13 歌えない歌姫
「アキオ、どうした?」
コウジが呼ぶ声でおれは一瞬のマインドトリップから現実世界へと無事生還した。おれがこぼした「罪の意識」という言葉の意味をはかりあぐねて、複雑な顔をしているコウジと土生さんは、おれの言葉の続きを待っているようだった。おれは咳ばらいをひとつして、真剣な表情を作った。
「土生さん、それとコウジ。これはおれの推測に過ぎないけれど、土生さんは一度、病院にかかったほうがいいかもしれない。それもなるべく大きな、脳神経内科のある病院」
「脳神経内科? でも、なんで?」
「ひとつ心当たりがあるんだ。土生さん、物忘れがひどくなったのは、脳卒中で倒れた後じゃないか?」
おれの質問に、戸惑いながらも土生さんはうなずいて返事をする。
「それと、こんなふうに家が片付かなくなったりしたのも、同じ頃だろう。コウジ、仕事でいろいろとあったっていうのは、仕事の手順がむちゃくちゃだったり、集中力がなくてぼうっとしていると思われたり、とにかくそういったことじゃなかったか?」
「なんでわかったんだ? その通りだ。結局、会社でも自分の顧客のことや仕事の手順もすぐに忘れてしまうといって、もう年だから物忘れがひどいんだと思っていた」
おれは首を振って「違うんだ」といった。おれの意識が再びあの日の病院の一角に飛んだ。
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「高次脳機能障害、ですか?」
アスナの父親から電話で呼び出されたおれとマネージャーは、あの薄暗い病院のロビーのソファに横並びで座っていた。午後の面会時間ぎりぎりを指定してきたのは、あまり長居させたくないという彼の意思表示だったのかもしれない。
「ああ。交通事故や脳の病気などで脳に損傷が起こることで引き起こされる神経障害だ。脳から体に送られる指示命令系統に支障があって、日常的な動作、記憶、言語。そういったものに不具合がでてくる」
「それで、アスナ……さんの容体というのは?」
おれがたずねると、父親は窓の外の遠くのほうに視線を固定したまま、感情のこもらない淡々とした口調でつづけた。
「意識は回復した。命に係わるような状態からは脱した。ただ、今の愛朱那は自分が誰かもわからない。私のことも、母親や妹のことすら思い出せない。そして、言葉が話せなくなっている。医者がいうには、何かを言葉にしたくても、その言葉が出てこないのだそうだ」
「言葉が、話せない?」
胸の奥が引き攣れたように苦しくなった。おれが心から惚れこんだ彼女の声や、言葉が失われたのだ。それは、ほんの少しのおれの不注意が原因かもしれない。そう思うと、おれはこの気持ちをどこにぶつければいいのかわからず、ただ膝の上で固く握った拳に力をこめるのが精一杯だった。
「とにかく、今の愛朱那には、あなた方が期待するアーティストとしての価値が失われた。歌えない歌姫にどんな存在価値があるというのですか」
「彼女はきっとまた歌えるようになる。アスナは……アスナ、さんは心から歌うことを愛していた。だから……」
「その愛朱那は今はいない。いま、病室にいるのは愛朱那の形をした、魂のない抜け殻だ」
そういうとアスナの父親は立ち上がり、おれとマネージャーに深々と頭を下げ、その姿勢のままいった。
「あの子を、私たち家族の元に返してもらいたい。もし、契約についてがあるならば私や弁護士が代理人として話し合いましょう。だから、彼女の今後のことは諦めてもらえるように、会社にもお伝えください」
アスナの父親の言葉はおれの心を深く突き刺し、そしてその柔らかな部分をごっそりとえぐり取っていった。アスナは再び歌えるようになる、そう信じているおれの言葉を一蹴し、病床に伏せる彼女を「抜け殻」とまでいい切る、それほどまでに、彼にとってはおれたちが歌うことを、意味のないものだと考えていたのだろう。
それでも、おれはなんとか彼女に会わせてもらえるようにと、高次脳機能障害について専門書や学術書を読んだり、リハビリ方法などを調べたりして、アスナの父親に、彼女との面会を直談判しにいったのだが、彼は「それはすべて医者に任せてある。君にできることはない」と取り合ってもくれなかったのだ。
結局、アスナは正式に会社との契約が解除となり、おれと彼女をつないでいた唯一公認の関係も断たれることとなったおれの手元には、にわか仕込みの高次脳機能障害についての知識だけがむなしく残ることになった。
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「つまり、ハブキチさんは高次脳機能障害かもしれない、そういうことか?」
「断定はできないけれど、過去におれが調べた高次脳機能障害の症状や発症条件に一致している。だからそれを疑ってかかる必要はある。高次脳機能障害はれっきとした精神障害だ。それこそ……」
おれはいいかけて一瞬、口をつぐんだ。あの日、おれがなぜ何もできないといわれていたのか、この言葉をいいかけてようやく理解をしたからだ。
「それこそ、家族の理解と助けが何より必要なんだ。何があっても支えていく強い意志が」
おれはあのとき、アスナを何があっても支えていくという強い決意をもって、彼女の家族と接していたのだろうか。どこかで、まだ彼女の「歌声」を求めていたんではないだろうか。それを、彼女の父親には見透かされていたのではないだろうか。
今になって、そんな思いがおれの体中を駆け巡っていた。
重苦しい沈黙をおれの呑気なスマホの着信音が打ち破った。画面には登録されていない番号が表示されていた。
「遠慮せず出ろよ。仕事かもしれないぜ」
おれはコウジのその言葉に若干の戸惑いとともにうなずいて、スマホの画面を操作して、電話に出る。電話口では張りのある男の声が、切羽詰まったように響いた。
『大澤さん、ハブ屋のハジメだ。さっそくだけど、ヒメコが目撃された。おれたちのネットワークにかかったんだ。今すぐ動けるか?』
おれは立ち上がり、「すぐ行く!」と声を張るとコウジにいった。
「ヒメコが見つかったらしい。おれはすぐ現場にむかう。コウジは土生さんと病院のことについてすこし話をしておいてくれないか」
「残業代も高くつくぜぇ」
コウジのにやけ顔を一瞥すると、おれは土生さんの家を飛び出して、今度はガソリン満タンにしたスクーターに飛び乗り、勢いよくアクセルを捻った。