07 強気で気を引いて
「へ、蛇よ~!」
「あれ~、誰か! 宮様に蛇が~!」
亀が吠えたせいか、私以外の周りの女房達までこれまで気付いていなかった蛇の存在に気付いてしまったみたい。というか、本当にこれまで気付いていなかったのが不思議なほど大きいのだけれど。
若宮様を取り囲んで仕えていた女房達が、ワッと一斉に、ズリリと袿裾を引き摺りながら、それこそ蛇の様に這いずって逃げ離れた。ぽっかりと部屋奥の中央に不自然な間が展開されたわ!
ちょっと! 仕える主を、子供を見捨てる気!?
不気味に滑らかな鱗が黒光りし、七歳の若宮様の腕と同じくらいの太さの細長い姿で、小さく鋭い牙から先の割れた舌を見せて若宮様の頭上で威嚇している。シャー、シャーと! いやー、気持ち悪い!
「ぼえ~! ぼえ~!」
「そ、そうよ、亀よ、お前がいるわ! あの忌まわしき蛇を追い払っておしまい! きっとお前はこの時のため、私達の下にと天が遣わされたのよ! さあ、やっておしまい!」
「ぼ、ぼえ? ぼぼぼ……ぼ?」
勇ましく吠えていた亀が、何故か私が命じるなり躊躇いだしたわ。ぼ、僕が?と言わんばかりにこちらを不安げにチラリと見上げる。ほら! と亀の甲羅を蛇に対峙するようにと前へと押し出すと、なぜか先程の勢いが落ち、吠え声が次第に心細く小さくなっていく……。
「どうしたのよ? ほら、さっさとあの蛇を追い払って! さあ! 亀よ!」
「ぼえ……」
嫌だ、だって怖いんだ、とばかりに亀が首を小さく横に振る。更にはその短い脚では予想も出来なかったほどの速さで駆け出して、ササッと私の幅広い袿の袖下にと潜り込んしまったわ! 隠れた隙間から細長い顔だけ突き出し、私の袖に隠れながら、また「ぼえ~!」と勇ましく吠えだした。細長い首しか見えないから、これも蛇みたいに見えるかも。
「怖いのか、お前も! 私の袖下に隠れてから吠えてもしようがないでしょう? さっきの勇ましさは何だったの!」
「いや、犬じゃあるまいし、走るのも、勇ましい亀っていうのも、聞いたことがありませんわね」
どうやって若宮様をお助けするかのこの時に、誰かが私の喚き声にまともな反論を呟いてる。どうでもいいのよ、そんな事は!
キャーキャー女房達が騒ぐ中、扇を片手に私は頭を抱える。どうしよう、どうやって若宮様をお助けするのかと!
ポツンと一人残された若宮様も、巻き付く蛇の体が見えてしまったのか、恐怖でぐしゃっと顔を歪められ泣き出してしまったわ! でも、お体は岩の様にガッチリと固まってる! 座ったまま動けないみたい。
「うえ~ん!」
「ぼえ~!」
若宮様と亀の大きな合唱の泣き(鳴き)声、女房達の悲鳴が部屋に響く。
お願い、これ以上、シャーシャー唸る蛇を刺激しないで! あの蛇も妙に体に力が入って、身構えているのよ。
そこへ、その合唱に負けないような激しい足音が外廊下の簀子から響いて、何人かがこの部屋に御簾を引き破って飛び込んで来たわ。ザザッと衣擦れの音がして、その内の一人の身に纏う落ち着いた色模様の袿が目に入る。
「宮様! 何てこと! 誰か宮様をお助けして!」
「北の方(正室)様、それ以上近付いては危険です!」
「お、お祖母様! 助けて! うえ~ん!! 母上、母上~!」
どうやら、若宮様の祖母君、左大臣家の奥方様が緊急事態を知らされたのか、駆け付けられて来られたみたい! おそらく、祈祷を頼むほどの心配のあまり、可愛い孫親王様から離れていられなくて、近くのお部屋で控えておられたみたいね。その女の勘、当たったみたいですよ! 今でもわずかに聞こえる祈祷の声は、全く効き目が無いみたいですが……。
「宮様!」
「北の方様! お危のうございます! お下がりください」
シャー!!
思わず、可愛い孫を助けようとする北の方様を押さえようと、その前に庇い出てしまった。その時、何故か、意外にも丸い蛇の黒目と目がバッチリ合ってしまったの。
あ、これって覚えのある事の繰り返し? 妖しい生き物と目が合ってしまうのって。
シャッ! 突然一瞬身を縮めたかと思うや、蛇が若宮を踏み台にして「私」へと飛び掛かって来たわ!! 何故よ!?
「い、嫌~! 頼隆様!」
咄嗟に、無我夢中で手にしていた檜扇を私は振り回してしまった! ズバンッ! と音がして、私の固い木製の扇で引っ叩かれた蛇は、方向を変えて御簾が無くなって見えている簀子の方へと飛んで行く。
叔母様、丈夫な檜扇をありがとうございます! お勤めの役に立ちましたわ!
蛇が飛んで行った方に避難していた不幸な女房達が、またまた一斉に甲高い悲鳴を上げて逃げ去る。私の方をギッと恨めしそうに睨みながら!
たまたまなの! だって、あんな気持ち悪い物が、私の方へと飛び掛かって来たのよ? どんなにかよわい姫だって、必死の抵抗ってものをするでしょう? 決してあなた達に悪意があってそちらへ叩き飛ばした訳では無いのよ!
「よし、内侍様、よくぞ若宮様から引き離して下さった! 『捕縛』! 今だ!」
「抜刀、お許しを!」
若い男の怪しい呪文みたいな声がして、簀子で身をくねらせていた蛇が、何かに頭を押さえつけられたかの様に動きを止める。そこへ、スラリとしたお姿の頼隆様が現れ、勇ましくも涼やかに太刀を引き抜くや、一瞬の内に蛇の頭をザッと切り落とした。
その荒々しい光景に怯えて、思わず扇の陰で私は身がすくんでしまう。けれど、何故か蛇は血も流れずに、頭も体も煙の様に消えてしまったわ! 不思議!
「お見事、頼隆! 妖の方はこれで大丈夫でしょう」
「そうか」
「一刀両断か、相変わらずの剣術の腕前だな。そして、内侍様、ご無事なご様子で何よりです」
身を隠す外御簾や几帳も無いこの混乱状況で、扇で顔を隠すだけで座り込んでいる私に、文官束帯姿の若い公達が馴れ馴れしく話しかけてくる。先程、『捕縛』とか言ってた人ね。頼隆様と同じくらいの年齢、二十才前後かしら? チラリと扇の陰から伺い見た様子では、お背はそんなに高くなく、可も不可もない普通の容貌で、明るい親しみ深い感じの方。
嗜み深い後宮女官としては、初対面の公達にどうお返事したらよいか困ってしまうのだけれど。扇の陰でオロオロ……。
「よせ、行正。内侍が困っている。初対面で無礼だろう」
「ああ、そう言えば、初対面で失礼しました。私は陰陽師の行正と申します」
あら、妖専門の陰陽師の方だったのね。うん、頼隆様のような鍛えたスラリとした雰囲気の武官でも、政治に関わる文官でもない、そんな感じの方だわ。
「あ、あの、恐ろしい蛇からお助け頂き、ありがとうございます。頼隆様も度々申し訳ございません」
「私の事は気にしなくて良い」
「そんな不愛想な顔するなよ、頼隆。ああ、内侍様、私はこの男の幼馴染です、どうぞお見知り置きを」
私の言葉を取り次いでくれる左大臣家の女房なんて一人もいないから、仕方なく助けてくれた礼を自分で言ったわ。すると、頼隆様がやや冷たい険しい目で私と行正様を見る。見知らぬ殿方と直に話すとは、っていう不満気な眼差し。
嗜みから外れるかもしれないけれど、妖しい蛇を倒して下さった方に、礼を伝えない訳にはいかないんだもの、しようがないではないですか! 頼隆様に取り次ぎ役をしてもらう訳にもいかないんですから!
「都大路で内侍様の牛車が妖に襲われたと知らせが御所に入り、急いで追いかけてきたのです。まさか、妖の大元が若宮様に取り憑いていたとは……。都大路にいたのは、左大臣家に近寄らせまいとする、あの妖の影だったのかな? しかし、これで若宮様もお元気になられるでしょう」
「そ、そうですか。安堵致しました」
頼隆様とは対照的によくしゃべるお方ね、行正様って。でも陰陽師としての腕前は怪しいところ。だって、私の袿の下に隠れている怪しい亀にはちっとも気付いていないの。頼隆様はチラチラ裾の方に視線を送られるから、気付かれているみたいなのに。
「それに、かよわい身でありながら、自ら囮となられてまで若宮様をお守りするとは……」
「自ら囮に……?」
あ、頼隆様の周囲の空気が冷えてゆく! 怒ってる! 私にあの険しい目が向けられているわ! こ、怖くなんて、ないんだから……! 蛇より怖い、何て思ってないんだから……ヒエ~!
「小桃内侍、あなたという方は、また……!」
「ち、違うんです! 別に囮なんて危険な事をするつもりなんてなくて! ただ、結果的にそうなっただけで……!」
神の怒りを治める祈りのように、身を縮めてガクガク震えて謝る私。
「通り名は小桃内侍か……。いや、見事な忠義心です。私は感服致しました。あの、後日お文を送ってもいいですか? 今回の事について色々語り合いたいので……」
「おい、行正!」
「いいだろう、別に! 私だって!」
そうね、陰陽師としては、私にこの妖騒ぎの事情聴取をしたいのかしら? それも仕方がないわね、でも亀の事は誤魔化さなくては。なんて考えて、気が進まないからあやふやに行正様にお返事したら、簀子で殿方二人の含みのある言い合いが始まろうとしているわ。互いに腕を掴み合い払い合いに。なぜかしら? 難しいわね、殿方って。
私の背後の袿をチョイチョイ引っ張る人がいる。亀ではないわね、誰よ、と振り向くと、若宮様が私の側近くに立っておられたの。若干もじもじと恥ずかしそうに顔を赤らめておられるわ。血色は良くなったみたい。
「小桃内侍、あ、あの……お文、ありがとう。それから蛇も」
「いえ、私は何のお役にも立っておりません。退治されたのは、簀子にいるお二人の公達です」
「でも、蛇に巻かれた私から逃げずにいたのは、小桃内侍だけだった! 乳母の君だって恐れて離れて行ったのに!」
紅い顔の若宮様が俯いて、ギュッと私の袿を小さなお手で握る。まるで縋るかのように。可愛い。
「わ、私は後宮に行きたい。父上母上にお会いしたい。小桃内侍、一緒に後宮へ行ってくれないか? 小桃内侍がそばにいてくれれば、もう何も怖くない!」
「み、宮様、何を! 後宮に行かれるなど、身の危険があるかもしれません! お止め下さい。この左大臣邸でなら、私がお守りできます!」
祖母の北の方が、そっと若宮様を宥めるように抱き寄せようとすると、若宮様は身を翻してテテテと私の背後に隠れてしまわれた。まるで先程の亀の様に。なぜ皆、私の後ろに隠れるの? 頼隆様の後ろに隠れる方が安全だと思うんだけれど?
「宮様!」
「お祖母様、私は後宮に行く! この小桃内侍がいれば大丈夫。だって妖が現れても一歩も引かずにやっつける、凄い内侍なんだから!」
「いえ、それは『凄い内侍』のする事ではないと思うのですが……」
「小桃内侍と一緒が良い!」
可愛らしい若宮様が、私の袿袖に抱き縋ってこられた。反対側の袖下には怯えた亀が隠れているの。簀子では妖を倒した二人が、ボショボショと言い合い。
お文を届けるだけの内侍の仕事が、なぜか違う仕事になった気がするの。私、このまま後宮に帰っていいのかしら?