8 苦悩
Ⅷ Side:L
「じゃあ、開けるぞ」
シルビオは合図をして、大きな扉を軽い力で押す。
すると、ガコンという音の後にそれは開いた。自動で開いた扉に対し、二人は揃って目を丸くして、視線を合わせる。レイラが以前に試したときとは、明らかに態度がちがう。
そんな彼らの耳に、一つの軽い靴音が届いた。だんだんと階段を駆け降りて、こちらに向かってきている。軽く控えめなその音に、レイラはどこかピンとくる。
「これ、女性の足音じゃない?」
「女性? 先日、ここで誰かに会ったのか?」
「いいえ、会ってないわ。けれど、この靴音はたぶん女性のもの……」
レイラの予想は、すぐに正解であると証明された。
シルビオたちを出迎えたのは、赤茶色の髪をした女性だった。ピンク色のドレスを身に纏い、腰には白いリボンをつけている。
「シ、シキ? あなた……シキではないの?」
「アネット、なのか?」
アネットと呼ばれた彼女は、目を潤ませながら何度も頷いてみせた。
どうやら、シルビオとアネットは知り合いであるらしい。それも、十年前からの知り合いであるようだ。
「まあまあ……生きていたのね、シキ。また会えて嬉しい」
「そうだな、また会えてよかった」
あのシルビオも、懐かしそうに目を細めた。彼女のことがもう少し知りたいと、レイラは二人の間に入ってみる。
「ねえ、二人はその、昔からの友だちなのよね?」
「ああ……紹介する。彼女はアネット、同じ孤児院にいたんだ。アネット、彼女は――」
「この王国のお姫様、レイラ。もちろん知っているわ。あたしも王宮にいたのよ」
「ふぇ?」
レイラは間抜けな声を出してしまった。
王宮にいたという身内の中で、知らない者がいたことに対して申し訳なくなる。
「ごめんなさい、アネット。私、まったく把握できていなかったみたいで」
「あら、気にしないで。あたしと縁がなかっただけよ。レイラ姫は健康的だもの」
彼女の言葉を聞いて、レイラは首を傾げる。意味が咄嗟には理解できなかった。
構わず笑顔のままでいるアネットに代わって、シルビオが説明を加える。
「アネットは、王宮の薬剤師でもやっていたんだろう。彼女が養子となったのは、薬屋の爺さんと婆さんの家だった」
「ええ、彼の言う通りよ。つまりはそういうこと。だから、気にしなくていいの。王宮の身内、全員を把握だなんて、王様でもできないことでしょうよ」
「ありがとう、アネット」
彼女たちは二人でにっこりと笑顔を交わす。だが、アネットの顔からはだんだんと笑みが消えていった。
「ねぇ、あなたたちは何をしに来たの?」
トーンの下がった声に、鳥肌が立つのが分かった。
ぐっと拳を握りしめるレイラに気づいたのか、シルビオが彼女の肩に手を置いた。そして、ゆっくりと告げる。
「俺たちは、アキに会いに来た」
「アキに会って、どうするつもり?」
震える声で問うてから、アネットは目を逸らした。どんな返事も受け入れないつもりだろうか、と彼らは眉を寄せる。
やがて、シルビオが答えようとして「アキ」の名を口にしたとき、アネットが大声をあげた。
「帰って! ここから、今すぐに去って! これ以上は誰も望まない。どうか、彼を苦しめないで……!」
彼女は本当に、どんな返事も拒絶した。
彼らの間に、何があるのだろう? 何が失われてしまったのだろう? それとも、彼らの間には何もないのだろうか?
レイラの中で、疑問が渦巻く。だが、その答えは得られないだろう。誰も、それを知っているとは思えない。しかし、その根拠はない。なぜだか、そう思うのだ。
「アネット、落ち着け。おまえは何か誤解でもしている。俺は、アイツを傷つけない」
「ちがう、あなたは傷つけてしまう。その存在がすべてよ」
「何を、言ってるんだ? おまえはさっき、俺に会えて嬉しいと……」
「ええ、あたしは確かにそう言ったわ。嘘じゃないもの。けれど、アキは――っ」
彼女の喉から、その先の言葉が出てこない。苦しそうな顔をして、手で口元を覆ってしまう。沈黙の時が流れる間に、また城の中から靴音が響いてきた。
それは静かに、こちらへと近づいてくる。早くなることも、遅くなることもなく、ただ一定のテンポで歩んでいる。音がしたから、そこに向かっているだけとでも言うような雰囲気の歩みだ。
「……もう、手遅れだわ」
アネットは、確かにそう呟いた。目を合わせないように下を向いた彼女の姿は、現実からも目を背けたいように映る。
そして同時に、その態度はこれから現われる姿を確信させていた。
「アネット、大声を出して、一体どうした……の……」
現われた彼――アキは、来客を見ると動きを止めた。そればかりでなく、シルビオの姿を見て、全身から力が抜けてしまったらしい。ふらりとした身体をなんとか保つと、不安定な足取りで明るい外へと出てきた。
白い他の衣類により、青いジャケットと紺色のマントがより目立つ。そこまではレイラも知る兄であるが、彼は黒の眼帯をしていなかった。昔は眼帯の下に隠れていた左目が、赤く光を反射している。
「シ、キ、なのかい?」
「アキ、そうだ。俺は」
「生きて、いたんだね。そうか」
「アキ?」
シルビオは懸命に、アキとの会話を成立させようとしていた。だが、アキの耳には何も届いていないかのように、彼はひとりで話している。
「ああ、この気持ちは何だろう?」
「アキ!」
我慢できなくなったシルビオは、彼の肩を掴んで揺さぶる。ようやく彼を捉えたアキの瞳は、困惑の色に揺れていた。
「ごめん、本当にシキなんだね……。ねえシキ、君は僕と会って、何を感じた?」
「そりゃ、嬉しいよ。会えて悲しいわけがないだろ?」
「そうだね、それが正解だよ」
息を呑んだシルビオだけでなく、レイラもアキの違和感に気づいていた。
彼はおかしい。自分たちの知っている彼ではない。
相手に向かって弱々しい声で話しているが、何かに向かって何かを強く訴えている。
「僕はね、今とても苦しいよ、悲しいよ」
「アキ、おまえは何を言ってるんだ?」
「シキ、僕はね……シキに再会できて嬉しいはずなんだ。なのに、あのとき流した涙は無駄だったのかと思ってしまっているんだ。僕がシキのために流した涙は、意味がなかったんだから」
そうだ、レイラは思い出す。
アキはいつでも、シキが生きているという確信を持っていなかったのだ。おそらく、それと同時に希望も持っていなかったのだろう。
十年前のあの日、シキは死んだ。アキは大切な友のため、涙を流した。だが、シキは生きていた。その涙は永遠に届かず、意味のあるものではなくなった。
「僕の涙を返してくれ。もう、苦しいよ……!」
彼は頭を抱え、声を絞り出す。
次の瞬間、空から妙な音がした。
「姫さん、下がれ!」
はっとして、上を向く。レイラの視線の先では、黒光りする槍が浮かんでいた。彼女の方へ、槍の先は向いている。
「……っ!」
事実に気がつくと、足は途端に動かなくなってしまった。
「おい!」
シルビオが彼女の腕を掴んで、引きながら後退する。
槍に警戒する二人に向かって、馬が鳴いて「乗れよ」と呼びかけた。いつの間に、繋いでいた紐を外してきたのだろう。
「姫さん、しっかりしろ」
「ごめんなさい。もう大丈夫……シルビオ、槍が!」
空中に浮かぶ槍が、一つ、また一つと地に降り注ぎ始める。
「シルビオ、うわっ!」
彼は何を言うこともなく、さっとレイラを抱えて馬に飛び乗った。空気を読んだ馬が、ここぞとばかりに走り出す。槍を避けて、日の暮れた森の中へと飛び込んで行った。