5 ワタリワタル
事務所に場所を移した後、おれは二十分ほど土生の話を聞いてから、彼と連絡先を交換して「すぐに連絡をいれるよ」といって、いったん今日のところは引き取ってもらった。
土生を送り出すと、事務所のドアを閉めて窓際のデスクまで戻る。安物のオフィスチェアの背もたれに体重を預けながら、おれは無意識のうちに窓の外を見た。汚れたポロシャツ姿の土生が通りを歩いていくのが見えた。あしびばに現れたときのように、背を丸めてなんとも頼りなげだ。
さて、どうしたものかと深いため息が漏れる。ANYはなんでも屋だが、だからとといってどんなことでもするわけじゃない。
できないことのうちのひとつは法律に触れること。犯罪に加担するようなことはその罪の大小を問わず受けることはない。ときどき、おれに車での送迎を頼む高齢者がいるのだが、おれは二種免許を持っていないので当然ながら仕事としては断る。
もうひとつは、完遂できない仕事を受けることはしない。
努力し時間をかけて依頼を成し遂げられるものなら受ける。しかし、物理的、時間的に不可能だと判断した場合は受けることはない。
今回の土生からの依頼は、本来ならば断わるような案件だった。どちらかといえば後者に近い理由だ。つまり、目的を成し遂げる目途が立たないということだ。だが、土生は頑としておれが進言する警察への相談をはねつけた。
結局、おれが三日間だけなんとか頑張るが、それ以上は警察の出番だといって、双方が妥協する形でついさっき、彼は帰っていったというわけだ。
腕時計に目をやると時刻は午前十時を少し回ったところだった。兎にも角にも、情報収集が必要だと判断したおれは、市役所にむかうことにした。この島にやってきたばかりの頃、おれをフリムン呼ばわりしやがった男、太浩二に会うつもりだった。
保護課職員のコウジは妙に交友関係が広い男だった。ケースワーカーとして勤務する中で、いろんな人たちとの繋がりが増えていったのだといっていた。そこで、おれはこの依頼について、ヤツがなにか有力な情報をもっていないかを聞こうと考えていた。何しろ、今はまるで手がかりがなく、雲をつかむような気持ちなのだ。
事務所の扉にかけた札をひっくり返し「外出中」の表示にして、おれは階段を降りて外に出た。
テナントビルの一歩外に出ただけで、初夏のむせるような湿度を帯びた熱気が、Tシャツ姿のおれの周りにまとわりついてくる。南国とはいえ、カラリとした気候ではないこの島ではごく当たり前な朝の空気だ。
事務所の前の交差点を西向きに歩いていたところで、おれは後方から「アキオ!」と呼びかけられて、はっとして振り返った。そこには、警察官の制服に身を包んだ男が、自転車にのっておれに近づいてくるところだった。
「よう、ワタル」と気安く手をあげておれもこたえる。彼はこの島の地域課所属の巡査、渡渉。冗談みたいな名前なのだが、本人は「みんな絶対覚えてくれるから」と、気に入っているらしい。
「どうした? 朝っぱらからパチンコか?」
「馬鹿いえ。仕事だよ。ついさっき依頼を受けたんだ」
「お前に仕事を頼むなんて、依頼人はよっぽど物好きなんじゃや? またどこかの祭りの手伝いか?」
「いや……そうだ、ワタル。もしわかるなら教えてほしいんだけど、この島で誘拐事件というのはよく起こるか?」
はあ? とワタルは顔を歪めた。ずいぶんとあさってな質問だったようだ。ワタルは呆れたような声でいった。
「めったに起こらんちばよ、そんな事件。東京みたいに人の多い都会ならとんでもない金持ちがいるだろうから、身代金目的でそんなこともあるかもしらんちゃが、この島には大富豪なんてそうそういるもんじゃない。獲物のいない場所にハンターはやってこんじゃろ。あれは刑事ドラマの中だけの話じゃや」
「そう、だよな。すまん、変なことを聞いた。ちなみに、家出人の捜索なんていうのはどうだ?」
「夏休みなんかに、子供が一晩帰って来てないなんて話はあるがな。こんな狭い島、家出してもどこにも行けんちば。それよりもなんだ? アキオはまた何か変な依頼受けたか?」
心配しているわけではなさそうだが、ワタルは眉間にシワを寄せながらきいてきた。おれは「いや、ただの興味本位だ」といって、ワタルの前に手をむけて、この会話を終わらせる。すると、今度はワタルかが「そういえば」といってあごをさすった。
「ちょっとまえに、中部の原生林で死体遺棄事件ちゅうのはあったや。そんときは、県外で殺害したホトケさんを、この山ん中に捨てたっちゅう事件だったがな。あそこは市の環境対策課なんかが調査に入る以外は、滅多に人が立ち入る場所でもないからや」
「原生林か……」
ワタルの言葉に、おれは行方不明者が原生林に潜伏するだろうか? としばし考え、それは馬鹿げた妄想に過ぎないなと、すぐに頭の中から一掃した。
「ま、アキオも原生林には近づかん方がいい。どこでハブに出くわすかわからんし」
「ああ、そのつもりだ。ハブにはまったく興味がないんからな。すまんな仕事中に」
おう、といってワタルは自転車にまたがり、朝のパトロールに出かけていった。一見平和そうなこの島でも、警察官はいろいろと忙しいんだろうな、と走り去る後ろ姿を見ながらそんなことをおれはぼんやりと考えていた。
ワタルと別れて数分も歩かないうちに、市役所に到着した。エントランスでは数人の市民が届け出に訪れているほかは、閑散として実にのんびりとした空気で満たされている。
そのエントランスの階段を地下階へと降りて、おれは保護課のカウンターをのぞく。数名の相談者が順番待ちをしている。事務エリアを見渡すが、目当てのコウジは席にはいないらしく、おれはカウンターの一番近くに座っていた女性の事務員に「すみません」と声をかけて呼んだ。メガネをかけたいかにも真面目そうな地味な事務員は、カウンターにやってきて「はい、なんでしょう?」と応対をする。
「今日は太コウジは来てませんか?」
「ああ、彼なら今日は家庭訪問にまわっていますから、戻るのは夕方ですね。戻りましたら連絡させましょうか?」
おれは「いや、じゃあいい」と断って、踵を返してふたたび庁舎の外へとむかう。六月に入ったばかりだというのに、気温は三十度はありそうなほど熱気がこもっている。おまけに、梅雨のこの時期は異様に湿度が高く、その不快な空気はおれの気持ちを沈ませるのには十分だった。
次の手をどうしようか、と考えていた矢先、ポケットの中でおれのスマホが振動し、着信を知らせた。それを取り出すとディスプレイには大きな文字で『太浩二』の名前が映されていた。