15 誰かに架ける橋
おれが目を覚ました時、最初に目についたのは、花瓶の中の色とりどりの花だった。窓辺で涼やかに揺れるレースカーテンの白の中に浮かぶ赤や黄色の花は、おれの目覚めに奇妙な爽やかさを与えてくれる。音がないはずのこの空間にまるでハイドンのセレナーデが聞こえるようだ。
ところで、ここはどこだろうか。
首だけを動かしてあたりを観察していると、足元の方から「気がついた?」と聞いたことのある声がおれの耳に届いた。
声の主がおれの枕元にまでやってくると、おれの視界にその姿がはっきりと映った。
「……ヒメコか?」
「もう大丈夫そうね? どこか痛いところはある?」
「……なんだか、体が全体的にだるくて熱っぽい。あと、腕がしびれている」
「ハブに咬まれたからね」
ヒメコにそういわれて、ようやくおれは思い出したように、自分の左手に目をやった。手首から先はまだ赤黒く腫れていて、まるでおれの手ではないまったく別の生き物のような有様だった。しかし、感覚は残っているし、指先も動かすことはできた。
「どうやって病院まで来れたんだ? おれ、あのときハブに咬まれた後の記憶が……」
「元さんが来てくれた」
おれは「そうか……」とだけ呟いた。おれが気を失う直前に包まれた光は、キヨミチの運転する車のヘッドランプだったということか。きっと彼もヒメコのことを探すためにあの林道へむかっていたところで、ハブに咬まれたおれとヒメコを発見したんだろう。
「この花は?」
窓辺に視線をむけておれがいうと、ヒメコは少し照れたように口ごもった。
「い、一応助けてもらったから、お礼みたいなものよ。あんたは知らないと思うけど、そういう歌があって、あたし、その歌が好きだからさ」
「……Reveの『ありがとうを花束に』、か?」
おれがそういうと、ヒメコは驚きを隠しきれない様子で、大きく目を見開いた。
「ヒメコ、アスナに似てるもんな。友達にいわれたことあるんじゃないか?」
「ちょっと待ってよ! なんであんたが愛朱那ちゃんのこと知ってるのよ!?」
驚きを通り越して混乱したように、ヒメコは鋭い声をあげておれに詰め寄った。ちょっとからかうつもりでいったつもりが、どうやらヒメコはアスナのファンだったみたいで、疑念と期待の入り混じった複雑な表情をしている。
「落ち着けって。おれは昔、東京にいたんだ。そのときにアスナと出会って、Reveを結成して、本格的に音楽活動を始めたんだ」
「……ってことは、まさか、あんたって本物のReveのギタリストのアキオってわけ? 嘘でしょ!?」
ヒメコは絶句した。おれは力なく笑いながら、「嘘じゃないさ」といって、視線をヒメコから外し、窓辺で咲く小さな花たちへ移す。
「けど、Reveはもう解散してしまったし、アスナもおれのせいで歌声を失ってしまった……」
「それは、愛朱那ちゃんの交通事故のことなの?」
ヒメコへの返事を保留して、おれは東京でのアスナとの出会い、シマ唄のこと。Reveのこと、そして、あの事故の日や病院でのことを、古いフィルム映像を垂れ流すように淡々とヒメコに話した。その話をアスナは途中で口を挟むこともなく、じっと耳を傾けていた。
おれが自分の過去の傷をヒメコにさらけ出してまで、この話をきかせたのには訳があった。
アスナが過去の記憶と声を失ったとき、おれは彼女の父親に「彼女はきっとまた歌えるようになる。アスナは心から歌うことを愛していた」といった。けれど、今思えば、それはアスナにも彼女の家族にも何の意味もないことだったのだ。アスナがいてこその、彼女の歌であり、あのときのおれが家族に伝えるべき言葉はそんな安っぽいものではいけなかった。おれはそのことを理解していなかった。
記憶をなくし、人格さえも空っぽになった彼女のことを、楽観的な希望によって「歌う道具」として見ていない。彼女の家族にはおれの姿はそう映ったんだろう。
いまでもおれはそのときのおれがとった行動も、言葉も、そのなにもかもを後悔している。もっとおれにできることがあったはずなんだと。そして、なにがあっても彼女のことを支えていく覚悟をもつべきだったと。
彼女を失ってから気づいたのだ。
アスナという女性の存在の重さに。
アスナがおれにとってどれだけ大切な人だったのかということに。
だから、おれはヒメコにも、彼女の父親にも同じような思いをしてほしくなかった。
今はまだ、ふたりの気持ちがすれ違っているだけで、ましてや、ヒメコにはまだなんの知識もない状態あのだ。それなのに、お互いの絆が断ち切れてしまうようなことだけはしてはいけないと思った。そんなことは、彼女の父親からも、ヒメコからも依頼されてはいない、いってみればおれのただのおせっかいでしかない。
けれど、今は気づいていなくても、いつか必ずそのことを後悔をする日が来る。そんな思いをするのは、一人でも少ないほうがいいに決まっている。あんたもそう思わないか?
なんでも屋『ANY』はただの便利屋じゃない。
誰かの密かなSOSを感じ取り、そこにほんの少し、救いの手を差し伸べる。それがおれがやっているなんでも屋『ANY』の本来の存在意義だ。つまり、『ANY』は誰かと誰かがつながるための小さな架け橋みたいなものだ。それは、たった二人の家族にだって当然、同じように架けてやるべきものなんだ。
「おれは、この数日のヒメコを見て、ヒメコが一人で生きていくという強い決意をもっているのはよくわかった。けれど、この島で一人で行きていくことに何の意味がある? 確かに、人間だからいろんな感情があるのは確かだ。でも、みんながヒメコたち家族のことを、生活保護を受けているということだけで、悪く見るわけじゃない。
元さんだって、ヒメコのことを、高校を出ても島に残って、この島や家族のために頑張ってくれているんだって、本当に喜んでいた。もっとも、その情報はアンタが作ったものだったけれど。でも、そういうことだ。
この島はみんな高校を出て本土に進学する。だけど、この島に残る人もいる。そんな人を島人たちは、とても誇りに思っている。その思いを欺くようなことだけはしないであげてほしい」
ヒメコは黙っていた。まだ、すべてに納得がいっているわけではないようだった。
そのとき、病室の扉が開き、妙に陽気な「アキオいるかぁ?」という声が響いた。おれは呆れたように笑い声を含んだ。
「コウジだ。保護課の職員。あんたも見たことあるだろ?」
ヒメコは小さくうなずく。
コウジはおれの病床までくると、ヒメコがそこにいたことが意外だったのか、おれとヒメコの間で目線を往復させた。
「お、なんだ。いい感じか?」
「ち、ちがうわよ! ただ、余計なことをしてハブに咬まれた間抜けの顔を見に来ただけなんだから!」
「随分と口の悪いお嬢さんだな。それよりも、アキオ。お前の言うとおりだったみたいだ」
コウジは隣のベッドのそばに置いてあった丸椅子をヒメコの隣に置くと、どかりと腰をおろした。ヒメコはコウジを苦い顔で一瞥しただけで、膝の上においた肘で頬杖をついて、ぷいっとそっぽをむいた。ほのかに頬が窓辺のバラのように染まっている。コウジはその横顔に語りかけるように、おれに報告を続けた。
「ハブキチさんに高次脳機能障害が認められた」
「高次脳機能障害?」
驚きの声を上げたのはヒメコの方だった。おれは「そうか」と呟くと、顔をヒメコの方にむけた。おれの視線に反応したヒメコは、なに? といいたげな視線をおれに注いでいた。
「アスナもヒメコの親父さんと同じ病気だったんだ。記憶が抜けたり、声や言葉がでなくなったり。もっと身近なことだと、論理的思考が欠落して、物事を順序立てて考えられないとか、片付けができないとか、とにかくいろいろと普段の生活にも関わってくる病気なんだ。ヒメコは、それでも親父さんは自分と同じように、生活保護をもらっていれば一人で生きていける、そう思うか?」
ヒメコは黙っていた。するとコウジが珍しく優しい声をだした。
「まだ若いヒメハブちゃんにとっては、突然のことで戸惑いがあるかも知れないけど、君は一人で生きていく覚悟を持てるくらいに強い子だ。そんな君にとって、たった一人の家族を支えることは、一人でハブとって暮らすことよりも、ずっと現実的で幸せだとは思わないか? 高次脳機能障害はちゃんと自治体から補助がでるし、リハビリによって回復だってできるんだ。保護を受けることはなにも恥ずべきことじゃない。ヒメハブちゃんたちが、立派に生活できるように支えること。それは俺の仕事だし、俺の誇りでもある。それを笑ったり、蔑むやつがいるならいつでも俺に相談しな。俺は、真面目に生活する奴の味方だぜ」
「ヒメコ。おれは、あのとき間違って、大切な人をひとり失った。けど、あんたに同じ思いをしてほしくはないんだ。親父さんのこと、支えてやってくれないか?」
空調のよくきいた清潔な空間に、しずかな時間が流れていた。それは窓辺に揺れるレースカーテンのように、穏やかで柔らかな感覚をおれの心に残した。結局、その答えをおれはその日、彼女の口からはきくことはなかった。
けど、そんなこと、気にならないくらいおれは晴れやかな気持ちだった。
なぜかって?
おれは人間味あふれる、いい友人に囲まれていると実感したからな。