05 亀で面子
2018/03/21 誤字脱字の修正と、修飾語などを少々訂正しました。
もう、いっそのこと、牛車から抜け出してここから逃げ出そうかしら? でも、仮にも後宮に仕える女官が、裳裾を引き摺って都大路を走って逃げるなんて、みっとも無さすぎるわよね。どうしよう?
「ぼえ~!」
「お願い、泣かないで。私まで泣きたくなるじゃない!」
聞こえて来る大きな情けない泣き声で、私まで逃げられない恐怖から涙が出てきそうになるではないの。
「ち、違います! 僕ではありませ~ん、ううう」
「ぼえ、ぼえぼえ~!」
「泣いてるじゃないの!」
「泣いてません! 僕ではなく、亀の声ですよ! 僕は泣いたりなんて、して、な、ううう~」
自棄なのか男の意地なのか、本当は泣いているくせに牛飼い童の少年がキツく言い返してきた。敢えてこれ以上は言わない事にしよう。十二・三歳くらいの少年とはいえ、否定してはいけない男の意地なのよ。でも、確かに牛の鳴き声にも似たぼわっと響くこの声は、普通とは違うわね。そろりそろりと牛車の前御簾の隙間から外を覗いてみた。
ハッ! 目の前の恐ろしくも大きな亀とバッチリ目が合ってしまったわ! どうしよう!
爪の生えた太く短い四つ肢を天に向けてバタバタしつつも、濡れているかの様に黒々光る目がこっちをジッと見たのよ!
「ぼ、ぼえ~! ぼぼぼ……」
な、泣いているわ……。鳴くだけではなくて、私や牛飼い童と同じように涙を流しているではないの! 大きく見開いた黒い瞳は弱々し気にうるうるし、白玉の如く煌く涙を零して……。ああ、その清らか気な涙の玉は、まるで後宮で困った時にぽろぽろと涙を流す友人を思い起こさせるわ。
この様にひっくり反って動けずにいる事は、亀にとって涙を流す程に大変つらい事なのね。あの黒目も弱々し気で、「お願い助けて!」と訴えているかのように思えるの。なんだか、家族や友人が辛い目に遭っているかのようで、深く胸を打たれてしまったわ。
私、決心したわ! 泣いて困っているものを前に、どうして放って置けようか。
薄暗く狭い牛車の中で立ち屈んだ。女って、何をするにもまずは衣装の準備が必要なのよ。大事な衣装をできるだけ汚したくはないの!
まず背後に広がり引き摺る裳を外す。次に長い張袴と重ね袿の裾が上がるように、腰紐の所で大きくたくし上げた。はしたなくも足先が見えてしまいそうで、貴族の娘なら人前では絶対にできない、実にみっともない姿よね! 仮にも後宮に勤める内侍が、なんて下品な姿だと、いい笑い者になってしまうわ。でも大丈夫! 大きな亀に怯えて周囲の誰も彼も逃げ出して、人目なんて無いはずだもの!
そっと前御簾を上げると、牛飼い童が驚きの声を上げつつ、ササッとどこからか草履を差し出してくれた。あら、十歳前後の子供に見えるのに、大人並みに気が利くではないの!
「これ、お履き物です! 内侍様、逃げるなら僕も連れて行って下さい! お願いです、見捨てないで下さい!」
「ごめんなさい、私は逃げないわ。あなたこそ、私を見捨てて逃げても良いのよ」
「で、でも……、内侍様を一人置いてなんて……。ど、どうしたらいいのか……」
何て優しい良い子なの! でも、逃げようかどうしようかと、オロオロ指示待ち顔の少年をそのままに、私は体をガクガク震わせつつも、袴や袿の裾を片手で持ち上げながら、そっと歩み寄る。我が身の安全のためにも、できるだけじっとみつめてくる亀を刺激しないようにしなくては。
「あのね、助け起こしてあげるから、どうか暴れないでね。……ほら、甲羅を押すわよ。せ~の!」
えい、えい!
横側のヒンヤリ冷たい黒い甲羅に両手を掛けて押し上げる。大きな見た目通り、結構重いわ、この亀! 一回では上手くいかず、何回か押す。亀も私の善意を受け取ってくれたのか、押し上げる私の拍子に合わせて、フンフンッ!と肢をばたつかせ始めた。
重い! 私では無理かも? いえいえ! でも?
「諦めてはダメ! も、もう一度いくわ!」
誰が諦めようとしているのか分からなくなってきたけれど、慣れぬ力仕事にゼイゼイと肩で息する自分と、鼻息荒い亀を励ましてみた。ジッと見つめてくる黒い瞳にも気合が籠っているわね! そうよ、私達ならできるはずよ、頑張って!
共に困難に立ち向かう妙な親近感と、楽の音を合わせる時に感じるような一体感に、お互いが燃えているのを感じたわ!
「これでどうよ、えいっ!」
最後に気合を入れて押し上げようとしたら、私と同じくらい小さく細い腕が横から加勢した。四本の細腕が一気に勢い良く甲羅を押し上げ、その拍子に合わせて亀の四肢が水の中のように空中を大きくバタバタと掻いた。
ドスン! と大きな亀の太く短い四肢が、都大路に大きな音を立てて着地! ふうう~、と亀も安堵の鼻息を漏らした。
「やったわ! ひっくり返ったわ! これこそ亀のあるべき姿よね!」
「そうです! 内侍様、僕ら、やり遂げたんですね! 良かった!」
「手伝ってくれてありがとう。怖くて泣いていたのに、よくやってくれたわ!」
「僕は男です、泣いてなんかいません! あ、あれは汗です!」
泣きべそかきを恥じらって隠しているけど、最後の最後に勇気を振り絞った少年に感心したわ!
手伝ってくれて本当に助かった、私一人では無理だったもの。こちらを見る亀の目も喜んでる気がする。犬みたいに尾は振らないけど、首を伸ばしてウンウンと満足気に頷いているようよ。
私は大仕事をやり遂げた達成感から、額の一筋の汗を爽やかにサッと袖先で一拭きしちゃった。あら、嫌だ、これって叔父様の癖ではないの、いつの間にか移ってしまっていたみたいね。
「さあ、亀よ、(そもそもどうやって都大路に現れたのか分からないけれど)どうかこのままここから立ち去って……」
せっかくこうして助けたのだから、「私や少年に恩を感じて、暴れることなく去ってほしいな」と、自己本位な願いを込めつつ亀を見つめる。すると何故かシュルシュルと空気の抜けていく袋の様に、牛車よりも大きな亀が見る見るうちに小さくなっていくではないの! 驚く私と少年の前で、あっという間に私の腕で囲める程の大きさに甲羅が小さくなってしまったわ! お座布団よりも小さいわね?
「ああ、間に合わなかったか。余計な事をしてくれたな、女」
「え?」
私達の背後から、憎々し気な青年の声が響いた。やだ、人がいたの? はしたなくも顔を見られる訳にはいかないわ!
慌てて懐に差していた檜扇を広げて、貴族の娘らしく顔を隠す。その陰からそっと伺い見ると、上品な白銀に輝く狩衣に烏帽子姿の細身の雅やかな公達が、お供の一人も伴わずにそこに立っていた。妙に人を圧倒するような迫力のある方ね。
女なら誰もが一瞬見惚れる程妖しい魅力と、月光のような冷たい美しさの二十代半ばくらいの美形公達。扇を持つ所作や立ち姿に高貴さが滲み出ている。だけれども、女の様な華麗な細い目つきは美しくも不快気に細く吊り上がり気味。この方に勝る美形は、おそらくあの無駄に明るく綺羅きらしい蛍帥宮様かしら? ……更に、頼りになる凛々しさで男らしいのは、頼隆様の方だけれど。
この公達、目を吸い寄せられる様な華やかで煌く姿なのに、妙に禍々しい? 良い子の牛飼い童の少年も、妙な気配を感じているのか、いつの間にか不安げに私に身を寄せて、こっそり袿の端を掴んでいるわ。そうよね、何か、怖い人よ!
「せっかく裏返って弱った亀を見つけたと思ったのに……。でも、姿は小さくなったから、捕らえやすくはなったか?」
「ぼ、ぼえ~……」
小さくなった亀が怯えた様に鳴きながらゴソゴソと、広がってしまった私の袿の裾下に隠れようとする。正直、これ以上何か妙な事に巻き込まれるのはごめんだけれど、もう、ここまでくれば今更よね?
「あ、あの、どうかこの亀はお見逃し頂けませんか? せっかく苦労して助けたので……」
「そうはいかぬ、久しぶりの貴重な子亀だ。さあ、亀を渡せ、女。私は昼間に面倒は嫌いだ。どうしてもどかぬと言うのであれば、したくは無いが……」
「いえ、あのですね、私としましては、その、亀が可哀想で……」
本当に面倒くさそうに美形公達が眉を吊り上げた。扇で不快気に固く結んでいるであろう口元を隠しつつ私を睨む。
でも、袿から怯えてゴソゴソ動き回る亀の気配が伝わってくる! これ、はいどうぞって渡したら、絶対に可哀想な事になる感じよね? た、食べるとか? せっかく恥も外聞も投げ捨てる覚悟で助けたのに、それは無いわ!
私が無言で拒否したため、では実力行使とばかりにその公達がスタスタ近寄って来た! 無理矢理、私の裾をめくり上げて亀を奪う気ね! 止めて、そんな見っとも無い事!
「内侍様に近寄るな! 離れろ!」
まあ! 男らしく牛飼い童の少年が大きく両腕を広げ、私より低い背丈で必死に立ち塞がってくれたわ! この子、将来は絶対に立派ないい殿方になるわ!
「どけ!」
「危ない! 逃げて!」
けど、細いまだ華奢な少年の体は、思ったよりも力強い青年の腕であっさり払い除けられてしまった。どうしよう!
ドカッ、ドカッ! とまるで恐怖に怯える私の心臓の拍動の様な音が近づいて来た! と思うや、一頭の馬が目の前に駆け込んできて、騎乗していた武官が私を護る様にバッと目の前に飛び降りた。
なんて素敵なの、頼隆様! 助けに来て下さったのね! まるで後宮で回し読みしている物語みたいだわ!
男らしい大きな手がすぐさま脇の太刀に掛けられ、いつでも抜けるように身構えているわ!
「どこのお方かは存じませんが、こちらは後宮に仕える女官の君です。無礼な真似はお止め頂きたい」
「ち、また余計な邪魔者が……」
「こちらも手荒な大事にはしたくはございません。どうかお引きを」
今度は頼りになる大きな背と、怯えの欠片も無い落ち着いたしっかりした殿方の声に護られ、私の恐怖も治まって行く。ああ、護られているのね、私! 凛々しくて素敵!
頼隆様の迫力に押されたのか、妖しい公達は、胸元から笛の様なものを取り出してピーと吹くと、少しずつ後ろへと下がって行く。
「人も来るようだな、これ以上の面倒は嫌いだ。引いてやろう。だが、あの亀に最初に触れるのは私であったはずだったのだ。私の邪魔をしたことは許せぬ。覚えておれ!」
「寛大なお心を持たれた方が、あなた様のためにも良いかと。どこの高貴なお方かは存じ上げませんが、私も覚えておきますので」
「ふん、減らず口を!」
「お迎えが来られたようですよ」
公達の背後から、騎乗したお供らしい者達が駆け寄ってきた。先程の笛で呼び寄せたみたいね。乗り慣れているらしい馬に、公達はひらりと跨る。そして忌々しそうに私の方を睨みつけるや去っていった。
ああ、恐ろしい争いにならなくて良かったわ!
「内侍様、人の足音や他の馬の蹄の音が近づいて来るみたいです。ようやく助けが来たのでは? どうします?」
私と一緒に頼隆様に護られて落ち着きを取り戻した少年が、下からそっと私に囁いた。貴族の女は外で姿を現すものではないと知っているから、この私の今の状況を心配してくれたみたい。本当に気の利く子ね。
「え? 今頃? まずいわ、こんな姿を大勢に見られるなんて耐えられない! 私は牛車に戻ります! いい、私は牛車からは降りていませんよ! 絶対にそうですからね! あなたが勇敢にもこの亀を助けた事にしましょう!」
「は、はい! 分かっております。内侍様は、見っとも無くも裾を上げて牛車から降りて、亀の甲羅など押してはおられません! ぼ、僕が亀を助けました!」
女の面子を掛けた睨みが効いたのか、少年は私の言葉にコクコク頷く。そう、お互いの面子が懸かっているのよ。
もうじき成人の儀を迎えるであろう年齢のくせに、幼子の様に泣いた事をバラされたくなければ、お互いに都合良い様に話を合わせなさいよ! それが、大人の配慮ってものだという事を身を以って知ったでしょう?
何となくの勢いで、助けた亀を抱きかかえつつ、女の面子のため、私は少年の手を借りて慌てて牛車に後ろから乗り込む。
ちょっと、この亀、重い~!
悔しくも付いてしまった土汚れを手で叩き落として乱れた衣装を整えていると、牛車の周りに大勢の人や馬が集まったの気配がした。ようやく御所から警備守護の武官達が来てくれたみたい。あなた達、遅いわよ!
でも、早く来られてもダメだったわね。危なかったのよ、間一髪だったわ! あの妖しい公達には命の危機を感じたけれど、牛車への乗り遅れは、嗜み深い貴族の娘の社会的抹殺となる危機だったのよ!
「頼隆殿! 家人達の言っていた大きな亀は何処に?」
「妖怪の類ではと騒いでおりましたぞ! 後から陰陽師もこちらに来られるそうです!」
興奮して荒々しく問い詰める武官や家人らしき人達が、やいのやいのと牛車を取り囲んでいるわ。どうしよう? 扇の陰で冷や汗が出る。牛車より大きかった亀はこ~んなに小さく縮みました、なんて説明しても信じてもらえないわよね?
「亀とは? 左大臣家に助けを求めて来た家人は、小桃内侍様の牛車が大変だ! としか言っておりませんが? 確かに、カメだか金だか騒いでおりました。てっきり盗賊に襲われていると思い、急ぎ私が単騎で駆け付けました。ですが、亀などは見かけておりません」
ああ、牛車の外に出ていたはしたない私の事は、上手く黙っていて下さるのね、頼隆様は。やっぱりお優しい。
「おい、牛飼い童! 亀はどこだ? 襲われなかったか?」
問い詰められて少年が正直に話す前に、私は慌てて牛車の前御簾の下から亀の体を半分差し出した。じたばたしないでよ、牛車より小さく抱えられる程になったとはいえ、私にとって大きな岩みたいに重い事に変わりは無いのよ!
「こ、この亀です! この亀が大路の真ん中でひっくり反ってバタバタしてました! 内侍様に言われて、僕が助けて牛車に連れて参りました」
「ほほ~! 確かに初めて見る大きさの亀だ。どこぞの池か沼の主と言っても良い大きさだな。何十年生きているのやら……。まあ、人に噛みつくような種類ではなさそうですな」
「恐れるほどではあるまい。お前たち、この亀を見て逃げ出したのか?」
若人を諫めるかのように、比較的年寄りの家人の声がした。確かに普通には見られない、十分「大きな亀」よ。でも、逃げ出すほどではないわね。
助けにやって来た御所の武官達の声に、牛車を置いて逃げた人達を馬鹿にした笑いが滲んでいる。私(と少年)を見捨てて、我先にと逃げた人達に罰が当たったのよ。
「私が駆け付けた時、牛車は怪しい者達に囲まれていたが、馬で脅したら逃げて行った。亀を妖怪と勘違いさせて、牛車を止めて襲う計画だったのかもしれない。昼間だからと油断せず、もっと多くの警護を付けるべきだった」
優しい頼隆様は、態と曖昧な言い方で、亀に怯え逃げたという不名誉から庇って差し上げている。きっと男として、あまりにも情けないからね。やっぱり頼隆様は思い遣り深くて素敵。
「とにかく、小桃内侍殿はこのまま左大臣家へお連れしましょう。幼い親王様が、御遣いに会われるのを心待ちにしておられる。左大臣家からも、盗賊に襲われているのなら保護して差し上げよ、と命を受けている。こちらでお世話致しましょう」
上手く頼隆様がその場を治めて指示を出していき、牛車はゴトゴトとようやく動き出したわ。まるで何事も無かったみたいに。
でも落ち着いて正気に返ると、頼隆様のお声が聞こえるほどお側にいるのは無茶苦茶気まずいわ。見っとも無く外に出ていたはしたない姿も見られてしまって……。真面目な頼隆様には呆れられて、すっかり嫌われてるかも? 涙が出そうよ。
しかもこの亀をどうしましょう? 拾った生き物を捨ててはダメ?よね……。責任を持たねばならないのは分かっているのだけれど。
ひょっとして、あの妖しい公達よりも、この亀が側にいる方が遙かに問題なのではないかしら?