4 両極
Ⅳ Side:L
また、知らない部屋に一人きりだ。
だが、今度は人の気配がする。独りじゃない。いや、いつだって、彼女がひとりになることはないだろう。
大きな窓から、森の中を眺める。ここからは、王宮が見えないらしい。
「はぁ」
心地よい冷たさの風に靡かれ、レイラは息を吐いた。
なぜ、シルビオはそこまで拒絶的なのか。なぜ、イライラとしていたのか。
分からない、彼のことが。彼に何か引っかかりを覚えている自分が。
「なんなのよ、もう」
窓の縁に腰をかける。気分が落ち着かない。
何か大切なことに気づいているはずなのに、それが思い出せない。靄がかかったかのように、記憶の一部がぼやけている。
そのとき、扉をノックする音が響いた。シルビオだろうかと軽く返事をすると、扉を開けたのは彼ではなかった。
そこにいたのは、黒いシャツと灰色のズボンに身を包み、優しい笑みを浮かべている男だった。
真っ直ぐな灰色の髪を風に靡かせ、紫色の瞳は光を反射して輝いている。ひらひらと振る左の手首では、紫と黒の腕輪がカラカラと交わっていた。
「失礼、シルビオじゃなくてごめんね?」
「あ、いいえ、別に彼を待ってたわけじゃないわ」
「へえ、そうなんだ。入っていい?」
「ええ、どうぞ」
「ありがとう」
その男は部屋に入ると、なんの迷いもなくベッドに腰を落ち着かせた。そして、レイラを手招きして隣へと誘う。
「初めまして。僕はカロル。シルビオとここで暮らしているんだ、一応ね」
「一応?」
怪しい言い方だったが、彼はうんと頷いてみせる。しかし、爽やかな笑顔でにっこりとすると、話題を変えられてしまった。
「キミはレイラ姫だよね。うわさ通り、きれいでかわいらしい」
「あ、ありがとう」
「王宮の生活はどうなの? ぜひ知りたいな」
「面白いことなんかないわ。規則、礼儀、時間、全てが誰かに管理されてるようなものよ。何をしようにも、自由な時間なんて限られてる」
「なるほど、だからキミはこの部屋から動かないのか。やれることは浮かばないし、やりたいこととかも特にないって?」
「その通り、かしらね。シルビオに拒まれもしたし」
加えて、姫として育った彼女に家事などできるはずもなかった。
何も言わないが、もちろん彼らは分かっているのだろう。
「ごめんね、レイラ姫」
「えっと、何のこと?」
突然の謝罪に、頭が置いて行かれている。目を丸くして固まっていると、カロルは言葉を続けた。
「彼、愛想ないでしょ」
ああ、そのことか。と、彼女はすぐに理解できた。拒まれたという点において出たのだろう。
レイラはいい返事が浮かばなかった。何を返すべきかと迷っていると、カロルは優しく話を繋げる。
「気づいていると思うけど、シルビオは王族が嫌いなんだ。大が付くほどに」
やはりそうなのか。
自分と特定されているわけではない。けれど、自分も例外でなく含まれている。
その事実を言葉で伝えられると、グサリと刺さるものがある。本人の口から言われなかったことがまだ救いだった。
――いや、そうじゃない。
レイラは首を横に振り、暗い気分を吹き飛ばす。固い決意を示すように、拳を強く握った。
「たとえ、彼が王族を嫌いでも、恨んでいても……みんなが同じじゃないって、きっと分からせる」
「おっ? その意気、いいね。応援してるよ」
面白そうだと期待に満ちた視線を向け、カロルは笑顔で部屋を出ていった。
よし、そうとなればがんばらなきゃ――そう改めて意気込んだものの、それから何の進展もなかった。
翌日、朝食を食べてから王宮まで送ってもらい、帰る彼を部屋からただ見送った。
「こんなはずじゃなかったのに……」
シルビオとは、ほんの世間話程度しか交わしていない。いろいろと話そうとしていた意気は、夢の中に置いて来てしまったのか。
今朝は会わなかったが、カロルが聞いたらどんな反応をするだろう。想像しただけで、なぜだか恐ろしい。
やってしまった、と後悔を含んだ息を漏らす。
「姫様、どうかしましたか?」
着替えの手伝いをしていたメイドが声をかけた。レイラは余計な心配をさせまいと「なんでもないわ」とだけ答える。メイドは首を傾げつつ、水色のリボンを姫の腰に巻いた。
着慣れた黄色と緑のドレス、とても見慣れた自分の姿だ。鏡を見ていると、そのことに罪悪感を覚えた。まったく訳が分からない。
一仕事を終えたメイドが部屋を出ると、待っていたかのように一人の男が入ってきた。彼はそっと部屋の扉を閉める。
「おかえりなさい、レイラ姫」
「ただいま、ネイト」
彼の名はネイト。レイラの執事であり、彼女のよき理解者だ。
彼らの付き合いは長く、歳も十つほどしか離れていないため、二人は程よい関係性を保っている。
「旅はいかがでしたか?」
「とてもいい経験だったわ」
「それはなによりです。何か、ミスをやらかした、という顔をしていらっしゃいましたが」
「うっ」
そこまで読み取られてしまえば、もう感心するしかない。
「そ、そうかしら」
「もし、それが人間関係であるのなら、気にすることはないでしょう。王宮関係者以外との交流がほとんどなかった姫様ですから」
完璧に確信されている。いい笑顔で言うものだから、さらに恐ろしい。
「ええ、そうね、きっと」
「レイラ姫、過ぎた時間は二度と戻りません。時計の針は同じところを回っていますが、その日その日にただ一つの時間を刻んでいます」
彼の言葉の影に「あなたらしくない。素直になったらどうです?」という意味が隠れていることは、レイラにもすぐに分かった。
ネイトは彼女の話に興味はあるものの、わざわざ話してくれなくてもいいと伝えてくれているのだ。
「ありがとう。そろそろ、切り替えなきゃね」
「はい」
今度の笑顔は、爽やかで落ち着くものである。自然と笑顔を引き出され、レイラも微笑んだ。
その日の夜のことであった。
レイラはまぶたをこすりつつ、月明かりの照らす廊下を歩いていた。辺りには、誰もいない。
すると、どこからか知った声が聞こえた。母親と兄のヘルハルトだ。
何を話しているのだろうかと気になり、壁に身を隠して耳を澄ませる。
「レイラを攫ったのは、フレディだろう」
突如飛び出した自分の名前とその内容に、ハッと驚いた。声を押し殺し、動揺をしまい込む。
そうだ。シルビオが「知らない」と言うから、蓋をしてしまっていたが、誰もが辿り着き得る答えであった。
そして、また耳を澄ます。ヘルハルトの声が、普段よりワントーン低い。どうも、胸のざわめきが止まらない。
「あいつは殺さないと。そうだな……実行は、明日の夜だな」
――ヘルハルト兄様が、フレディ兄様を殺す? 実行は明日の夜?
咄嗟に、足下へと目を向けた。幸い、今はヒールを履いていない。
レイラは音を立てないようにそこを去ると、駆け足で部屋に戻った。さすがに寝衣のまま出かけることはできない。
部屋で最初に目に付いた黄色のドレスを身に纏い、水色のリボンを手に取る。
だが、慣れない手つきのために、普段の整った形を成さない。時間を惜しんで、そのままにしていると、背後から溜息が漏れた。
「いけませんね」
彼の声に冷や汗が流れた。振り返ると、そこにいたのは予想の通りの人物であった。
「ネイト……」
部屋のドアを静かに閉めると、ネイトは笑顔を奥に仕舞ったまま彼女に近づいた。レイラはゴクリと唾を飲む。
絶対に引き留められる。そうすれば、もう終わりだ――そうとしか思えなかった。
「焦りすぎてはいけません。格好がつかないではありませんか」
「えっ」
ネイトは静かにしゃがみ、水色のリボンを結び直した。そして、レイラの左手に鍵を握らせる。
「国王候補たるもの、いつも完璧でいなければ。まずは外見から、ね」
優しい表情に、つい涙が出そうになった。
何があろうとも自分は味方でいると、いつか言ってくれたのを思い出した。
「何があっても、あなたは」
「私はレイラ姫の味方です。もし裏切ったら、一時間後に自害しましょう」
「その一時間は何なのよ?」
「懺悔の時間でしょうか」
彼のおかげで、変な緊張はなくなった。ただ、急がなくてはならないことには変わりない。
「では、おやすみなさいませ、お姫様」
「おやすみ、ネイト」
ネイトは一足早く、部屋を出た。誰にも勘づかせないようにするためだ。
しばらくして外を確認した後、レイラは急いで馬小屋へ向かった。
狼が出ようが構わない。とにかく今行かないと。明日になれば、きっと行動できないだろうから。