2 新しいこと
Ⅱ Side:L
飾りのない質素な部屋で、レイラは目を覚ました。窓がないために、今が何時であるか全く検討がつかない。だが、それはどうでもいいことのように思えた。
寝衣の姿で裸足のまま、彼女は扉を開けて部屋の外を覗く。
「ねえ、誰かいる?」
ある程度の声量を出したつもりだったが、漂う空気に変化はない。
「そう」
静かに扉を閉めると、ふぅっと深呼吸をする。
そして何かを決意したように頷くと、机の上に置かれた青いワンピースに着替え、ヒールのない靴を履いて部屋の中を見回した。
「この部屋はなんて寂しいのかしら?」
レイラはやれやれと困り顔を浮かべ、リズムに乗って歌い始めた。部屋の中に澄んだ歌声がこだまする。
「部屋の中にはベッドと机だけ。壁に窓はないし、扉に鍵もないわ」
歌いながらドアノブに手をかけ、再び部屋の外に出る。正面口の大きな扉を見つけて動かすが、それはビクともしなかった。
「部屋の外に出るのは自由。建物の外には出られないみたい、鍵があるのかしら……これじゃまるで王宮みたい? いいえ、ここは王宮じゃない。だって――」
レイラはより声を張り上げる。誰も見当たらないから遠慮する必要がない、ただそれだけではなかった。それはまるで、隠れている誰かに向けるようでもあったのだ。
「だって、ここでは王族としての気品は必要ない。注意する大人だっていない。そう、私は自由な女の子。何でも好きにやれるわ」
その場でくるりと回ると、正面口すぐの階段を駆け上がる。
ここには何があるのだろう、知らない何かがあるのかもしれない。そんな期待が、彼女の足を軽くしていった。
暗く塞がれた二階を通り過ぎ、最上階へと上がっていく。段数が多かったことで、さすがに息が上がってきた。
そんな彼女の瞳に、太陽の光が映り込む。塔のてっぺんにある部屋には、温かい太陽の光が差し込んでいたのだ。
引き込まれるようにして、レイラは部屋に足を踏み入れ、光を通すガラスの扉へ向かって歩いた。そこに手を当ててみると、キィッと音を立てて扉は道を開く。その先の景色は、レイラに歌を誘った。
「爽やかな風の吹く町を、塔のバルコニーから眺めるの。向こうに見えるお城は町の中心、とても堂々としてる。けれど驚いた、あのお城がこんなにも小さく見えるなんて」
レイラの見つめる先には、緑豊かな町の様子があった。春の暖かさを華やかに喜んでいる。
だから余計にそう見えるのだろうか。
少ししか離れていないはずの塔には、春らしさがないように感じさせられた。辺りを涼しげな森林に囲まれているからか、木の周辺には雪が居残っている。
そして、彼女の髪を撫でる風は、恐ろしいくらいに冬の寒さを纏っていた。
ひやりと薄着の身体は冷やされ、レイラは室内へと逃げ込む。胃の中が空っぽであるのを感じるが、腹の虫はまだ寒さに震えているように静かだ。
とりあえず布団に戻ろう、と階段を降り始めた彼女の腹がぐぅと鳴く。気づけば、どこかから美味しそうな香りが漂っていた。もう一度、早く欲しいと虫が騒ぐ。
レイラは足を早めた。匂いのする方へと急ぐ。今ならまだ、誰かに会えるかもしれない。
出所を確信し、その部屋の扉を勢いよく開けた。だが、そこに人の姿は影すら見えなかった。
代わりに、湯気の立ったスープとパンが彼女を出迎えている。
「わぁ……」
これまでの日々の中で、これほどまでに食事を喜んだことがあったろうか。
明らかに料理の数は少ないが、それを弾き飛ばす程の何かがある。
「いただきます」
聞いているだろう誰かに向かって、レイラは感謝を述べる。
はじめに、スープへと手を伸ばした。温かい湯気が頬を撫でて包み込み、口内を通った汁は芯から身体を暖める。ほっと息を吐いた。
「あっつっつ」
よく温まったパンをほくほくと食べる。食事はあっという間になくなった。
「ごちそうさまでした。とっても、美味しかったわ」
返事がないことを気にする様子は少しも見せずに、彼女は席を立ち、部屋を出る。そのまま寝室へと戻ると、暖かい毛布に包まって目を閉じた。誰も居ない静かな部屋で、ゆらゆらとリラックスタイムを楽しむ。
はずだったのだが。
突然、ドンッと何かが壊される音がしたと思えば、今度はバラバラと破片の転がる音がする。これは部屋の外だ。
驚いた勢いのままに扉を開ける。すると、見つけたのは数時間ぶりの人間だった。
質素な服が引き立たせている、純白の髪と青の瞳。どこか、ただならぬ雰囲気を持ち合わせている青年だ。レイラよりもいくつか年上だろう。
「ええと」
無言でいるのも気まずいと思い、レイラは声を発する。だが、上手く言葉を紡げない。
「あんたが姫さん?」
「ええ」
「そうか、なら仕事は終わりだな」
「……は?」
建物に足を踏み入れないまま、彼はレイラに背を向けた。剣を背中の鞘に仕舞うと、両腕を上に伸ばして、クールダウンをはじめた。
そのまま清々しく歩きだそうとする背中に向かって、レイラは大声を投げつける。
「ちょっと、置いていくつもり? 王宮まで連れて行ってくれないの?」
「はぁ」
彼は足を止め、ゆっくりと振り返った。嫌そうな呆れ顔で首を傾げる。
「俺の任務は、あんたを救い出すって話だった。つまり、王宮まで送ってやる義理はない」
「そんな! あんまりだわ」
しかし、その反論は軽く両手と肩を挙げて流されてしまった。
むっとしたレイラは、腕を組んで王族の振る舞いを見せる。冷静を表に引き出し、あごを上げて見下すように。
「いいわ、分かった。なら、姫の命令よ。王宮まで連れて行きなさい」
「やだね」
「んなっ」
出した勇気を跳ね返され、レイラはダメージを隠せない。目は涙ぐみ、頬は火照ってしまった。だが、彼はさらなる追い打ちをかける。
「上から偉そうに言われたところで、何も変わらない。むしろ、何も聞く気にならないぜ。たとえ、そんな一生懸命でもな」
「~っ」
それでも紳士かと問いたくなったが、彼は顔色一つ変えずに否定するだろう。言葉を飲み込み、目を伏せる。
「じゃあ、いいわよ。一人で帰るわ」
「やめたほうがいいぜ。この辺りは狼が出る、この時期は特に」
「なら、どうすればいいの? あなたは私がどうすれば、満足するのかしら?」
「さあな? 上から来られても困る」
レイラは彼に違和感を覚えた。何をそこまで受け流したがるのか、と。だが、今にそれを考えたところで意味がない。
まず彼が求めていることを、素直にするべきだ。
組んでいた腕をほどき、彼の元まで歩み寄る。
「おねがい、私を王宮まで連れて行って」
レイラの態度は、期待に答えられたらしい。彼は満足げに笑うと、腰に手を当てて告げる。
「しょうがないな。ただし、条件がある。出発は明日だ」
「え、なぜ? まだ明るいじゃないの」
「天気だ。ここ最近は、夜になると雪が降る。良くて曇りだ」
「この時期に、まだ雪が降るの……?」
「まあ、その謎はどうでもいい。王都と森でズレがあることは今に始まったことじゃないからな。今回はズレが大きいだけだ。それより大事なのは、さっきも言ったことさ」
「出るのよね?」
「ああ、その面倒は避けたい」
「なら、それまでどうするの?」
「俺の家で一夜を越す。ようは、庶民の地味な家で過ごせってことだ。もちろん、部屋は別にある。あんたの快眠は邪魔しない」
快眠の言い方に多少の悪意があった気がするが、大きく受け流すことにした。その条件なら、受け入れられる。
「いいわ、それでおねがい」
「了解した」
そして、二人は縦に並んで山を降り始めた。前を行く彼は、後ろを気にしていないだろうと思われたが、さりげなくレイラを気遣う様子を見せた。
この枝刺さるぞ。ここ滑るぞ。ほら、危ないって言っただろ。
「わっ」
「何回ひっかかるんだ、あんたは」
「ご、ごめんなさい」
「次こそ気をつけてくれよ、姫さん」
「レイラ」
「ん?」
「私の名前」
「ああ、そうか。どっちだっていいだろ?」
「ただ、覚えておいて欲しいだけ。あなたの名前は?」
「シルビオ」
「シルビオね、覚えたわ」
覚えなくていいぞ、シルビオはふぃと顔を逸らして歩き出した。