結晶
大学二年になった早紀は、幼馴染だった加賀と再会する。
思いがけない再会で親密になっていく二人。
娘の楓が生まれるまでの物語とは。恋愛作品です。
【この作品の企画で提示された制約】
・指定ジャンル:恋愛
・構成指定:結起承転
・「告白」「涙」を盛り込む
・2000文字~5000文字
こちらの作品は、2012年の5月19日に投稿した作品です。
恋は一時の煌めき。そして、愛を保つためには覚悟も必要だと感じる。
私が、そう痛感したのは研修していた頃。あの時は何も知らない若輩者で皆を困らせた。
一人前になった今は、すこし落ち着いたと思う。けれどまだ、皆に助けられっぱなしだ。
仕事で疲れて家路に就く頃には、陽もすっかり落ちて街灯が点いている。
娘は寂しい思いをしていないだろうか。いつも帰りが遅くなる度に、遊んであげる時間があるといいのにと悔しくなる。
けれど玄関を開けると待ちかねたように出てくる娘の笑顔に、いつも救われるのだ。
「お母さん、お帰りなさい。お父さんは?」
「今日は緊急のお仕事が入ったから遅いって。ちゃんと、おばあちゃんの言うことを聞いて良い子にしてた?」
「うん」
娘が出してきた手を取って一緒に食卓に向かう。この時が私の心が最も休まる時間だ。
食卓に向かう途中で居間の前を通ると、扉がすこし開いていた。その隙間から義母の姿が見えた。そして、押し入れから出された赤い表紙のアルバムも。
「おかえり。懐かしい写真、見せてもらっているよ」
義母が老眼鏡を指で押し上げながら、笑ってしわを更に多くする。
足をとめた私を見た娘が、頬を膨らませながら言った。
「あの本だけ私がいないんだもん。おばあちゃんに訊いたら、私が生まれる前の写真なのよって教えてくれたんだ」
そう、あれは私と夫が結ばれるまでの写真を収めたアルバム。
見た途端、抑えこんでいた記憶が一気に解放されて胸が熱くなった。つないでいる娘の手の温かさを感じながら、無意識のうちに強く握ってしまう。
「お母さん。泣いてるの?」
子供はそんな母親の気持ちを敏感に捉えるものだ。不安そうな娘の顔を見て、私は慌てて顔を拭った。
「泣いてないよ。さっ、ご飯食べようかな。お風呂は入った?」
「お母さん待っていたから、まだ」
この小さな手は、まだ大きくなるんだ。娘を引き寄せて強く抱くと困惑された。
赤いアルバムは夫とともに選んだ色。それは私と彼が、あの時好きになった季節の色。
「楓はお父さんとお母さん、どっちに似ていると思う?」
「うーん……両方!」
楓のような娘の手を握り締めると、すこし迷ったような答えが返ってきた。
そう、この子は私と彼の愛の結晶。あの時に守ると決めた大切な命なのだから――。
復習のような講義が続く大学一年の退屈な時間は過ぎて、二年生になってからは専門用語を習いはじめた。
そんな講義を聞くのが楽しくて、知識の全ても新鮮で、私は高揚感を覚えていた。
けれどどこかに物足りなさも感じていた。今だけしかない一時の煌めきともいえる時間を欲していたのかもしれない。
「ねえ、早紀。来週の土曜日の予定ってあいてる?」
講義が終わって一息吐こうとした時、親友のミドリが訊いてきた。
「あいてるけど……何かあるの?」
「みんなでカラオケに行く予定があってさ。友達が誰か誘ってこいって言うのよ。メンツ足りないって」
聞いた私は、なんとなくミドリの思惑に気づいた。昨日、必死になって友達を呼びとめていたのを知っている。どうやら、そのお鉢が回ってきたらしい。
「また、彼氏さがし? まだ私たち学生だよ。それなのに……」
「なに言っているのよ。学生は学生でも医大生じゃない。今、恋しないでどうするの! 六年勉強、医師国家試験受けて二年間の研修。一人前になる頃には、おばさんだよ。行き遅れになる前に確保しないと」
ミドリの考えも尤もだけど、恋を追う執着心は異常だと思う。行き遅れる前に確保って。物じゃあるまいし。
「土曜日はあいているからいいけど……私は恋人さがしなんてしないよ」
「だから早紀のこと大好き! メンツは上々だから安心して」
ミドリは返事を聞くと、他の人たちも誘っていた。
メンツは上々って。私の話を聞いてくれていたのだろうか。
文句を言おうにも言える性格でもなくて、口を閉ざすしかない。なんとなく溜め息が出た。
私は男の人と話した経験が少ないし、恋に関しても及び腰だ。誘いがあっても断るのがほとんど。今回は親友のミドリの頼みだからという理由がある。だから時々、積極的なミドリが羨ましかったりもして――。
ふと、ミドリが話しかけるメンバーの中に知らない顔が見えた。猛アピールしているのが目当ての人なんだろうけど、距離をおいて皆を眺めている彼の印象は他の人とは違う。
あんな人いたっけ? あまり話さない人なのかな。同じ講義を受けてきているはずなのに、気づかないなんて私はどうかしている。
惚けていると、見ていた彼が立ちあがった。そして私のほうに歩いてくる。
えっ、どういうこと? 目が合っただけで苛立つ人だった?
慌てて逃げるのも変なので、帰り支度のふりをする。残っているのは筆記用具だけなんだけど。近づく足音に鼓動が高まる。鼓動が頂点に達した時、彼の足音がとまった。
「もしかして、前沢?」
苗字を言い当てられて驚く。ミドリが教えたわけじゃないだろうし。
というか、目当ての男性を端からマークしているミドリが、自ら私を紹介してくれるはずがないような気もする。
「中学の時、眼鏡にしたよな。コンタクトにしたのか。涙ボクロでわかったよ」
泣き虫だと思われる涙ボクロが嫌いだった。それを言われてすこしムッとしてしまう。
「確かに前沢早紀ですけど、あなたは――」
誰? と言いかけたところで、ようやく目の前の男性と記憶の顔が重なった。
「えええっ、もしかして加賀くん? えっ、だって、嘘っ! ありえない!」
動揺して、とんでもないことを続けざまに言ってしまった気がする。
けれど懐かしくて、そしてすごく意外で驚くことしかできなかった。
「ひどい言いかただな。確かに成績悪かったけどさ」
「遠くに引っ越したって聞いたから、まさかここで逢うとは思わなかったし……それで、みんな元気?」
言った途端、加賀くんの視線が暗く落ちた。同時に訊いてはいけないことを訊いた気がして続きを話せなくなってしまった。
「親父が四年前にガンで……それから医者になろうと考えてさ。勉強したんだよ」
加賀くんのお父さんの笑顔が頭に浮かんだ。とても気さくなおじさんで、釣りに連れて行ってもらったことがある。そのお父さんが亡くなったんだ。
「ごめんなさい。訊いちゃいけないことだったね」
「いや、故意じゃないだろ。それに今日は早紀に逢えて嬉しいし……というか、変わってないな。お前」
何故かハンカチを渡される。再会で感極まって泣いてしまっていた。子供の頃、『泣き早紀』と言われていたことを思い出す。涙を拭き終わると加賀くんのハンカチだと改めて気づいて、紅潮するのを感じた。
「こうやって話すのって何年ぶりかな」
「中学の時、そんなに話さなかったもんな。と、いうことは十年くらいか」
私の家は加賀くんの家の隣で幼馴染みだった。
けれど、中学生になると離れはじめて。それは級友にからかわれるのが嫌だという理由で。
中学二年になった頃、加賀くんが引っ越すということを親から聞いた。
お父さんの転勤らしく、逢える場所ではない遠いところに行ってしまうとわかった。
見送ると泣いてしまいそうで。今更、好きだったとも言えないで。
「元気でね。また逢えるといいな」とだけ書いた手紙を郵便ポストに入れた記憶がある。
悲しくて一晩泣いたのは、ここでは内緒だ。
「断ろうと思ったけど、早紀が行くなら俺も行くかな。一緒に遊びに行くなんて、小学生以来じゃないか?」
言われてみると中学に入ってから、一緒に遊びに行くこともしていない。声変りもして背も高くなった加賀くんは、すごく大人っぽくって子供の頃の加賀くんとはやっぱり違って――。
「ちょっと早紀、私を差し置いて話が弾んでいるってどういうこと?」
途中でミドリが入ってきて説明するのに苦労した。
頬を膨らませて「一人減ったー」と叫んだミドリの言葉を聞いて、二人で顔を見合わせる。毒舌ではあるけれど、喜んでくれているのはわかっている。
この後の集まりも加賀くんと一緒ですごく楽しくて。まるで小学生の時みたいに、はしゃいでいた自分がいた。
思いがけない再会で、私と加賀くんとの距離は一気に近くなっていった。
子供の頃のような、からかわれると恥ずかしいという感情は今はない。学生だからという考えもどこかに吹き飛んでいた。
恋は一時の煌めき。だから今を大切に過ごす。出掛ける時は一緒。
大学寮の入居期間期限の二年になると、加賀くんは近くのアパートを借りることになった。私は自宅から通っていたので、友達のところに泊ると母に嘘を言って、加賀くんの家に遊びに行っていた。
いくら幼馴染みでも男と女が二人きりなんて怒られると思ったし、二十歳になるとお酒も飲むし煙草も吸う。煙草は受けつけなくて駄目だったけれど。
入学時には考えられなかったほど、充実した学生生活を過ごした。
この頃には、母に加賀くんを紹介して驚かれた。無理もない。幼馴染みで知っている人なんだから。
無事に卒業して国家試験を受け、二年間の研修生活がはじまる。
けれどその頃から、私は妙な気だるさを感じはじめた。
吐き気がして食欲が出ない。もしかしてという予感があった。両親にも加賀くんにも言えずに、隠れて産婦人科に行く。
診察と検査を受けてわかった。妊娠三か月。
今はまだ目立たないけれど、四か月にもなるとお腹も大きくなってくる。
秘密のままにしておろすか悩んだ。けれどお腹の中にある、ひとつの命の大切さも痛いほど知っていた。私は研修医。命をつなぐ者のタマゴだ。
私が頼ったのは両親ではなく加賀くんだった。皆の視線を気にして彼を呼びとめると、手を引いて隠れる。私の顔を見て不思議そうに首を傾げる加賀くんに秘めていたことを伝えた。
「あのね、赤ちゃんができたの……」
はじめはおろす費用のことを言われるかと思った。けれど、私の認識と彼の考えとは全く違っていて。
「早紀は産みたいのか、産みたくないのか?」
思いがけない選択を迫られた。
「産みたいけど……だって命を授かったんだもん。けれどこの先のことを考えると」
「バイトでいくらか金は貯まっているし、それにあとすこしで仕事にも就ける。はじめは苦労させるかもしれないけど、俺がなんとかする。だから早紀は心配しなくていい」
「けど、お母さんが許してくれないよ」
「俺にとっては早紀の気持ちのほうが優先。それに俺はそんな軽率な気持ちで早紀と一緒になったつもりはないから」
体を求められているだけかと思っていた。不意にミドリの言葉を思い出した。
『一人前になる頃には、おばさんだよ』
子供が欲しいと加賀くんに言った覚えはある。けれど、こんなに早くその時がくるとは思わなくて。ただ動揺するしかなかった私に加賀くんは笑った。
「俺の両親ってさ、できちゃった婚なんだよ。かなり言われたみたいでさ。けれど親父が責任もつって言ったらしくって。親父がそう言ってくれなきゃ、俺はこの世には存在しなかったんだよな」
自然とお腹に触れていた。この世にいなかったはずの命のリレー。
胸が熱くなった。他界した加賀くんのお父さんもそうだったんだ。同じ心を継いでいるんだなと感じた。
「言う順番逆だけどさ。結婚してくれ。指輪とか新婚旅行とか後になっちゃいそうだけど」
不安は残っているけど笑ってしまった。これが告白なんて――そうとは思えない。
「そういうことはもっと雰囲気のいい素敵な場所で言って。女性にとっては大切なことなんだから」
「じゃあ、週末に車を出すよ。どこかに出掛けよう。ご要望通り素敵な場所へ」
敷き詰められた落ち葉を踏みながら二人、肩を合わせて歩く。
病院の周りに植えられた木々は競い合うように色づいていて。見慣れているはずの景色なのに、真っ赤に染まった葉が目に留まった。それはあるものを想像させたからかもしれない。
触れられる位置にある一番奇麗な葉を選んで取る。
「奇麗な赤に染まってるね。それにかたちも赤ちゃんの手みたい」
「赤ちゃんの手みたいで赤っていうのも面白いよな」
不安は拭えないけど、きっと私たちには明るい未来があるはず。手を伸ばして加賀くんの腕に抱きつく。大丈夫。心配ない。この人と一緒なら。
「あのね。今、赤ちゃんの名前を思いついたの。男の子でも女の子でも大丈夫な名前」
赤く染まった葉を見せながら言うと、加賀くんも納得したみたいで、「いい名前だな」と呟いた。