12 越智愛朱那
Reveとしての活動が本格的にメディアで取り上げられるようになってからも、おれとアスナはときどき事務所にも内緒で、池袋界隈の路上でシマ唄を唄うことがあった。もともと、アスナはおれがその声に惚れ込み、悪くいえば自分の夢を叶えるために彼女の歌声を使って芸能界に売り込みをかけたようなものなのだ。
しかし、アスナ自身はもともとミュージシャンになりたかったわけではなく、ただ、こうやって大好きなシマ唄を唄うことで、自分自信の魂を解放しているに過ぎなかった。彼女にとって、シマ唄は自分の魂を自由にさせることができるものだった。
だから、おれが彼女に「もし、おれと一緒に音楽をやってくれるなら、おれもあんたのそのシマ唄につきあうぜ」といった、その約束は反故にしたくなかった。
おれたちが路上で唄っていると、「Reveのアスナさんですよね?」といって寄ってくるファンの子もいたが、そのときは決まってアスナは「似てますかあ? 良くいわれるんですよ? でもReveはこんなところでシマ唄なんて唄いませんよぉ」なんてあどけない笑顔を浮かべながらごまかしていた。それで不思議とそのファンの子も納得するんだから、案外、ミュージシャンのファンなんてのはそんなものなのかもしれない。
ある日、仕事がオフだったおれたちはまた帰宅ラッシュの人通りができる時間に、池袋に出て路上ライブをしようと約束をしていた。
ところが、作曲で行き詰っていたおれは、その日に限ってちょっとのつもりの昼寝が夕方過ぎまで寝坊してしまった。慌てて出かける準備をしながら、アスナに電話をいれると、彼女は「もう、わたしの唯一の楽しみに遅刻するなんて」とむくれながらも、「じゃあ、そのへんで時間つぶしているから、近くまで来たらまた電話ちょうだい」と、笑いながらいってくれて、おれはすこし胸をなでおろした。
自宅から待ち合わせの池袋までは四十分ちょっと。大急ぎでむかえば、いつもより少し遅れるけれど、路上ライブをするのにはまだ十分に余裕のある時間だ。
おれはアパートを出て蕨駅から赤羽方面にむかい、乗り換えの合間にいったん連絡を入れておこうとして電話をとりだし、アスナの番号を呼び出した。
コール二回でアスナが「はーい」と電話にでる。どこか外にいるのだろうか、人々のざわめきや、時折、大きな車が通り過ぎる音が聞こえた。
「今赤羽で乗り換えるところ。あと十分ぐらいでそっちに着くから、先に場所だけ確保しておいてくれないか?」
「しょうがないなあ、今度アキくんがご飯おごりだよ」
「悪かったって。じゃあ、もうちょっと待っててくれ」
「りょうかーい。じゃあ、いつもの場所で待ってるね」
アスナがそういったときだった。
耳元でまるで爆弾が爆発したような轟音が響いた。それが、おれの電話から聞こえているのだと理解するのに、時間はかからなかった。そして次の瞬間、何か硬いものに勢いよくぶつかったようなガツンという音が聞こえ、電話口から遠くのほうで誰かがあげた悲鳴が空気を切り裂いた。
おれの心拍数が急激に上昇するのがわかった。心臓がばくばくと鼓動を打ち、胸の奥から苦く重苦しいものがこみ上げてくる。
「アスナ!? おい、アスナ! 返事しろ!」
しかし、アスナの声は返ってこず、そのかわりに、男の叫ぶ声が電話口の遥かむこう側から聞こえてきた。
『救急車だ! 救急車をよべ! 女の子がはねられたぞ!』
おれの耳から入ったその声は、いくつもの波紋を残しながらおれの体を通り抜けていった。おれは頭の中が真っ白になって、マネキンのように微動だにできずにその場に立ちすくんでいた。
人間混乱すると、わけのわからない行動をとってしまうというのは、その通りだ。
埼京線に乗ればものの十分で池袋に着くはずなのに、なぜかおれは赤羽駅の改札をでて、タクシーを捕まえると、運転手に「最速で池袋までやってくれ!」と叫ぶようにいった。
運転手は怪訝な顔をしたことだろう。だが、おれはとにかく一秒でも早くアスナの元に行かねばならないような気がしていたんだ。
けれど、おれが池袋に到着した時にはすでに警察の初動捜査が始まっていて、現場付近は野次馬で溢れかえっていた。そして警察によって封鎖されていた事故現場には、おれの見覚えのある鞄、そして三線のケースが放置されたままになっていた。おれはその場に膝をついて崩れ落ちた。
そこからどうやって家に帰ったのか、今でもちゃんと覚えていない。電車だったのかタクシーだったのかさえもはっきりしない。
翌朝、事務所からの電話で「愛朱那が交通事故にあった」という、なんの有益性もない情報だけが伝えられただけだった。
いや、有益性がなかったわけではなかった。彼女の搬送先の病院がわかったのだ。おれは、その日の仕事をキャンセルしてマネージャーとともにアスナが搬送された病院にむかった。
しかし、彼女は搬送されてからずっと集中治療室に入院していて、おれたちが面会することは叶わなかった。病院の薄暗いロビーの一角で、彼女の父親に呼び出されたおれは、彼から今のアスナの状態について聞かされた。
頭部に強い衝撃を受けていて、脳に損傷がある可能性がある。現在も意識は戻っておらず、彼女の生還の確立は五分五分。つまりどうなるのかまだわからないという状態だった。
アスナの父親はおれとマネージャーにむかって、取り乱す様子はなく、しかし強い拒絶の色をにじませながらいった。
「今、あなた方にできることは何もない。悪いが今日はお引き取りください。容体がどうなるのか、今はまだわからないが、たとえ戻ったとしても私はあなた方に娘を預けるつもりはない。私たちが娘の、愛朱那の平穏な日々を失ったように、あなた方もアーティストとしての愛朱那を失った。そう思ってください」
おれは反論したかった。アスナは事故に巻き込まれたのであって、おれたちが事故に巻き込んだのではないと。しかし、その思いが口をつく前におれは言葉を呑みこんだ。
もしあのとき、おれが寝坊して遅刻をしていなかったら。
その思いがおれの中に償いようのない深い罪の意識を刻みつけていた。