10話「鬼が持った希望」
明るくない、だが暗くもない、黒と白の間のような部屋。妙な薄暗さは暗闇よりも不安感を煽ってくる。
そんな俺の部屋の片隅で俺は座り込み、少し先の地面を睨みつけていた。こうしていると、五年前いた鬼域でのことを思い出す。
あそこと今の俺の部屋は似ていた。部屋を覆い尽くすむき出しのコンクリートは圧迫感を生み出すし、家具が少ないのは向こうもここも変わらない。ここでじっとしているとジワジワと染み込んでくる不安感。そしてなぜかそれに安心すること。
つまるところ、俺はこの部屋が幾分か気に入っていた。
もう俺と琴奈が莉乃をここに連れてきて、早いもので五日だ。その五日間の間、俺はずっとここにいた。食事もとらず、訪ねてきたやつにも最低限の対応しかせず。時折外から入ってくる喧騒をバックに、ずっとこの調子だ。
あの夜吸血衝動に駆られた後、俺はすぐに寝た。今思えばあれはやはり正解だった。あのままだったら俺は誰か適当なやつを殺していただろう。
確かにそれでも血は飲めるが、失敗だ。後に続かなければ意味がない。
だがこれからどうするかいい案が思いつかないのもまた事実で。
「いつまでもこうしてるわけにもいかないしな」
顔を上げため息をつく。
俺の元に訪ねてくるやつらも今はまだ俺が言えばそのまま帰っていくが、いつ強行突破してくることか。それに鬼が攻めてくるかもしれない。戦場では血が多く流れる。正直、我慢できる気がしない。
だがしかし、どうしたものか。
なんて余裕ぶってみても、かなり切羽詰まっていた。それも正体が露見することもやむなしと考えてしまうくらいには。
その時、扉から軽いノックオンが響いた。落ち着いた音からして、琴奈か古堅か。どちらにしても今の俺にとっては会いたくない人間だ。
何度目かわからないため息をつき、重い腰を上げる。口にいつもの布を巻き、ドアまで近づいた。そしてドアを少し開け、その隙間から外を覗き込んだ。
「おはようございます、明人さん」
棒読みともまた違う、だが機械的な声。相変わらず血色の悪い顔に無表情を張り付けた古堅がそこにいた。
「なんだ、古堅か」
「はい、私です。少しお邪魔しても?」
「はいはい。どーぞ」
ドアを開け、古堅を招き入れる。できるなら入れたくもないが、一応彼は俺たちの監視者でここのトップだ。逆らうわけにはいかない。
この薄暗いままでも駄目だろう。ドアを閉め明かりをつけると、蛍光灯がパチパチと不吉な音を立てた。
部屋の中心には椅子が二つ向かい合い、その間に小さなテーブルが置かれている。古堅はその片方の椅子に俺が何か言うよりも早く腰掛けていた。
いつものことだ。特に不満にも思わないし、雑談をする気にもならない。
俺は彼に続いて、その向かい側に腰を下ろす。
「明人さん、体の調子はどうですか」
古堅は静かにそう切り出した。
今なぜ俺が引きこもっているか。対外的には体調不良ということにしてある。特に間違いでもないし。
「ん、お前が俺の心配なんて珍しいな」
「あなたは喰鬼奴隷の最高戦力です。まだ鬼が攻めてきていないからいいものの、いざそうなった時に調子が悪いとこちらが困ります」
「ま、だろうな。そんなことだと思ったよ」
俺は居住まいを崩した。椅子の腰掛けにもたれかかり、頼りない音を立てて椅子が軋む。
だが彼は何も言わない。話さえできればそれで充分なんだろう。
「まだ少し悪いな」
「そうですか。早く治ることを願っています」
「……本当にそう思ってるのか?」
「もちろんです。あなたがいないと、私たちに不利益が生じるので」
あくまで淡々とそう述べる古堅に、ため息を禁じえない。それが彼の本心と信じるには、彼には表情が足らなかった。
「で、本題はなんだ? まさか俺の体調を聞くためだけにここにきたわけじゃないだろ」
「もちろんです。いくつか連絡事項が。といっても、そこまで多くもないですが」
そこで、んんっ! と彼は喉を鳴らした。
「まず一つ目。莉乃さんが風邪をひきました」
「ふーん。……ん? いや、待て。なぜそれを俺に言う」
彼女は五日前俺たちが連れ帰った後、驚くことにここで住み続けることになった。おそらく内地に連れ帰るのが正解なんだろうが、本人がそう望み、琴奈もそれを全力で後押ししているのもあって、ついに古堅も折れた。
そんな莉乃だが、あの夜彼女の血に吸血衝動を引き起こしてから、俺は一度も会っていない。だから関わりの強さでいったら琴奈はもちろん、なんならあれから積極的に絡みにいっているらしい祥吾にも負ける。
そんな俺からすれば莉乃がどうとかは特に知らなくてもいいし、知りたくもない情報だった。
「なぜって、当たり前です。あなたと琴奈さんは、莉乃さんの保護者的立ち位置なんですから」
だが古堅はそう言い切った。さも当然のように、相変わらず表情を変えずに。
「はあ? なんでそうなるんだよ」
「彼女は自我持ちに親を殺され、鬼域に攫われました。人間側に帰還しましたが、親がいないのですからその代わりが必要なのは明らかです。彼女はまだ幼い。自分で連れ帰ってきたんですから、責任を持ってください」
空いた口が塞がらないとはこのことか。
莉乃は捨て猫か、とか。連れ帰ったのは琴奈で俺は反対した、とか。
言いたいことはいくつかあった。だがどれも彼には響かないだろう。そう考えると口にするのもバカらしく、行き場をなくした言葉を飲み込みながら、俺はただ低く唸った。
「いやしかし、風邪か」
「不思議ですか?」
「いや、そんなことない」
なんとなく、なぜ彼女が風邪としたのか、俺には心当たりがあった。
「おそらく、緊張が解けたからですね」
「……ん、そうだな」
「彼女がここにきた時の状態からして、向こうはひどい状態だったと予想できます。琴奈さんから、鬼が莉乃さんを守っていたと報告を受けました。莉乃さんは自我持ちがいない時も鬼に見張られていた。気が休まる時はなかったことでしょう」
同情するような言葉だが相変わらず彼の顔は動かない。そのギャップの気持ち悪さもあって、同意することなく俺はただ古堅を見つめていた。
だがだんだんそれこそ壁を見つめているような気になり、こちらから視線を逸らす。そして誤魔化すように「なあ」と口にした。
「なんでしょう」
「莉乃は、その、どんな調子なんだ?」
病人のような顔に浮かぶキョトンとした表情。俺は思わず眉を顰める。
「……なんだよ。お前が言ったんだろ。責任を持てって。気にしたら悪いか」
「いえ、そんなことは」
彼はすみませんと頭を下げた。
「莉乃さんの話でしたね。基本――というよりいつも琴奈さんと一緒にいます。あとはそこに祥吾さんが加わることが多いですね」
「祥吾が?」
思わず聞き返す。
確かにあいつは子供が好きみたいなことを言っていたが。まだ興味を失っていないのは意外だった。
「はい。かなり熱心に絡みにいっているようです。他の人は皆興味を失って特に一緒にいるのは見かけません」
「……そうか」
「もう少し詳しく話しましょうか?」
「いや、いい。次の話頼む」
実際もう十分だった。あいつがどうしているのか。誰と関わっているのか。それさえわかれば十分だった。
だが目の前の彼は何を思っているのか、じっと俺を見据える。そこから少しの沈黙。そして諦めたように視線を手元に戻し、「では次です」と続けた。
「明日の夜、内地からの定期便が到着します」
「……俺は別に使ってないんだが?」
「使っていなくても知らせます。そう言う決まりですから」
「相変わらず真面目だな、お前は」
俺の皮肉にも顔色どころか表情一つ動かさない。それが気に食わず、心の中で舌打ちをした。
ここ、喰鬼奴隷は内地とは離れた場所にある。人は皆鬼から離れたいのだから、それも当たり前。離れていれば内地の人間は鬼の危機に怯えずに済むし、俺たちとしてもやりやすい。だが物資、これだけは不便だ。どうしても生産が内地で行われているからここでは物資不足になる。
それを補うのが、定期便。食料などから、個々人が注文したものまで全て届けてくれる。
「今回使っていなくても、次回使うかもしれません。定期便への注文は、定期便が来た時にしか受け付けていないんですから」
「……ああ、そうだったな。まあ俺はいつも通り、何も注文はないよ」
そうですかと、相変わらずの無表情で古堅は返した。その無機質さが、いちいち俺の神経を逆なでする。
ああ、イライラする。
おかしい。他の奴らはこの無機質さが嫌でこいつのことを嫌っていた。だが俺はそうでもなかったはずだ。そうでもないと言うよりは、どうでもいい。特にこれといった感情を持たなかったはずなのに。
「はぁ……」
一つ、ため息をつく。古堅は一瞬だけ視線をこちらに向けたが、すぐに手元の書類に戻された。
ここまで精神が不安定なのは、やっぱり血を飲めていないからなのか。イライラしている自分に落ち着けとさらにイライラして。そんな悪循環にもイライラして。自然と俺の足は貧乏ゆすりを始め、気がつけば俺は早く古堅が帰らないかと、そればかり考えていた。
古堅が書類に何かを書き留め、ではと席を立ったのはそれから五分後のことだったが、俺には一時間程度にも感じられた。
特に送り出すこともしない。俺は椅子に座ったまま、ドアに向かって歩いていく彼を見つめていた。
早くこれをどうにかしないと。どうやって血を飲めばいい。そればかり考えながら。
だが古堅が扉を開け外に出る時、思い出したかのように彼はこちらを向いた。
「ああ、そういえば」
「あ?」
「今回、ここに来る定期便は一人だけだそうです。時間と手が空いていれば、荷物下ろしなど手伝ってあげてください」
「…………」
「まあ、たぶんあなた方はしないと思いますが」
それだけ言い捨てて彼は出ていった。
乾いた空間の中で、扉の閉じる音がやけに大きく反響する。俺は何も言わないし、動かない。
ただただ目を少し見開いたまま、口を小さく開けたまま。
「そうか……一人、か」
口の中で転がすように、その言葉を確かめるように、一言。
先ほどまで頭を覆っていたイラつきは、気がつけばどこかにいっていた。そこに残ったのは、歓喜。口元は怪しく歪み、いくらか荒くなった呼吸が口を覆う布を揺らす。
「そいつしかいない……」
拳を机の上で強く握った。
他の場所からくる、一人の人間。古堅が言った通り、どうせそいつに関わろうとするやつはいないから、そいつはここにいる間ずっと一人だ。しかもいつも定期便はやることをやったら逃げるかのようにすぐここを後にする。それに加えて内地とここの間は鬼こそ少ないものの、いないわけじゃない。死んでも、誰も不思議には思わない。
なんて、なんて都合がいいんだろうか。
「もう、これしかないよな……」
そう、しょうがない。そいつしか都合のいいやつがいないんだから、しょうがない。そいつをやらないとダメなんだから、しょうがない。
しょうがない、しょうがない、と。何度も自分に言い聞かせる。
でも心のどこかでは、もう決心していた。
「――そいつを、殺そう」
◆
昼を忘れてしまいそうな闇の中、ポツポツと設置された頼りない電灯が大きな鉄の塊をぼんやりと映し出した。
一言で言えば、蒸気機関車。ムカデのように長い図体に、先頭には煙突がそびえる、一般に想像するそれとほぼ同じだ。少し違いがあるとすれば、機関車はそこまで長くもないし、綺麗でもないことか。動き出せば爆発してしまいそうなほどにそれは古びていて、喰鬼奴隷に対する扱いが見て取れる。
ここは喰鬼奴隷の一番外側、内地に近い場所。線路が引かれ、その傍らには今回の物資だろう、何かが山積みにされていた。
それ以外には何もない、普段なら人すらいない閑散とした場所だ。
そんな場所から少し離れたところ、闇に紛れ俺は機関車の傍らに目を向ける。
「……ああ、くそ。なんで俺がこんなとこに……」
風邪すら吹かない今ならその声は乾いた空気によく響いた。その声の主は機関車の隣でこちらに背を向け、何かの作業している。あいつが古堅の言っていたやつか。
「……ちっ」
小さく舌打ちを一つ。
背後から、しかも遠くから見てもよくわかる。
彼のざらついた声からして、中年の男か。そしてその歳にしては肥えた体。低い身長。健康状態も良さそうじゃない。
若く綺麗な血を好む鬼からしたら、最低の獲物だ。
久々の血と少し高揚していた気分が一気に下がった。この機を逃したら次がいつになるかはわからないが、気分が悪いのには変わらない。一つため息をつきながら歩き出した。
今辺りに人はいない。定期便が来ても受け取りに来るのはいつも次の日で、他のメンバーもここには来ない。
だから今しかない。
冷たい夜風が俺の髪の揺らし、足元で砂利がなる。俺と彼の間をやけに遠く感じた。が、歩いてしまえばどうということない。一分と経たない間にたどり着いた。
「なあ、そこのあんた」
その瞬間、面白いくらいに男の肩が跳ねた。それこそ本当に飛び跳ねたかと思うくらいに。思わず吹き出しかけた息を俺は無理やり飲み込んだ。
そして男はゆっくりと振り返った。失礼なことに、背後に何か恐ろしいものがいるかのように、ゆっくりと。
「な、なな、何の用だ」
「…………」
思わずため息が漏れ出しそうになった。
いや、それもしょうがないのだろう。内地の人間にとってみれば、俺たちは鬼となんら変わらない、殺人集団だ。
ひどく震えた、歯のなるような声。だというのにセリフだけ強気なのは精一杯の虚勢か。それとも俺たちが元犯罪者で自分は真っ当な人間だからと感じる、根拠のない優越感からか。
丸い顔。つり上がった鼻先。細い目。荒れに荒れた肌。一言で言ってしまえば豚のような顔を引きつらせ、怯える姿は滑稽だった。
「だから、なんのようだ。俺はい、いそがしいんだ」
彼は逃げるように一歩後ろに下がった。俺もそれを追うように一歩。
「いや、大した用じゃないんだ」
頭をかきながら俺も口にする。
さて、どうやって切り出したものか。
少し考えて気がついた。
ああそうか、特に考える必要もないな、と。
どうせこいつは今から死ぬんだ。俺が殺すんだ。俺が吸い尽くすんだ。だから別にこいつに気遣う必要はない。
昨日決意したからか、そんな考えは驚くほどすんなりと浮かんでくる。あまり気が進まなかった人から血を飲むという行為も、なんの抵抗もなくできそうな気がする。
「……ああ、そうだな。本当に大した用じゃない」
機関車を通り過ぎて吹き付ける夜の風が冷たい。それがいちいち口に巻いてある布を揺らして、鬱陶しかったところだ。
俺はそっと、口の布を外した。
「俺が頼みたいのは、ただ一つだけ」
常に隠して窮屈だったものが解放されて、清々しいというか、悪くない気分だった。いちいち心をざわつかせる目の前の男の怯えた視線も気にならない。いっそのことこれから血にありつけると、気分が高揚するくらいだ。
だからだろうか。自然と俺の口には笑みが浮かんでいた。
また一歩踏み出し、その人ならざる証を見せつけるかのように。頬を釣り上げ、大きく笑いながら、俺はそう言った。
「――お前の血をよこせ」
その言葉をかけられ、その証を見せつけられ、男の行動は早かった。
一瞬で顔を真っ青にして、後ろに振り向いて走り出す。正直腰でも抜かすんじゃないかと思っていただけあって、少し意外だった。
が、逃がすつもりは毛頭ない。足に力を込めて、思い切り蹴り出す。普段使うことのなかった鬼の域に達する身体能力。冷たい空気を切る感覚が懐かしい。
気づけば一〇メートルほど離れていた感覚を、一秒とせずに詰め寄った。そのまま頭を鷲掴み、地面に叩きつける。あくまで手加減して。
「がっ!」
少しこもったうめき声。倒れ込んだ彼の背に間髪入れずにのしかかる。なおも逃げようとジタバタスル腕を足で押さえつけ、頭をより地面へと押し付けた。
その時だった。鼻血だろうか、ほんのりと香る血の匂い。
「――っっ!!!」
瞬間、ゾクゾクした感覚が一気に全身を駆け上がった。恐怖でも悪寒でもない。どちらかというと、快楽。きっとこいつの血はドロドロして、オイルでも飲んでいるかのような味なんだろう。でも今の俺にとって、それでさえも極上のご馳走のようなものだ。
「な、なっ、なんで……お、鬼が……!!!!」
もはや震えすぎてどうにか意味を読み取れるほどの声。
きっとこいつは俺を知っているんだろう。俺はここに最高戦力としてそこそこ長い間いる。そんな俺が、鬼だった。鬼を殺す喰鬼奴隷が、鬼だった。
こいつの心中をうかがい知ることはできない。特に興味もない。
「別に、なんだっていいだろ」
そっと呟いた。なんでと聞かれても、そうするしかなかったとしか言えないし、そんなこと話している時間もない。
彼の首元に口を近づける。見た目に違わずその体臭はいい匂いとは言い難く、つい眉をしかめる。
でも止まらない。
なんでもいいから、早く飲みたかった。
やっと、やっと飲める。
ずっと飲みたかった血が、やっと飲める。
鼓動が早くなっていることに気がついた。吐息も自然と荒くなり、その吐息が首にかかるたびに男は体を震わせた。
はやく、はやく。
血をよこせ。血をよこせ。
口を開け、牙が彼の肌に触れ。
そして思い切り噛み付こうとした。
その時。
「おいおい。何してんだ? お前」
「――っ!?」
跳ねるように体を起こした。
吸血でいっぱいになっていた脳内が、爆発したかのように真っ白になる。
なんだ。なにがどうなってるんだ。
ここに誰かいるはずがない。俺と目の前の男以外に誰かいるはずがないんだ。
なら、さっきの声は?
頭が混乱したまま、しかし体は反射的に声のした方を向く。
「よお。奇遇だな、こんなところで」
ライオンのような髪型。ガッチリとした体つき。挑発的な笑みを顔に刻みつけ、ぼんやりとしたあかりの元いつも通りに立っている彼は。
「…………祥吾」
そこにいるはずのない、喰鬼奴隷が一人、轟祥吾だった。




