霧雨の気持ち
霧雨とハクジは菖蒲を連れて城に帰えると、音も立てずに静かに大奥の離れに忍び込んだ。
菖蒲が日ごろから使っている部屋に入り静かに床に下ろす。
するとハクジは部屋をぐるりと巡察するように回り始めた。
「おい、何してるんだよ」
『結界を張っておるだけだ』
「なんで」
『俺だって分をわきまえているつもりだ、誰の邪魔も入らぬようにして去ろうと言う訳だ』
「よく、分からない」
『はぁ、菖蒲がこの状態で一人残されたら心細いだろう』
「ハク殿?」
菖蒲はハクジの事をハク殿と呼ぶ。
ハクジは嬉しそうに尾っぽを振ると『また来る』と言って消えた。
部屋にはハクジに置いて行かれた霧雨が頭を掻きながら、胡坐をかいて座っていた。
アイツに気をつかわれるのは気に食わない、でも正直なところ有り難いとは思っている。
狼の死霊のくせに・・・
「霧雨」
「まだ動かないだろう?少し寝ろよ。俺は此処に居るから、安心しろ。それに朝までは誰も此処には近寄れない」
霧雨は子供にするように菖蒲の髪を撫でた。
「うん」
この頃、霧雨が優しい。
いつもなら、「何へまやってるんだよ、俺が居ないと駄目だな」って言うのに・・・なんだろう?
ムズムズする。
そんな事を考えながら目を閉じた。
菖蒲は安心したのか疲れからかすぐに眠りについた。
俺たち忍びは決して熟睡などしない。どんな小さな気配でも察知出来るようになっている。
でも一刻でもいい、今夜くらいはゆっく体を休めて欲しい。
静かな寝息を立てる菖蒲を霧雨は目を細めて見つめていた。
赤子の時から一緒に育ったお転婆娘は十七になり、綺麗な女に変身してしまった。
自分も気づくともう十八、任務でたくさんの女を見てきたが菖蒲に勝る者は居なかった。
意識するなと言い聞かせるが、男になってしまった霧雨にはとうてい無理な話。
「はぁ、参った」
頭をガシガシと乱暴に掻いてみたものの何の解決にもならない。
今回の菖蒲の危機を悟ったのはハクジではなく霧雨だったのだ。
何気に右目の眼帯を外した時、菖蒲が息を切らせ走る姿が見に飛び込んできた。
それはいつもの息遣いとは違い、何かから逃げるようなものだった。
「ハクジ、菖蒲が危ない!」
『なんだと!』
ハクジが霊力らしきものを高めると『黒い影が菖蒲の背にあり!』と言った。
駆け付けた時、菖蒲は木の根元に座り込んでいた。術を施したのか男は気を乱していた。
ハクジが体当たりで男を逸らすと、俺は躊躇うことなくその男を斬った。
確かめてはいないが、その男も忍びだろう。
本来なら息の根までは止めず、身分や謀を吐かせてから始末するのだ。
しかし、その時は出来なかった。
「俺は菖蒲のあんな姿を見たら冷静でいられなかった・・・忍び失格だな」
任務は冷酷非情に遂行しなければならない。例え仲間に危機が迫っていてもだ。
そこで命を落とすものは忍びとして失格であり、場合によっては仲間の手によって始末される。
仲間や自分の身の安全よりも、主からの命が第一なのだ。
眠る菖蒲の頬を手の甲でそっと撫でれば、身じろいで顔をこちらに向けた。
頬にかかるその黒く美しい髪を掬い後ろに流せば、顎の線がくっきりと浮かび上がった。
「やべぇ」
霧雨はズクンと胸が疼くのが分かった。
もう認めないわけにはいかない。
「俺、お前を失いたくないんだ。誰にもやりたくない」
もう一度頬を撫で「ふっ」と息を吐き、菖蒲から距離を取るように柱に寄りかかった。
そして、目を閉じ暫しの休息を取る。
菖蒲は俺の唯一無二だと思っている。