5 緑の喧騒
Ⅴ Side:S
十年前のあの日、俺たちの日々は壊された。
大丈夫だよ、と振り向いたアイツの表情を忘れるものか。
キラリと潤んだ赤い瞳を俺は知っている。
楽しかった日々の中にいたアイツの笑顔を忘れるものか。
ふわりと笑う優しい顔に、曇りなんてなかった。
「あはは、僕たちもいこう?」
それは光に喜ぶ葉のような緑色の瞳で、すべてを吸収するような輝きを放つのだ。
*
脳内で記憶が再生される。あの日の彼と、昨日の彼女。その二人が重なり、苛つきの理由が示されたのだ。
「同じだ」
額を押さえながら、シルビオは小さく呟いた。
彼の正面では、カロルが見透かしたように笑っている。それに気づいたシルビオは、何事もなかったかのように顔を逸らす。
この沈黙は妙にむずがゆい。だが、言葉を発するのは負けであるような気がする。
「……はぁ」
どこか場所を移そう、そう思ったときだった。
カロルがシルビオよりも先に立ち上がった。そして窓に寄り、静かに目を閉じて、じっと耳を澄ませる。
次に目を開くと、彼はシルビオに向かって頷いた。森が騒がしいという合図だ。おそらく、狼が動き出しているのだろう。
「シルビオ」
カロルが普段よりも低い声を出した。嫌な予感が襲ってくる。
受け入れる覚悟をもって、シルビオは力強い頷きで返した。それを確かに受け取ったと合図して、カロルは家を出て行く。
――どうか、その予感が的中していても、いい方向に収まってくれ。
壁に身を預け、シルビオは柄にもなく祈る。
運命というものが本当にあるのなら、その針は「始まりの時」を示しているだろう。それが悪夢でないことは、祈るばかりだ。
しばらくすると、開き放した扉の外から馬の足音が聞こえてきた。すぐそこまで来ていると分かった瞬間、シルビオは外へと飛び出す。その瞳が映したのは、予想と合致した姫様の姿だ。ただひとつ不思議なことが、なぜ彼女はドレスを着ているのか。
レイラは必死な表情を纏い、こちらへ向かってきていた。ただならぬ雰囲気に、シルビオは思わず駆けよる。
「おい、姫さん」
「どうしよう」
手綱を握る彼女の手は、ひどく震えていた。その手を包み、落ち着かせようとする。
「とりあえず、降りろ。ほら」
落ち着かせることに必死になって、シルビオは両手を広げる。レイラもレイラで必死なために、深く考えることなく腕の中に飛び込んだ。彼の服を掴み、必死に訴える。
「どうしよう、兄さんが……兄さんが」
「落ち着け、ちゃんと俺の目を見て――」
「助けて、シキ」
「なんっ……」
シルビオは怯んだ。なぜ、彼女がそれを知っているのか。
あり得ないのだ。彼を正しく知っているなど、あり得るはずがない。
「彼を助けて、おねがい……!」
レイラの訴えが、彼を現実に引き戻した。まず、彼女を落ち着かせなければ。
「分かった。だが、落ち着いて話を聞かせてくれないか」
「う、うん。うん、うん」
「よし、家の中に入るぞ。温かいものでも飲め」
その震える身体を支え、屋内へと入った。彼女を椅子に座らせると、湯を沸かす。
数分後に、ふと「すぅすぅ」という音を聞き取った。まさかと振り返り、思わず溜息を漏らす。
先ほどまでの緊張はどこへ行ったのか。落ち着けとは言ったが、くつろげと言った覚えはない。
モヤモヤとした気持ちは、ガシガシと髪を掻いて追い払い、レイラの身体にそっと布を掛けた。そして、行き場をなくした湯はカップに入れ、彼女の正面に腰掛ける。
さらりとしたレイラの髪に触れ、乱れた前髪を退かすと、赤くなった目元が見えた。
彼女は一体、どんなことを思いながら、ここまで馬を走らせてきたのだろうか。やっと帰ることができたはずの家から、どうして狼も恐れずに来たのか。
『助けて、シキ』
レイラは知っていた。
あれは本当だったのだ。
あの日のことは夢ではない。
そして、向き合わなければならないのだ。アイツと、ついに。
『僕たちもいこう? ね、シキ』
『僕は大丈夫だよ、シキ』
再生される言葉と悔しさ。シルビオは負を忘れようと、熱い湯を冷ましもせずに飲みこんだ。