08 鷹と狼で春到来
行きは一人でゆったり乗っていた牛車に、帰りは畏れ多くも若宮様が同乗されている。いくら幼い七歳の少年とはいえ、本当は高貴なご身分の方なのだから、私の様な女官と同じ牛車なんてありえないのだけれど……。親し気に横に座られておられる若宮様は、まるで弟の様にとても可愛らしくてほっこりする。
結局、若宮様お付きの女房達は、左大臣家の別の牛車に乗って後ろに付き従っているの。
「ねえ、小桃内侍、この亀の名は? なあ、お前、名はあるのか?」
「ぼえ?」
何?とか言っているかのように、亀がちょこんと首を傾げる。
すっかり明るくなった若宮様は、目の前の珍しい生き物に夢中なの。大きなお邸、御所や左大臣家の庭などではめったに見ることが出来ない大きな亀。男の子って、こういった生き物が好きなのね……。話しかけると一つ一つに首を振って応える亀に、若宮様はもう大喜び!
蛇騒動が一段落ついた後、おずおずと亀飼い童が申し訳無さそうに現れたの。後宮に帰るため、少年に託そうと御簾の下から座布団の様な亀を差し出したら、鈍い陰陽師の君が「何だ、あの(妖しい)亀は!?」とか、驚きの声を上げたわ。
やっとこの妖しい存在に気付いたの? この方、妖などと対峙するはずの陰陽師として大丈夫なの?
私と離そうとするとまたまた亀が鳴くから、結局この牛車にまた同乗している。
若宮様の左右に分けて丸く結った下げみづら髪は、蛇に取り憑かれていた時は弱々し気にしんなり垂れていた。けれど、今はピンとした溌溂な感じ。若宮様のご機嫌な様子を現しているかのよう。良かったわ、少年らしくお元気になられて。
「まだ名は無いのです。実は、左大臣邸に行く途中で拾ってしまいましたので。それに、飼うつもりは無かったのです。後でどこかの池にでも放してやろうかと……」
「ぼ!? ぼえ~えええ……」
「あ、亀がいやいやと首を振っているよ。きっと、小桃内侍の側にいたいんだ! ね!」
亀が若宮の後押しを受けてウンウン頷いている。あなた本当に亀? 本当に話が分かっているの!? いえ、現れた時から妖しさ満点の存在だったわ。
元は牛車より大きな亀よ、走ったり吠えたりと、妖しさ満点。側には置かない方が良いと思うのだけれど、下手に置き去りにしたら祟られてしまいそうでもあるわね。
「そうだ、私が名前を付けてやろう! いいでしょう、小桃内侍! ……う~ん、亀、大きい……、よし、亀太にしよう! どうだ、亀太?」
「ぼぼぼ!」
悩まれた割には、もの凄く安易な……。まあ、お子様の付ける名前ですからね、こんなものでしょう。亀太も気に入ったみたいで、小刻みにウンウン頷いているわ。
「畏れながら若宮様、せっかくお名を頂きましたが、亀太を後宮に連れて行くのは……」
「大丈夫、私の家臣としておじい様(帝)と父上(東宮)にお願いする! あの妖の蛇から私を助けてくれた亀太だ、きっとお許し頂けるよ。頼隆と亀太が私の警護役だ!」
賑やかな若宮様のお声を耳にして、警護役として馬に乗って牛車に並走していた頼隆様が、ガックリ意気消沈された。それを幼馴染の陰陽師の行正様が揶揄った。
「ははは、良かったな、頼隆。亀と同じく、畏れ多くも若宮様の警護役だ。おまえは亀と仲良くな、あとは私に任せろ!」
「うるさい」
明るい行正様とは対照的な、イラっとした低くも澄んだ頼隆様のお声が、牛車の中にまで聞こえたわ。
あら、急に牛車の周りが暗い雰囲気に? なぜ、皆、頼隆様から視線を逸らせているのかしら? 先程の蛇に怯えた女房達みたいよ? ニヤニヤ笑っているのは陰陽師の行正様ぐらいね、どうしたのかしら?
急に若宮様が後宮に参内される事になり、祖母君を始めとして左大臣邸は大騒ぎになってしまったの。現東宮様の第一親王様というので、左大臣家では将来の帝にすべく厳重に囲い込んでお守りされていたから。でも、ご両親である東宮様と御母上の女御様が、若宮様に会いたがっておられるし、お元気になられた若宮様が行くというなら止められない。
暗殺を異常に恐れる祖母君は、イライラしたご様子で、蛇退治で側に控えていた頼隆様を外御簾近くへと呼び寄せられた。
主の奥方様に伏して礼を取る頼隆様。シャッキリとした背筋が凛々しい。
「頼隆殿! 鷹中将の君はどちらに?」
「お方様、中将様は未だ御所からお戻りになられておりません」
祖母君は、息子の中将様に若宮様の警護をお願いしたいようだけれど、どうやらご不在みたいね。後宮の噂では、鷹狩りがお好きな事が有名な公達で、通り名が『鷹中将』様。誰もが羨む高位の左大臣家長男、力強い美形貴公子で頼隆様のお仕えするお方。実は同僚の萩内侍の憧れの公達なの。私は、端整でしなやかな若竹の様な頼隆様の方が素敵だと思うわ。まあ、人の好みはそれぞれですものね。
「不在!? 若宮様が参内されるというのに! ……では、頼隆殿、そなたが若宮様の従者となってお供するように。若宮様のお側について警護しなさい」
「承りました。これより左大臣家の警護を引き継ぎ後、若宮様と共に御所へ参ります」
「そなたの剣術の腕前は聞いています。頼みましたよ」
左大臣の奥方様より、御簾内からとは言え直々に命じられて、頼隆様は高貴な若宮様の警護従者になられた。だから、気まずいけれど、私の牛車を警護して下さっている。だって、ちょっぴり怖がりの若宮様が、どうしても私の側が、同じ牛車が良いと仰るから。
厳重な警護のおかげで、私達の牛車は何の問題も無く、無事に後宮に到着! 良かった。というか、本来こうあるべきなのよ。
トトト! と母上様に会える喜びからか、若宮様が後宮の簀子を小走りされて行く。その後をまるで犬の様に、亀が走って追いかけて行った。犬の様に尾は振ってはいないけれど、嬉しそうではあるわね。でも、良いのかしら、その姿を晒して?
「きゃー! 何、あれ?」
「犬? いえ、猫? 変な生き物が走ってるわ!」
「若宮様!? か、亀? 誰か、亀が若宮様を追いかけて!」
案の定、あちらこちらの御簾内やすれ違う簀子で、亀を見かけた女房女官から悲鳴が上がってしまったけれど、私のせいじゃないわ、よね?
「若宮様! 危ない、こちらへ!」
「あ、鷹中将! 見てみて! 私の家臣なんだ! 亀太だよ!」
たまたま後宮におられて悲鳴を聞きつけたのか、噂の中将様が私達の前方に現れた。武官束帯姿の力強く男らしい端整な顔立ち。でも高位貴族らしく、どこか権力を滲ませる雰囲気があるお方。頼隆様が静かな狼なら、このお方は翼を広げる鷹ね。
駆け寄った若宮様を抱き止め、慌ててそのお背に庇って亀と対峙された。
う~ん、力強く頼りになる殿方って感じ! 噂に聞く、鷹中将様、素敵な公達だわ。萩内侍が憧れる気持ちも、ちょっとわかった気がする。
高位貴族の鷹中将様を前に、若宮様に付き従っていた私達は腰を落として礼を取る。扇をかざす私の横から、サッと頼隆様が私の姿を隠す様に現れて礼を取り、主の中将様にこれまでの経緯を説明された。
「そ、そうか、若宮様をお守りした亀なのか。こんな亀、初めて見たが……。だが、憑き物を祓えて良かった、母上がそれは心配されていたからな。それに、内侍殿、頼隆、私の不在中、左大臣家を守ってくれて感謝する」
「おそれいります。私は中将様の守護せよとの命に従ったまでです」
頼隆様とは違い、扇の陰で私はただ頭を下げて沈黙。初対面の女官が、直接殿方と言葉を交わすなんてはしたないから。それを分かっていて、頼隆様は私を庇って下さっているのね。
「それにしても可愛らしい内侍だ。初めて見るが、名は? どこの御殿の者かな?」
「小桃内侍だよ、叔父上。内侍のおかげで私は元気になれたんだ。だから母上に早くお会いしたい! 私を母上の御殿へ連れて行って! この亀も父上にお見せしたいんだ、亀太だよ。私が名付けた家臣なんだ」
「ははは、畏まりました、若宮様。本当にお元気になられましたね。承香殿の女御様も、先程、左大臣家からの早駆けの連絡を受けて、若宮様のお出でを待ち焦がれておられます。私に迎えに行けと命じられました。東宮様も、参内を喜ばれておりますよ」
ああ、通りで都合良くおいでになったのかと思えば、連絡が伝わっていて、若宮様をここまでお迎えにいらっしゃられたのね。鷹中将様は若宮様の叔父君で、同じ左大臣邸でお暮しのためか、まるで仲の良い兄か父親のようだわ。若宮様も遠慮なく懐かれて。
ひょいと軽々と若宮様を抱き上げられた鷹中将様は、なんて力強く逞しいお方。扇の陰からちょっと見とれてしまうわ。
「よ、頼隆、どうした? 突然その目は止めよ、こ、怖いぞ。……それでは可愛い小桃内侍殿、後程、若宮様をお助け頂いた礼をさせて頂こう、是非とも。……だから、怖いからその目は止めよ、頼隆。……承香殿に行く、付いて参れ」
「はい。小桃内侍、くれぐれも気を付けて桐壺へ。どうかいろいろ気をつけて」
安全な後宮にいるはずなのに、くどく二回も頼隆様は私に注意する。さらに私の背後へ厳しい視線を向けられた、なぜ? 誰を見つめているのか分からないけれど、その目は少々細められて険しい。でも私を捕らえる眼差しは険しいのではなく、熱いの。
私を二度も助けてくれたこの方に、大丈夫ですと想いを籠め、扇越しに互いにジッと見つめ合ってしまったわ。思わず頬が熱くなってしまう。
大人の熱を知らない若宮様は、抱き上げられたまま無邪気に私に手を振られた。
「小桃内侍、ありがとう! 亀太と遊びに行くよ」
そのままキャッキャと喜びの声を上げながら、後宮の南にある承香殿へと頼隆様と共に向かわれた。その後ろを亀太もトテトテとついていく。鳴かずに私から離れられるなんて、若宮様と仲良くなったのね、良かった。餌や寝床の世話は、亀飼い童にさせるし。
まあ、行く先々で起こるであろう亀騒ぎは、きっと中将様がいれば大丈夫でしょう。
熱風が過ぎ去った。ああ、やれやれだわ。文遣いに出掛けただけなのに、やたら疲れたわ。でも桐壺に戻ったら戻ったで、また疲れそう。
「じゃまな頼隆もいなくなったし、小桃内侍は私が桐壺までお送り致しましょう!」
「!!」
あら、陰陽師の君様、ここに残られていたのね! 凛々しく煌びやかな中将様や頼隆様に気を向け過ぎて、すっかり忘れていたわ。背後から急にお声を掛けるから、ビックリよ。しゃべらずにいると、変な意味で気配のない人ね。
「いろいろな事があって、さぞ、心細いお気持ちでしょうから、私がお側におります」
「え、あの、ご迷惑でしょうから、遠慮させて頂きます。それに桐壺はここから近いですし、何も心細くはございません」
「そんな、ご遠慮なさらず。また何か妖しい事が起こるかもしれません。それに、折角こうしてお近づきになれたのです。少しお話しでも、どうか……」
「いえ、とにかく、失礼しますわ!」
頼隆様に『気を付けろ』と言われたすぐ後から、もう殿方と噂の種になるのは嫌よ。後宮では、男女の事は何かとすぐ尾ひれを付けて言われるから。頼隆様に誤解されるような真似は避けなきゃ。
「あ、小桃内侍! お待ち下さい! 是非とも、お文など送らせて下さい! お待ちを!」
クルリと背を向け、出来るだけ早い滑るような足さばきで、スササッと桐壺へ逃げ帰る! 引き摺る裳裾や表着を踏まんばかりの近くの背後から、ペチャクチャと賑やかに話しかけられてきた。でも、私には聞こえません! 扇を翳し顔を隠しつつ、無視よ、無視!
「また一体、何の騒ぎを起こしたのですか、小桃内侍! 見ていましたよ! 一人で出かけたはずの単なるお文遣いなのに、なぜあのように大勢で戻る事になったのですか!」
御簾内へ滑り込むかの勢いで桐壺に逃げ帰るや、しつこくついて来ていたおしゃべりな行正様を、麦内侍様が「こちらに何の御用で?」と先輩の迫力で追い払ってくれた。それは助かったのだけれど、やっぱり私に雷が落ちた。
「その、行く手に亀が現れ、蛇が若宮様に取り憑いて、祓って……?」
「はあ? 何を言っているのかさっぱりだわ? それでお役目のお文はお届けできたのですか?」
「はい。それで、お元気になられた若宮様と共に参内し……」
しどろもどろの言い訳を理解できず、麦内侍様が「頭痛が!」とばかりに額を手で覆ってしまわれた。そこへ外御簾の向こうの簀子から少年少女の声が掛かった。どうやら文遣いの子供達みたいね。また『桃の宴』についての面倒臭い変更連絡かしら?
やったわ、麦内侍様の怒りの矛先を変えられるかも!?
「あの、主からのお文です」
「私も、お文をお持ちしました」
「僕もです!」
まるで春の小鳥のさえずりの様な可愛い子供の声。それぞれ、ズイッと御簾の下から、お文が結ばれた「山吹の枝」「なずなの花」「木瓜の枝」を差し入れてきた。
豪華な零れ咲くような黄色い山吹の花、清楚可憐な白い小さななずなの花、そしてまたもや送られてきた満開の薄桃色の木瓜の花。一気に御殿が春の花々で華やいだわ。
「小桃内侍様にです!」
可愛らしい表着を纏った女童や狩衣姿の童が、三人声を揃えて告げたわ。全部、私宛なの!? うそみたい、一気に人生の春到来? なんか、恥ずかしい~!
「あ、あなたは、一体何をしに出掛けたのですか!!」
怒りの矛先が一気に絞り込まれ、三人より迫力ある大声で、麦内侍様の春雷が落ちた! ドドンッと響き渡るような怒鳴り声が響いて、その衝撃に打ちのめされそう。
誰よ、全くもって間合いが悪いわね!