3 ANY
おれがまだ東京にいたころだ。おっと、こういうと怒られるんだった。実際住んでいたのは埼玉県川口市だったからな。まあ、便宜上そういわせてもらう。家にはほとんど寝るためだけに帰っていたわけで、ほとんどの時間をバイトと路上ライブに費やしていたんだ。
そんなおれが、ある月の夜に出会ったのは、一人の女だった。
池袋駅の東口、ドン・キホーテの見える広い中央分離帯の真ん中で彼女は一人で歌っていた。よくあるストリートライブの光景。ただ、その歌はどこか異様な空気をまとっていたんだ。いつもなら通りすぎるだけのその場に、おれはなぜか吸い寄せられるように彼女に近づき足を止めた。
そこではいつも誰かが路上ライブをしていて、かくいうおれも何度かそこでやったことがあった。だが、そんな奴らとはすべてがまるで違う。そう感じる歌声だった。
それは、神に捧げる祈りのように美しくも哀しげな旋律。
そして、彼女が手にしていた楽器もおれは実際目にするのは初めてだった。大柄な蛇の皮を張った弦楽器、いわゆる『三線』を爪弾きながら彼女は歌っていた。
歌詞はどこか異国の言葉のようで、何を歌っているのかさえ分からなかった。けれど、おれはその歌声に溺れるように、彼女の正面で夢中になってその音楽に耳を傾けていた。
やがて、誰かが通報したのか、それとも単なる巡回だったのか、二人の警察官がやってきて、彼女にここで歌わないように、と注意を促して立ち去った。残念そうにため息をついて、いそいそと片付け始めた彼女におれは思い切って声をかけた。そのとき、おれのなかで歯車がかみ合わさったような、そんな気がしたんだ。
彼女の名前は『越智愛朱那』といった。彼女が歌っていたのは「シマ唄」という、なんでも日本にある南の島で古くから歌い継がれている民謡なのだという。
目白にある大学の三回生だったアスナは、旅先で出会ったその歌に惚れこみ、独学でシマ唄を習い始めたらしい。ただ、そのシマ唄というものは、本来、歌い手の他にお囃子という相方が必要らしいのだが、彼女は「大学じゃあ、民謡を一緒に歌ってくれる子がいないのよ」と、ため息をつきながらそういった。
そこで、彼女の歌声に何かを感じ取っていたおれは、アスナに「もし、おれと一緒に音楽をやってくれるなら、おれもあんたのそのシマ唄につきあうぜ」と軽い気持ちで提案すると、彼女はまるで飛びつくような動作で、瞬時におれの数センチの間合いに近づき、「本当に!?」と目を輝かせた。
その日から、おれたち二人は少しずつ人生の針路を変えていったんだ。その結果、おれは今ここ、カフェ「あしびば」にたどり着き、そして彼女は……
「どうしたんですか? なんだかセンチメンタルな表情をして?」
マコトに声に、現実に引き戻されたおれは「ああ」と、とっさに笑顔を繕う。
「ちょっと、昔のことを思い出していたんだ」
「東京のときのことですか?」
おれは声を出さずにうなずいた。住んでいたのは埼玉県とはいわない。マコトはどこか淡い憧れのような色を浮かべた大きな瞳を柔らかに曲げる。
「私は高校を卒業してから、ずっとこの島で暮らしているから、都会のことはあまりよくわからないですけど、またいつか東京のお話を聞かせてくださいね」
「ああ、いつかゆっくりと話をしよう。そうだ、コウジたちと一緒の時がいいな」
おれが、この店で出会った友人の名をあげると、マコトも目を細めて、「それは、楽しいお話になりそうですね」と微笑んだ。
ごゆっくり、とマコトがいい残し、カウンターへと引っ込んだちょうどそのタイミングで、入り口のドアに取り付けられていたウィンドチャイムがきらきらと星の瞬きのように軽やかな音色を奏でた。
「はい、いらっしゃいませ」
コーヒーポットをウォーマーに戻し、マコトが入り口にむかう。扉口にはなんとなくこの場に戸惑った様子で背を丸めて、落ち着きなく手を握ったり開いたりする初老の男性が立っていた。
「どうぞ、空いているお席へ。お煙草を吸われるようでしたら、喫煙席もございますが」
「あ、いや。その、ここに大澤亜喜雄という人はいらっしゃるでしょうか?」
男性がマコトにそう告げると、マコトは「えっと……」と、いってもよいのかどうか戸惑ったように口ごもった。それを見ておれは、「大澤アキオならおれだけど」と、その男性にもきこえるほどの声で、入り口にむかって呼びかけた。男はおれを視界に留めると、マコトの横をすっと通り抜けて、おれが座っていたテーブルのすぐ隣に立った。
年齢でいえばまだ五十代半ばといった様子だが、随分と疲れきっているようで、かなり老け込んで見える。頭は頭頂部が極端に薄く、髪が残る側頭部も、半分以上は白髪交じりで、ライトグレイに見えた。
「あの、さっきうえの事務所にいったら、ここにいると札がでていたもので」
「ああ、仕事の依頼ということですか?」
その男性の真剣な表情を見て、これが冷やかし半分でないことを感じ取ったおれは、手にしていた新聞を隣の椅子の上に放り、「とりあえず、座ってくださいよ。コーヒーでも飲みながら、話を聞きましょう」と、余裕のある笑みを浮かべて、その男性にいった。
男は素直にうなずき、おれの正面にすとんと腰を落とすと、タイミングよくマコトが運んできてくれたコーヒーを一口すすった。おれは打ち合わせにここを使うこともしばしばあるため、マコトはそれをよく心得ている。
その男性はすこしは落ち着いたのか、ふうと息をつく。マコトのコーヒーはほとんど魔法だ。
彼が落ち着いたのを見計らい、おれはたっぷりと自信をのぞかせるような表情でいった。
「それで、なんでも屋『ANY』に頼みたいことっていうのは?」
「……はい、実は娘を探してもらいたいんです」
「は……?」
おれのつくった余裕ぶった表情は、素っ頓狂な声とともにもろくも音をたてて崩れ落ちた。