風樹の嘆
病室内で響いた重い落下音。それが全ての始まりだった。
末期癌で苦しむ母を前に、男がとった行動とは?
その判断は正しいのか誤りなのか。
【この作品の企画で提示された制約】
・固定シチュエーション
「故意ではない殺人を犯してしまった直後~警察に捕まるまで」
・5000文字まで
こちらの作品は、2012年の2月14日に投稿した作品です。
何も思い出したくない。忘れたい。現実から逃げ出したい。
頭が割れそうな叫びだけが、脳内で繰り返されていた。
感情を抑制できないまま病室を跳び出すと、扉の横に寄りかかる。
そして、自分のものとは違う体温と感触を掌に覚えながら、リノリウムの床に座りこんだ。
爆発しそうな鼓動を鎮めるため、左胸を押さえるが叶わない。
唇に震えが表れ、男の生き方として封印し続けてきた涙があふれた。
「何も思い出したくないわけがないじゃないか」
先程、脳内で叫んだ言葉を修正しながら手で涙を拭う。
その時だ。
「耕介さん」
名前を呼ばれた。顔をあげて見ると担当の女性看護師だった。
涙で濡れているであろう俺の顔を見た看護師の目が見開かれていく。そして病室に跳びこんでいった。
そう、俺の状態を見たら、馬鹿でもわかるはずだ。
末期癌で苦しんでいる母の身に何があったのかということを――。
「久代さん。馬鹿なことを言うのはやめて」
看護師が母に言った直後、重い落下音が響いた。
「誰か、先生を呼んできて!」
病室内にいる母が何をしたのか俺は察した。
ただ、事実を知りたくないために確認することはできなかった。
看護師の悲鳴を聞きながら、俺は両手で顔を覆う。同時に押し殺していた声が出た。
「俺がやったんだ。俺が……」
満足に親孝行をできなかった俺は懺悔するとともに、母が天国に逝けることを願うだけだった。
三十年前に轢き逃げ事故で他界した、父のもとに逝けるようにと――。
看護師に呼び出された主治医が病室に跳びこんでも、俺は立てずにいた。
母の最期の声が鼓膜にこびりついたように離れない。これは一生、忘れられないのだろう。
処置が続く中、俺は母が苦しまずに逝ってくれることだけを願っていた。
しばらくすると、看護師が病室から出てきた。母の最期を見た女性看護師だ。
「心肺停止……お亡くなりになったそうです」
屈んだ看護師は、座りこんでいる俺に視線を合わせるように告げた。
俺は応えずに鼻汁をすすった。
病室から医療機器を片付ける音が聞こえてくる。母は自分の命を繋ぐ管から解放され、ようやく自由の身となったのだ。
母は永遠の眠りについたのだ。溜まっていた何かが落ちた気がした。
静かな時が流れていく。そう感じていたところで、
「どうして久代さんは、あんなことを」
看護師は意識せずに言ったのだろう。その問いが癇に障った。
どうしてがあるか。久代さんはがあるか。俺が母を殺したことに間違いないのだ。
「違う、母は自殺したんじゃない」
「けれど私が見たのは、久代さんが首にタオルを掛けた状態で、ベッドから落ちるところです」
「俺がやったんだ。担当看護師ならわかるだろう」
看護師は一歩退くと唇を震わせ、両手で口を覆った。俺が言った意味がわかったのだろう。同時に彼女は大粒の涙を流した。
「だから久代さんは、迷惑をかけてすみませんと?」
あの母の口から、そんな言葉が出たのか。それとも担当看護師の彼女に言ったのか。どちらにしても母の遺言を知って、とまりかけた涙が再びあふれてきた。
「俺は母に何もしてやることができなかった。学生時代には暴力事件を起こして、母を何度泣かせたことか……」
「ええ、久代さんが教えてくれました。子供の頃、お父さんを亡くしたから強がっていたのかもしれないねと」
「結婚してもすぐに離婚して、楽しみにしていた孫の顔も見せてやることができなかった」
「それも聞きました。奥さんを守ってやれないのは夫としてだけではなく、男としても失格だって」
母は看護師にも俺のことを話していたのか。それも褒めてなどいない。全て悪口ばかりだ。
「厳しい母でした。大嫌いだった。けれど俺が暴力を奮っても母は毎朝、弁当を用意してくれていた。思えば学生時代の俺と母の繋がりは、それだけだったのかもしれません」
俺は背後で音が鳴ったのに気づいて目を向けた。主治医が扉を開けた音だった。俺を見て少し迷った様子を見せたが、ゆっくりと向かってくる。
「すみませんが、私どもとしては警察に通報しなければなりません。構わないですね?」
全てを理解している主治医の言葉に感謝した。そうだ、母は自殺ではない。だから俺は捕まらなければいけないんだ。
「ご迷惑をおかけします。皆さんのことを考えると、自首しないほうがいいでしょう。その間に証拠隠滅を考えていたのではと思われても仕方がないですから」
予想以上に落ち着いている俺を見て安心したのか、背筋に寒気を感じたのか、主治医が彼女の耳元で「ここは頼むよ」と囁いた。
俺を監視していてくれよということだろう。それにしてはここにいる殺人犯に聞こえてしまうのは不用心だ。きっと信頼してくれているのだろうと感じた。
リノリウムの床が妙に冷たく感じはじめたのは、冷静になってきたからだろう。
何事がおきたのかと顔を覗かせている、そんな患者の姿が見えた。
心の中で、あんたたちは退院してくれよと考える。最悪の決断をした母のようにはなってほしくなかった。
俺は母に付き添ってくれていた担当看護師の彼女を見た。
「あなたから電話を受けた時には驚きました。音信不通でいた母が末期の癌、手術しても手遅れ、麻酔も効かない状態になっていたなんて」
「ええ、そして体もまともに動かせなかった」
彼女が言うように、母は寝返りをうつのがやっとの状態だった。
連絡を聞いて病室に跳びこんだ俺が見たのは、抗がん剤の副作用でやせ細った母の姿だった。皮と骨だけになってしまった母に衝撃を受けた俺は動きをとめてしまった。
再会した時の母の第一声は、
「そこにあるミカンを剥いておくれ」
ミカンを剥く手が震えた。
あの母がこんな姿になっていたなんて――。
涙をこらえながら、不意に家を跳び出した切っ掛けを思い出した。
俺が彼女を紹介し、既に結婚を決めていると言った時、母は多くを語らなかった。
たった一言「彼女を幸せにしてあげなさい」。
父と俺、彼女と自分の姿を重ね合わせたのかもしれない。
だからだろう。離婚すると言った時、母は俺を頭ごなしに叱りつけた。
俺は離婚理由も言えなかった。いや、言わなくても母はわかっていたのかもしれない。
学生時代、母に暴力を奮っていた俺だ。世界でたったひとりの俺の母親は、誰よりも俺のことを知っていた。
離婚理由は学生時代の俺が母にしてきたことと同じ、関係が冷え切ったからだった。
頭ごなしに叱られ存在も否定されて腹が立った俺は、母を見捨てるように家を跳び出した。二度と会ってやるものかとガキのようにむきになった。
それが一年二年と経ち、十年となり、あっという間に時が過ぎていった。いつまでも母は元気でいてくれるものだと思いこんでいたのだ。
それが今は――俺は馬鹿だと自分を詰った。
ミカンを剥いて渡すと、母はゆっくりと噛み砕きながら微かな笑みを浮かべた。
「美味しいねえ、こうやって顔を合わせたのは何年ぶりだっけ」
学生時代でも顔をまともに合わせたことがない。母の問いには答えられなかった。
気丈な母は、俺の前で苦しんでいる姿を見せなかった。
俺の前でミカンを食べたのを見て担当看護師の彼女が言った。
「息子さんの前では食べてくれるんですね。美味しかったですか」と。
母は俺を心配させないために演技していたのだ。
ふっと母の言葉が浮かんだ。
「立派な大人にならなくてもいい。その代わり人の痛みを知り、心の底から感謝し、迷惑をかけない大人になりなさい」
学生の時、「こんな俺が生きていても仕方がない」と言った俺の頬を打ち、母が泣きながら叫んだ言葉だ。
「自分で命を落としたら、お父さんのところにいけないのよ」とも言われた。
その母を自殺にしたくはなかった。母は父のところに逝った。俺がやった。それでいい。
「頼まれたんですか。久代さんに殺してほしいと……」
看護師の彼女の声が俺の胸に突き刺さった。
「母は自殺じゃない。俺が殺した。それでいいでしょう」
「自殺関与なんでしょう。久代さんは体が不自由だった。ベッドにタオルを縛りつけることなんてできないはずです」
何故、この看護師は俺を犯人にしたくないのだろうか。追求しても得はないはずだ。
腹が立った。思わず身を乗り出して食ってかかった。
「自殺関与じゃない。俺が母の首にタオルを巻いてベッドから落とした。それでいいでしょう。主治医もそれで通報している。あなただけだ。あなただけが母がベッドから落ちる瞬間を見た。全て見なかったことにしてください。お願いです」
一週間前から母の様子が変わった。抗がん剤の影響か、癌が体を蝕んでいるのか、体をくねらせながら「苦しい、死にたい」と言いはじめた。
けれど体が不自由な母はそれができなかった。次第に俺を見て懇願するようになった。
「お願いだから殺して」
母がどんなに辛い思いをしているのかはわかった。けれど息子として叫んだ。
「そんなことはできない。お願いだから生きてくれよ」と。
そして今日、母は俺に言ったのだ。
「耕介、首とベッドをタオルで繋げてくれないかい」
俺の手を握った母の手は細く、見る影もなかったが、温かかった。
母が何をする気なのかは薄々と感じた。しかし、心の奥では絶対に違うと考えた。
あの母が死ぬわけないじゃないか。
俺に「自分で命を落としたら、お父さんのところにいけないのよ」と言った奴だぞ。体が不自由だから、少しでも楽な体勢でいたいだけだ。そうに決まっている。
母の首にタオルを巻き、もう片方の端をベッドに繋ぐと母が笑って言った。
「ありがとうね。ごめんね」と。
母の頬を伝う涙を見て全てを察した。まさか、そんな……嫌だ。見たくない。
慌てて病室を出て、その時を待った。お願いだから嘘だと言ってくれ。
何も思い出したくない。忘れたい。現実から逃げ出したい。
夏に父や母と海水浴に行ったこと。バレンタインデーに一個だけのチョコを母から貰ったこと。学生時代に弁当を作ってくれていたこと。
笑っている母の顔と、いい思い出しか浮かばなかった。
母が大嫌いで離れていたはずなのに、忘れたくなくて声が出た。
「思い出したくないわけがないじゃないか」
その時、担当の女性看護師である彼女に声をかけられたのだ。
「耕介さん」と。
女性看護師が俺を名字ではなく何故名前で呼んだのか。少し驚きながら彼女を見たのだ。
まさか、彼女が俺を犯人にしたくない理由は――。
信じ難い推理をした俺は否定した。そんなことはありえない。
現実に戻り彼女を見ると涙を流していた。赤の他人である母と俺相手に何故そこまで心酔するのか。
「それでは久代さんは喜びません。久代さんは体が不自由じゃなかった。あなたは何もしていない。それでいいじゃないですか」
驚くことに彼女は俺とは違うことを言いはじめた。
体が不自由じゃない。看護師が絶対に言ってはいけない嘘だ。
俺を無実にしようとしているのか。
母のために? それは違うと否定した。
にわかに辺りが騒がしくなりはじめた。警察車両が来たのだろう。扉が閉まる音が幾つも聞こえた。
そして、ざわつきとともに角から正装の男たちが姿を見せた。刑事に間違いない。
彼女が何も言わず、俺が母を殺したと言えば、母は自殺ではなくなる。
それなのに。
「だからって、自分が殺したなんて嘘をつかないでください!」
彼女は叫んだ。
刑事が足をとめ、驚いた様子で俺を見る。
違う、俺が母を殺したことにしてくれ。そうでなければ母は自殺になる。父さんがいる天国へ逝けなくなるじゃないか。
黙れ、黙れよ。
怒りが風船のように膨張していく。そして破裂した。
「黙れ、黙らないと、お前も殺すぞ!」
コンクリートの壁に反響した声に驚いて、見物していた患者が逃げるように引っこんだ。
すぐに刑事が俺の脇を掴んで動きを押さえる。
唇を噛みながら震えた彼女は、その場で膝をついて座りこんだ。
顔面蒼白になった彼女を見た刑事が、駆け寄って声をかける。
「詳しいことを教えてくれませんか」と言うのが聞こえた。
彼女が事情聴取で本当のことを言ってしまったら、母はどこへ逝くのだろうか。
俺は自分がしてきたことを受けとめよう。それが親孝行であるのならそうしよう。
俺は黄金色に輝く世界で、三十年ぶりの再会を果たした母と父の姿を描きながら、刑事に促されて車に乗りこんだ。
母は迷わずに逝けただろうか。
空には母の行き先を示したかのような飛行機雲がある。
俺がしたことは正しいはずだ。
しかし、本当の答えは見つからないまま、涙が零れ落ちていた。