

「いやだから――」

「明人さん、逃げずにここにいてくださいよ! ――莉乃ちゃん、明人さんのこと、見張っててね」

「う、うん」

「ではいってきます。すぐに戻ってきますね!」


 まさに嵐のよう。俺に一切の反論を許すことなくまくし立てた琴奈は、一瞬だけ俺を見ると風のように飛び出していった。残されたのはただ呆然としたまま扉を見つめる俺と莉乃だけ。


「はぁ……」


 大きくため息をつき、腰を下ろす。口の布が自分の息で少し揺れた。


「なんだっていうんだ……」


 小さく呟く。琴奈の勢いに押され、もう出て行こうなんて気はなくなってしまっていた。


 俺をここに残して他のやつらで不意打ちするつもりかもしれない。

 そんなことを考えつくも、すぐに否定した。

 俺が鬼ということを知るには祥吾を通さねばならない。なら俺の実力も、自我持ちの力についても知られるはずだ。俺がその程度の不意打ちで殺されないと、他でもない祥吾がよくわかっているはず。


「いや、違うな」


 琴奈の行動の理由がそんなものではないと、俺がよくわかっていた。

 彼女が出て行く寸前に俺に向けた表情。あれは間違いなく笑みだった。

 結局彼女は俺のことを考えていたのだ。ただただ不仲な俺と莉乃の間を取り持とうとしただけ。


 まったく、あいつらしい。誰よりも喰鬼奴隷のメンバーが好きなあいつらしい。

 ついつい笑みがこぼれる。その試みがうまく行くかは置いておいて、その気遣いが嬉しくて。だが喜んでばかりもいられない。

 何が悲しいって、彼女の気遣いが実る可能性がゼロということだ。



「ふぅ」



 背後から息が漏れる音がした。

 体から力を抜くような息遣い。俺がしたんじゃないのだから、それは莉乃から漏れたもので。しかし最近の彼女とは明らかに違っていた。

 最近の彼女はどちらかといえば弱々しい、オドオドした印象を受ける。だがその嘆息一つとっても、そんな印象少しも感じない。


 その嘆息が全てを表していた。彼女がもう偽るのをやめたと、ありありと表していた。

 ついつい漏れそうになったため息を、口から出る寸前で飲み込む。別に漏らしても問題はなかっただろうが、俺がしたくなかった。


 だがしかし、心は確かに憂鬱で。

 ああ、ついにきてしまったか、と。

 そう心の中でつぶやいて。


 逃げていたのかもしれない。考えないようにしていたのかもしれない。はたまた、忘れていたのかもしれない。

 どちらにせよ、俺は今まで彼女と二人きりになるのを全力で避けてきた。彼女を遠ざけてきた。

 だがそれもこれで終わってしまった。琴奈の、琴奈らしい、ありがたく、嬉しい心遣いが終わらせた。


 振り向きはしない。彼女に背を向けたまま、しかし背後に意識を集中させる。


「いい子だよね。わたしとお兄ちゃんの仲をどうにかしようとしてくれてる」

「…………」

「鬼に連れ去られたらしいわたしの面倒も甲斐甲斐しく見てくれるし。うん、本当にお姉ちゃんって感じ」

「……ずいぶんとぺらぺら話すな。さっきまでのは演技だったのか?」

「あはは。お兄ちゃん、本気で言ってるの? 仮にも七〇年間一緒にいた間柄でしょ?」


 そんなわけないだろと、心の中で毒づいた。不本意ながら彼女のことはほとんど知っていて。だからこそ、俺はイラつきを覚えるのだ。


「ねえねえお兄ちゃん。いつまで背を向けてるの? こっち向いてよ」

「――っ」


 心臓をつかまれたような感覚。冷や汗が背中をつたって、異様に喉が渇く。動機をごまかすように短く息を吐いて。

 抗おうにも、抗えない。それはまるで勅令のようで。俺はその言葉の通り、ゆっくりと振り返る。

 そこにいるのは相変わらずの莉乃だった。だが少し違うのはうつむき気味だった先ほどとは違いまっすぐ俺を見据えて。力強い視線を俺に向けながら、自信を感じる笑みを浮かべている。


「あーもう。やっぱ口のこれ邪魔なだけだよ。髪もうっとおしい。お兄ちゃんもそれとったら?」

「…………」

「琴奈お姉ちゃんならすぐには帰ってこないはずだよ。すぐに帰ってきちゃったら琴奈お姉ちゃんの目的は達成できないし」

「……いや、俺はいい」

「……まあいいや」


 少し笑みを曇らせながら、彼女は口の布をとった。そしてどこからか紐を取り出し、髪をまとめて結ぶ。「よし」と彼女が満足げにうなずけば、銀色のツインテールがその動きに合わせて跳ねた。

 機嫌のよさそうな莉乃とは反対に俺は顔をしかめてしまう。

 自信にあふれた笑み。銀色のツインテール。その話し方。ほぼすべてが変わらず彼女であり、俺に嫌な記憶を引き起こさせてくる。

 違うところといえば、髪の色だけ。昔会ったときは金色だったが、いつのまにか銀色に変わっていた。


「うん、やっぱこっちのほうがしっくりくるな。お兄ちゃんもそう思うでしょ?」

「…………」


 相変わらず俺は何も答えない。莉乃の気分を害したかと思ったが思ったよりそんなことはないらしく、「もう」とあきれたようにつぶやくだけ。


 そして彼女は両手を自分の背中で組んで。


 目を猫のように細め。


 にぃと口角を上げ、気持ち悪いくらいに横へ引き延ばし。


 その口の中で異様に長い牙(・・・・・・)がきらりと光り。


 まるで似合わなず、その年にふさわしい。



 ――鬼のような、天使の笑みを浮かべて。



「ひさしぶり。お兄ちゃん」



 幼鬼である(・・・・・)白谷莉乃は。自我持ちである(・・・・・・・)白谷莉乃は。


 満面の笑みを浮かべて、そう言った。

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