冒頭2(改稿一回目
玩具のサルが歯を剥きだしてギーギーと喚き、その手の小さなシンバルをジャンジャン鳴らす。テーブルの上に置かれた機械は、生きた動物に見えない。自然とは程遠い動きで最後にはひっくり返った。
ごとんと大きな音がした。彼女は顔を引き攣らせ、びくりと肩を揺らした。自分で戸棚から出して、ゼンマイのネジを巻き、愛おしそうに撫でてから手放したのに、忘れていたようにびくりと震えた。怯えきった瞳はテーブルの上で倒れたオモチャをじっと見つめていた。
観察者の目で彼女を見ていると、ようやくこちらの存在を思い出した風に、視線が噛み合う。彼女は柔らかく笑って、もうテーブルのサルを忘れてしまったようだった。
「玲雄くん、珈琲のおかわり飲む?」
「うん、もらう。」
彼女のもてなしでは飲み物しか出なかった。今、部屋の中は片付いているけど、これは俺が片付けたからで以前は酷かった。憂鬱と共に暮らしている彼女はあまり積極的な活動が出来ない。今もまた、二杯目の珈琲を淹れる為に空のカップを引き寄せて、彼女は視線を巡らせる。ここから先が長く掛かって、自身の元へ手繰り寄せたカップを両手で押し戴くように持ち上げたまま、曖昧な笑みを浮かべている。見慣れない景色が彼女に不安を与え、その場から動けないようにしてしまう。綺麗に整頓されたこの部屋は、彼女の部屋だったけれども住み慣れた彼女の家ではなくなっていた。
床のラグカーペットは買い替えて、クッションは全部捨てた。得体の知れないシミと、何より俺が、長期間の放置という事実に我慢がならなかった。剥きだしだった窓にはカーテンを、開け放っていた襖は閉めて台所と区切った。三畳間ほどの台所部分が切り離されて、六畳間だけとなった空間の大きさにまだ彼女は慣れていなかった。家具は白とピンクの配色で、一見すると女の子らしい部屋だ。三日で元に戻るから、俺は二日ごとにこのアパートを訪ねる。
目の前にある白いテーブルの、カーブの付いた角の頂点から隣の頂点までの端っこを、彼女はカップを片手で胸に抱いたまま、もう片方の手を伸ばして指先でなぞる。その先もまっすぐに辿ろうとして前屈みに背伸びをした。無理な姿勢で指先が外れると、彼女は困ったような顔をしてこちらを見た。俺の顔のどこか一点を見据えて、じっと視線をぶつけている。目的地を失ってしまった指先はまだ懸命にテーブルの端を探して彷徨っているだろうか。視線までが迷子にならぬように受け止めている間は、指先の動きを確認出来なかった。
胡坐をかいて、軽い猫背でラグに座っている俺を、彼女は何分間でも見つめ続ける。視線を外せば途端に彼女は不安に押し流されるから、俺もじっと彼女を見ている。ようやく指先がテーブルの端を探り当てたようで、彼女は弾かれるように顔を背けた。
めいっぱいに伸ばした腕が、微かに震える指先が懸命にテーブルの四方を辿り終えた。小さな白いテーブルは折り畳み式の四足で、次に彼女は屈みこんでこの足の数を数える。今日はそれでも納得が行かなかったらしく、首を傾げる仕草のままで固まってしまった。少しして、また指先がテーブルの隅へ伸びた。
ぐるりと一巡するのにまたしばらくの時間を費やして、それから彼女は何をすべきだったかを考え始める。止まった指先は小さな円を描いて彼女の側のテーブルの端を押している。俺の顔を見ないということは、助け舟はまだ要らないということだから、しばらく待っていた。円を描く指が止まり、夢の中から視線を向けて、彼女は嬉しそうに笑った。珈琲のおかわりを、巧く思い出せたようだった。
「ちょっと待っていてね、」
彼女は立ち上がる。長い時間の経過があった事など彼女は関知しない。問いかけの後にすぐ動き出したかのように、彼女の声に悪びれる調子は含まれていなかった。
彼女は、テーブルのサイズを測らずに済ませる事は出来ない。台所と居室を隔てる二枚の襖を両方開けてみずには移動出来ない。まず左の襖から開けるのでなければ、順番が違ってしまうと動けなくなる。同じ動作をする事がルールで、そのルールを破る事を怖れる。叱責を恐れて、右の襖と左の襖の間をうろたえながらで往復する。何度か俺の顔色を窺った。
彼女はさんざん迷った末に、左の襖の引き手に指を添える。振り返って俺の顔を見るから、頷いた。彼女の選択は正しいけれど、彼女は自信が無くなっている。不安そうに俺を見たままで、襖をゆっくりと横へ引いた。ほんの少し開けるたびに、手を止めては俺の反応を確かめた。唐突に自信が戻ると、残りを一度に引き開けて台所の中へまっすぐに歩み入った。コンロに火が点く音が小さく響いた。まだ彼女は新しくなった自分の棲家に慣れない。
音だけを頼りに彼女の行動を予測した。床板を踏む足音が小刻みに続き、彼女がひどく落ち着かない状態で狭い範囲を歩いているのだと教えている。




