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プロローグ


 ここはどこだろうか。

 朝特有の湿った空気の中、そんなことを考える。

 家から歩いて五分。大きな交差点の中心で突っ立って、ただただ呆然と辺りを見渡していた。

 普段なら真っ先に車にはねられていたかもしれない。時間だったちょうど今は通勤する時間だ。だか今は一台だって車は走っていなかった。

 これはどうしてだろうか。これは不思議なものだと。そんなことを思いつつ、結局それも現実逃避だと自嘲して。しかし目を見開いたままの顔は、少しも動こうともしない。

 コンクリートを体の表面に塗りたくられたかのように俺の体は動こうとせず、足も地面に縫い付けられているようで。


 俺はただただ、目の前の光景を見つめるだけだった。



 目の前の地獄(・・)から目を逸らせずにいるだけだった。



「ぎゃぁぁああああ!! 助けて! 助けてぇ!」

「なんだよこれ!! なんでお前が!!」

「もうやだぁああ!!」

「逃げろ! 逃げろ!!」


 悲痛な叫びが俺の鼓膜を何度も叩き、脳に刻み込まれる。耳を塞いでしまいたいのに、なぜか体が動かない。


 いつもの通学路で。いつもの商店街で。いつもの学校で。見慣れた街中で。

 人が人を襲っていた。

 いや、片方――襲っているほうは人とはいいがたい。白黒逆転した双眸に、何より大きく伸びた二本の牙。人に群がり首筋に牙を突き立てるその姿に理性は感じず、吸血鬼を連想させる。


 人が押し倒され。人が車から引きずり出され。

 立ち上る黒煙。むせ返るような血の匂い。積みあがる死体。絶えることのない叫び声。

 それらすべてが集う大きな交差点の中心に俺はいた。


 なんで俺はこんなところにいるのか。少し考えて思い出す。

 ああ、そうだ。俺は逃げ出したんだ。逃げだされたんだ。


 向こう側で押さえつけられ血を吸われている男と目が合った。明かりが消えかかっている瞳に見つめられ、ただ茫然と立ち尽くしていた体に重みがのしかかる。不思議と口が乾く。

 口の中で舌を動かした。やけにカサカサしている。そして舌にチクリと痛みが走った。少し遅れて不快な鉄の味が口いっぱいに広がる。

 普通なら感じることのない感触。それは今朝突然現れた二本の牙だった。

 そしてまざまざと見せつけられる。思い知らされる。

 俺は、向こうで人を襲う幾多の化け物の同類(なかま)であると。


 キュッと左手が握られた感触。そちらに視線を向ければ、小学生くらいの少女がいた。不安げに揺れるポニーテール。真っ赤に目を腫らし、震えつつ少し開かれた口から覗く二本の牙。

 ああ、そうだ。彼女がいたんだと、今更ながらに思い出す。

 彼女の小さな、丸い手は震えていた。俺はそれを抑えるかのように強く握り返す。

 わかってる。わかりきっている。これはただのエゴだ。

 先ほど巡り合った同じ境遇の少女を慰めて、自分を保っているだけだ。

 これは同情じゃない。シンパシーは感じている。しかし断ずる。これは同情じゃない。

 彼女に何があったかは予想がつく。きっと俺と変わらない。それを慰めて。俺の方が上だと、その優越感に浸って、他の感情を紛らわせたいだけだ。


 空を見上げれば思わず笑みが零れるほどの快晴が広がっていた。まだ夏の香りが残る、淡い朝日の元で地獄が広がり。

 その地獄の中心で俺は一筋の涙を流す。




 今日は後に『大変異』と呼ばれることになる日。

 人間の天敵である『鬼』へと、人間の半分以上が変異した日。

 日常と非日常が入れ替わった日。


 そして――





 ――俺が居場所をなくした日だった。







「んっ。はっ……あっ」


 艶やかな、熱を持った吐息が夜の冷たい空気に溶け込んでいく。湿った夜風が、火照った女性の頬を撫でた。

 明らかに情欲を孕んだ息が俺の髪を揺らし、何ともこそばゆい。彼女の腕は俺の背に回され、何かを求めるかのように忙しなく動き、俺のシャツをつかむ。彼女の首にかみつく俺を完全に受け入れていた。

 その首に突き刺さるのは、人間としてはありえあい長さの二本の犬歯。その傷から絶え間なくあふれる血を口に含み、俺は幾度となく喉を動かした。


「――っ」


 思わず顔をしかめる。まるで吸血鬼のようだ。人の血を飲むのは、昔の『大変異』の時に、未知のウイルスによって人ならざるもの――鬼になった時から何度もしていること。だが口の中に広がる鉄の味は何度経験しようとも慣れそうもない。


 一般的に鬼は不老不死だ。老いることはなく、傷を負ってもすぐに治る。だがそんな鬼が唯一必要とするのが血液。いや、正確に言うなら、より若い血液だ。()たちはその体の仕組みを維持する燃料かのように、血液を接種する。

 生きるために必要とはいえ、この行為もこの味も俺は好きじゃない。


 およそ一〇分。それだけ経ったころに彼女の体の力が抜け、崩れ落ちるかのように地面に倒れ伏せる。首から流れる血が、地面の砂に染みこんでいく。もう、彼女が動くことはない。


「はぁ……」


 一つ、ため息を漏らす。冷たい夜風が、俺の黒髪とコートを揺らした。

 なんと憂鬱なことか。また一人殺してしまったことへの嫌悪感。血を手に入れたことに感じる、本能的な喜び。それらがないまぜになって、体の表面をムカデが這うかのような気持ち悪さを感じた。

 空を見上げれば、俺や立ち並ぶ簡素な家々を満月が廃ビルの隙間からぼんやりと照らしていた。


 別に彼女じゃなくてもよかった。だが彼女も運が悪かったとしか言いようがない。

 人間もただやられているわけでもない。鬼は簡単には人間の血にありつけず、鬼同士で血を飲みあっているのが現状だ。だが彼らが同類なだけあって、情を持ってしまう。だから俺は鬼の血は飲まないようにしていた。

 なら残るのは人間だけ。数少ない『自我持ち』の俺なら人間の街に忍び込むのも簡単だ。


 七〇年前、突如として人間は鬼へと変異した。その数、およそ全人類の半分以上。それだけの人間が自我を失い、本能のままに血を求める鬼になった。

 だが何事にも例外はある。それが俺たち。ごく一部の自我を失わずにすんだ、『自我持ち』だ。


 どうせ吸血しないといけないのなら俺はせめてもと、年の取った人間からもらうつもりでいたのに。


「お前も、俺なんかに絡まなければよかったのにな」


 彼女の横にひざまずき、恍惚な表情を浮かべ開いたままの瞳を閉じてやる。

 獲物を逃がさないためか、媚薬のような成分を鬼の唾液は含む。そのせいで熱を持っていた彼女の体温はもう消えていた。

 彼女は娼婦だ。今この世の中、体を売って稼ぐ女性なんて珍しくない。夜のそういう店くらいにしかいなかった彼女たちも、大変異のあと日本が、世界が崩壊してから一気に増えてしまった。

 めぼしい奴はいないかと裏路地を歩いているとき、彼女からすり寄ってきたのだ。そこからは簡単。餓えていた俺は我慢できず、あとは御覧の通り。


「ああ、失敗した」


 小さくそうつぶやいた。もう少し俺に理性があれば、こんなことにはならなかったのに。

 少しの後ろめたさを連れて、俺はそのままそこを後にした。


 なんにせよ、目的は達成した。もうここから出よう。必要がなければ吸血衝動がないというわけではない。また別の娼婦に言い寄られても面倒だ。


 もと来た道をたどるように。災害時使われていた簡易住宅よりもさらに簡易な、そしてボロい家々。に、迷いなく俺の足はスラム街のような街を進んでいく。

 今は深夜と言えど、人影がないわけではない。さっきの彼女のような客を探す娼婦に、少し目線を下げれば酔いつぶれたおっさんが倒れている。少し耳をすませば、どこからか喧嘩のような声も聞こえてくる。

 俺は人間じゃなく、そして人間に敵視されている存在だ。バレていなくても人間ばかりの街にいると、やはり気分はよくないし、なんとなく落ち着かない。


 全人類の半分以上が鬼になった大変異が起こり、世界は文字通り崩壊した。国は消え、人も半分以上が消え、残ったのは地獄だけ。さすがに七十年近くたった今では、人々をまとめる集団も生まれてきた。が、そのたびに鬼を駆逐しようとして返り討ちにあったり、自我持ちに壊滅させられたりを繰り返してきた。もう今の社会は混沌としている。海外の情報なんて全く入ってこない。


 世界も、日本も、変わってしまった。


 自分がその原因の仲間であることに嫌気を感じつつ、少し視線を下げる。

 その時だった。


「――きゃあっ!」


 この空気に似つかわしくない音を俺の耳は拾ってしまった。

 決して治安のよくない夜の街に響いた、甲高い悲鳴。娼婦にしては色気もなく、若すぎる。それこそ少女といっていいくらいの――


「なんだ……?」


 なんとなく気になった俺は、悲鳴の聞こえたほうに足を運んだ。

 近づくにつれ、暴れているのか物音も大きくなる。ガシャンとトタン板が鳴り、また悲鳴。ただ事ではなさそうだ。

 またもや裏路地を進み、その突き当りを右へ。数少ない廃ビルの一階へと、足を踏み入れる。


 そこにいたのは一人の少女と、一人の中年の男。

 室内だけに光源となりうる月は隠れ薄暗く、はっきりとした容姿はわからない。だが少女が倒れこみ、男が彼女の首を絞めていることはすぐにわかった。


「死ね! 死ね! 死ね!」


 男はそんな言葉を殴りつけるかのように少女にぶつける。

 ぱっと見年齢は一〇歳くらいだろうか。彼女の口は空気を求める魚のようにパクパクと開閉を繰り返す。首に回された男の手を退けようとはしているが、力が足りずに空回っていた。もう少しすればそのまま窒息死。そんな予想が簡単にできた。


「――!!」


 光を失いかけている少女の瞳が、俺を捉える。大きく、夜空のような漆黒の瞳。ああ、きれいだななんて、俺は呑気に感じていた。


「た、たす……」


 掠れた声が彼女の口から洩れ、すがるような目線を向けてくる。その瞳には涙がたまり、大きく揺れていた。

 男の手に反抗していた彼女の腕は抵抗を諦めたのか離され、こちらに伸ばされる。まるで俺の意識を手繰り寄せようとしているかのようだった。


「……できるわけないだろ」


 小さくそう漏らし、彼女に背を向ける。

彼女を助けて何かいいことがあるだろうか? ないと断言できる。

 同情はする。だが今のご時世、言ってしまえばあんなこと特に珍しくもない。七〇年前より犯罪は頻発するようになった。直後よりかは幾分かマシになってはいる。だがまともに治安維持もできていない今この時代に、人殺しなんて珍しくもない。まして鬼の住む地域から近いここでは、内地よりもそういうことが多いのは当たり前だ。

 どんな理由でああなっているかは知らないが、とにかく今の世の中では以前よりもよく人が死ぬ。

だからといって、俺自身多くの人を殺しているからといって、目の前の状況に何も思わないわけもなく。


「ああ、失敗した」


 ため息のようにそう言った。

 気分が悪い。

 興味本位で近づかなければ、こんな光景目にせずに済んだのに。

 彼女から逃げるように、足を動かした。背後から男の叫び声に交じって苦しそうな声が聞こえた気がした。だが無視する。ここで彼女を助ければ、それは紛れもない失敗だ。

 失敗は回避すべき。大変異から何年も何年も生きてきて、身に着けた教訓だ。


 相変わらず男は叫び続けている。聞こうともしなかったし、支離滅裂で聞きたいとも思わなかった。

 だがなぜだろうか。そのうちの一言が、やけにはっきりと俺の耳に飛び込んできた。


「どうせお前は家族にも捨てられたんだろ!?」


 チクリと、頭の片隅が痛んだ。


「そんな誰にも必要とされてないやつ、死んでも誰も困らねえよ!」


『息子に化け物はいない! 出ていけ!』


「――っ!」


 いつかの記憶がフラッシュバックする。忌々しい、俺のトラウマ。

 一気に頭が熱くなる。さっきまで考えていたこと、そして理性を感情が覆い尽くした。それは怒りのように自分勝手で、憎しみのように陰湿で。

 気が付けば俺は腰に付けた拳銃を男に向けていた。


 声をかけることもなく引き金を引く。パンッと、銃声が響いた。続いて、ドサリと倒れこむ音。


 命が散る音は、なんとも簡素だ。一人の男の命が今消えてしまった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 ああダメだ。いつの間にか呼吸は荒くなっているし、動悸も激しい。

 呼吸を落ち着かせようと深呼吸をするが、鼻を衝く火薬のにおいが嫌悪感を倍増させる。

 もう諦めて、拳銃を腰のホルスターにしまった。


「ああ、くそ……」


 頭が痛い。耳鳴りもひどい。痛みを抑え込むように頭を押さえる。


 こんなつもりじゃなかった。助けるつもりも、殺すつもりもなかった。理性は強い方と自負しているが、いざトラウマを刺激されればこのザマだ。


 キーンとした音が次第に小さくなり、取って代わるように少女の咳き込む声が耳に入る。それにつられるように俺の視線もそちらに向いた。するとそれを待っていたかのように月から雲が晴れ、割れた窓から差し込む。彼女を月明かりが照らした。


「ゲホッ! ゲホッ! ゴホッ!」


 自分の命を確かめるように何度も首をさすりながら、彼女は何度も咳き込んだ。座り込んだまま、弱々しく体を震わせる。だが意外にもそれはすぐに落ち着き、当然のことながらその瞳はこちらに向けられる。


 第一印象は、真面目そう。肩まで伸びたライトブラウンの髪は夜風に揺れ、安堵からか漏れ出した雰囲気は柔らかい。治安の悪いこの街で、こんな時間に、あんな目に遭っていることが不自然に感じるくらいに。


 だがそれもすぐにすり替わる。

 彼女はハッとしたように肩を跳ねさせたあと、俺を睨みつけた。その目つきは彼女のような年齢の少女が持つものにしては、ナイフのように鋭い。助けてくれたことへの驚愕と困惑が混ざり合い、そしてそれを殺意が覆い隠す。

 こんなところにいる少女だ。その視線を受け、この少女もまともじゃないと簡単に思えた。


 ーーどうして? どうして助けたの?


 その二つの黒い目は、ありありとそう問いかけていた。

 だが俺は当たり前のように背を向け、歩き出す。そんな余裕もないのか、少女から引き留めるような声はなかった。


 なぜ助けたのか。

 俺にはその質問に答えるつもりも、義理もない。


「ああ……失敗した」


 またそう呟いた。

 まさか人間をーー少女を助けてしまうなんて。

 このことがあいつ(・・・)にバレたら面倒だ。少しでも早くここを去る必要がある。


 廃ビルから出ると、両手と腰に意識を集中させる。するとその部位から青白い液体が染み出し、パキパキと音を立てながら硬直する。あの日から使えるようになった、異形の力――『白羅(はくら)

 両手は一回り大きくなり、指先にはあらゆるものを引き裂きそうな鋭い爪。腰には二本の背骨のような尾が生え、槍の穂のようなものが先端にくっついている。

 まさに化け物(おに)のようなそれは、月明かりを浴びて青白く輝いた。

 鉄のように固いそれからはその色に反して禍々しさすら感じる。


 両足を踏ん張り、そのまま跳躍。鬼の人離れした身体能力のおかげで五メートルほど飛び、ひび割れたコンクリートの壁面に尾と鉤爪を突き刺し、また跳ぶ。

 それを繰り返しビルの屋上に登る。


 まったく、鬼はつくづくふざけた生き物だと思う。不老不死に飽き足らず、人間の数倍はある身体能力にこの訳のわからない能力。

 体は高校生くらいのくせに五メートルも跳べるなんてふざけている。


「敵視するのも、わからなくもないな」


 視線を上げれば、むかつくくらいにきれいな星空が。見渡せば目下には崩壊した世界が。

 崩れたビルが何本も立ち並び、下を見ればトタン板を組み合わせただけのような家々が、かつての道路を埋め尽くす。人が住んでるだけまだマシというのが信じられないくらいだ。


 この惨状は全て鬼が引き起こした。

 鬼が世界を、日本を滅亡させた。

 もう俺には人間側の居場所はない。


 だからこそ――もう、居場所を失うわけにはいかない。


 だがそう考えるとさっきの行動は明らかな間違いで。


「ああ、失敗した」


 気づけばいつものように小さく呟いていた。


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