16 ハブ姫
ヒメコの初動対応と応急処置の良さが幸いし、おれは入院から五日目には退院することができた。あの日以来、ヒメコもコウジも病室をたずねては来なかった。一度だけ、あしびばのマコトが見舞いに来てくれたが、それも顔をみてすぐに「じゃあ、お店の準備があるから。新しいバイトの子に留守番してもらってるの」と、いつも通りのお日様のような笑顔を見舞い品代わりにおいて帰っていった。
病院からタクシーで事務所兼住居のある通り沿いのテナントビルまで帰ってくると、おれは薄暗い階段をのぼり、三階の事務所に行く前に、二階のあしびばに顔をだすことにした。一応、マコトに退院したという報告ぐらいはしておこうと思ったのだ。
地中海のリゾート地を思わせるような、ナチュラルなウッドドアを開けると、ドアに取り付けられているウインドチャイムがきらきらと澄んだ音色を奏でる。おれはこの音が大好きだ。
いつもなら、マコトの「いらっしゃいませ。いつもの場所にどうぞ」という暖かな声色が聞こえるのに、今日は違っていた。
「いらっしゃいませー!」
なんとなく、無駄に元気だし、おまけに随分と若くて張りのある声だと思って、視線を奥にむけると、マコトの立っているカウンターの前に、エプロン姿の若い女の子が立っていた。おれは、呆気にとられながら彼女の名前を口にした。
「ヒメコ? 何やっているんだ、こんなところで?」
「何って、アルバイトに決まってるでしょ。誰かさんのせいで、ハブ捕りの仕事ができなくなったんだから!」
不満をあらわにしながら口をとがらせるヒメコに、マコトはまるで子供を叱る母親のような厳しさのある声で、「こら、ヒメちゃん。アキオさんはここのお客様なんだから、そんな言葉づかいしちゃダメよ!」と、注意をする。すると、ヒメコはしゅんとして、ちいさく「はーい」と返事をしたのだ。
おれがなにをいっても聞く耳を持たなかったあのじゃじゃ馬ヘビ娘が、こんなに素直に人のいうことをきくとは! おれはまるで面白い余興でもみているようなにやけづらを浮かべながら、いつもの店の奥の喫煙席にすわった。病院からこっちに来る途中で購入した、真新しい煙草の封を切って、一本口にくわえたところで、ヒメコが銀のトレイに氷水が満たされたグラスをのせてやってきた。
「あんた、じゃなかった。アキオって煙草吸うんだ?」
ヒメコの言葉にカウンターからマコトが「アキオさんでしょ!?」とまたも鋭い声が飛んだが、おれは、ライターを手にした左手を掲げて、それを遮った。
「アキオでいい。ヒメコとはなんだか他人な感じがしないから」
「だよね。一晩を一緒に過ごした中だしね!」と、ヒメコは意味ありげにそういってにやける。
「変ないい方をするな。病院の付き添いの仮設ベッドを宿替わりにして寝てただけだろ」
「なんだ、ばれてたんだ?」
おれは煙草に火をつけてそれを目いっぱい吸い込んだ。久しぶりの一服はどこか、懐かしさと同時に、日常に戻ってきたという安心感を与えてくれた。そして、いつものようにマコトが絶妙のタイミングでコーヒーをおれの前に差し出してくれた。
「おかえりなさい、しばらく見なかっただけで、随分と寂しかったんですよ?」
マコトの言葉におれは照れ隠しにちいさく咳ばらいをして、「うん」とわけのわけのわからない返事をした。ヒメコが茶化すような視線をむけている。
「それにしても、なんでヒメコがここにいるんだ?」
「コウジさんがね、彼女を紹介してくれて。いまヒメちゃんはここでアルバイトしながら、来学期から定時制と通信制の併用できる高校に通うんだって」
「夜の学校だから、さすがにハブ捕りはできないからね。日中に働き口を探していたら、コウジさんが、ちょうどここでアルバイト募集してるって教えてくれたんだ」
「そうか、あいつもなんだかんだでヒメコのこと気にしてるんだな」
香ばしくローストされたコーヒーの香りを楽しみながら、あのつかみどころのない男を少し見直していた。今回に関しては、いろいろとコウジに世話になったし、ひとつ借りだな。
そう思っていた矢先に、電話がなった。ディスプレイには例のハブ屋の主人、元清道の名前が浮かんでいた。
『やあ、大澤君。具合はどうだい?』と、電話口のキヨミチは陽気にいった。
「さっき無事退院したところだよ」
『それはおめでとう。君のハブの買い取り金はまだ俺がちゃんと預かってるからね、いつでも取りに来るといい』
「そうだったな。わかった、ところで今日は何か用事で?」
おれがそう切り出すと、キヨミチは『そうそう、それなんだけど。なんでも屋なんだってね。少し手伝ってほしくてね』と思い出したようにいった。
「ああ、もちろん。なんでも屋ANYは、法に触れないことと、物理的にできないこと以外の手伝いはなんでもやるよ。ちなみに、手伝い料は基本はお金ではもらわないんだ。あんたの持っている、知識、人脈、ちょっとした技術。なんでもいい。おれがわくわくできるようなものを一つ寄越してくれればいいんだが、なにかあるかい?」
キヨミチは『もちろんさ』と自信たっぷりにいう。
『君のおかげでこっちは優秀なハブハンターの卵をひとつ取られちゃったからね。君にもハブハンターの修行をしてもらおうかな』
「おい、本気で? さすがに、勘弁してくれよ!」
『冗談だよ。次のバイトの子が見つかるまで、昼間の店番を数時間頼まれてほしいんだ。もちろん、手伝い料はハブの基礎知識さ。この島で生活するんなら、悪い話じゃないだろう?』
「わかった。もちろんオーケーだ」
おれがそういうと、キヨミチは『よかった。明日からでも来れるかい?』といったので、今からでも行くさ、とおれは笑った。
「誰からだったの?」
ヒメコの声に、おれは一口、煙草を吸い込んでから「あんたの師匠だよ」と答えた。
「今年の夏は、ハブ姫さんのおかげでしばらく退屈しなくて済みそうだ。もっとも、ハブの毒で病院送りは二度とごめんだけどな」
にぎやかな笑い声の花が店内の片隅に咲いた。おれが今回のハブキチさんからの依頼によって手に入れた報酬は、ちょっぴり口が悪いが、家族思いの優しい友人が一人と、ハブに関する諸々の友人が増えたことだ。
「ねえ、アキオの退院祝いに今日の夜、みんなで集まらない? コウジさんも呼んでさ」
「それはいいですね。アキオさんの東京での活躍のお話も伺いたいところですし」
「ヒメコ、お前、おれの話をきいていたのか? おれは東京にいたときに、アスナのことを……」
「アキオは待ってるんでしょ。愛朱那ちゃんのこと」
その言葉におれは心臓を背中まで一直線に貫かれたような衝撃をうけた。
「アキオは愛朱那ちゃんがいつかまた歌えるようになるって、そう思ってたんでしょ。だから、きっと愛朱那ちゃんは、彼女が大好きだったっていうシマ唄のルーツを求めて、この島にくるそう信じていたんじゃないの? だから、この島に来た。この島にいれば、いつか愛朱那ちゃんと出会えるかもしれない。そう信じてこの島に来た。違う?」
「そんなことは……」
おれの言葉はしりすぼみに消える。おれ自身、この島に来たのは気まぐれだと思っていた。けれど、ヒメコのいうように、おれはアスナとの唯一の繋がりだったシマ唄を頼っているのかもしれない。東京の路上で過ごした、あの日常が心の奥底、ぽっかりと空いた隙間に紫水晶の原石のような、くすんだ光となってふつふつと湧き上がり、遠い過去の夢のようなぼんやりとした記憶に、淡い光を落とした。
「アキオはまだ愛朱那ちゃんとはっきり訣別したんじゃないないんだから、少しぐらい希望を持っていたっていいと思う。じゃなきゃ、こんな何もない島に暮らしてても楽しみなんてないし」
「それは、違うさ」
ヒメコの言葉におれは首を振る。
「この島にはおれが持っていないものがいっぱいあるさ。おれは、そんな島人たちから少しずつ手伝い料をもらうんだ。それは、お金なんかよりも、もっと大切な「人とつながる」ことだ。人脈でも、技術でも、知識でもなんだっていい。次におれが誰かとつながったとき、それが少しでもいかされたら、おれはきっとこの島でも暮らしていける。そう思って、おれはこの島でなんでも屋をしている」
「そうね。お金は使えばなくなるけれど、人とのつながりは使えば使うほど、絆が深まっていく。それはきっとアキオさんの素晴らしい財産になるわ」
マコトのことばに、ヒメコは少し反論するように、眉を寄せる。
「でも、生きていくのにお金は絶対に必要になるのに……」
そういったところで、ヒメコは何かに気づいたようにあっと小さな声をあげる。おれは、そのヒメコにむけて人差し指を口の前にぴんとたてた。
「続きは、夜にみんなといるときのお楽しみにしておこうか。ヒメコのおかげでおれもなんだか少しだけ心の靄が晴れた気がするからな。今日はいい気分で仕事に行けそうだ」
そういって、残ったコーヒーを飲み干す。今日はマコトのお代わりはなしだ。なんたって、さっそく仕事が入っているんだからな。さっさと着替えを済ませたら、おれのスクーターで出かけるとしよう……
って、そういえばおれのスクーター、どうしたっけ?
「ああっ!」
と短い悲鳴をあげながら、おれは立ち上がると、パチンを音を立てて両手を合わせて、ヒメコに懇願するようにいった。
「悪い! ヒメコのスクーター、ちょっと貸してくれ! おれの愛車、あの山に置きっぱなしだった!」
「はあ?」
大口をあけて呆れたように眉をしかめたヒメコだったが、次の瞬間にはゲラゲラと馬鹿笑いを飛ばしながら、ポケットからキーを取り出しておれに放って寄越した。
「この手伝い料は高くつくからね!」
ヒメコの笑い声に背中を押されながら、ドアをくぐって階段を駆け下りると、おれは彼女の一つ目お化けのようなスクーターにまたがる。エンジンを始動させながら、ヒメコへの手伝い料にはどんな話をしてやろうかと、自分の記憶の引き出しを探りながら、まるで週末の仕事終わりを待ちわびるサラリーマンのような心持ちでアクセルを捻った。
例年よりも少し早めに梅雨が明けた空には、硬質で濃厚な白を積み重ねた入道雲が
天高くそびえていた。この島に本格的な夏が訪れようとしていた。
ハブ姫 ~おわり~