家光と孝子
気をもみながら待っているだろう家臣の元へ歩いて向かう。
「殿、公務の前後に抜け出すのは止めた方がいいかと」
「公務の前後だからだ。分からん奴だ」
こう見えてもかなり圧力を感じているのだろう。
大きな議題が上がるときに限って抜け出すのだ。
「だったらコソコソせずに、堂々と訪ねれば良いではないですか?夫が妻に会いに行って誰が咎めますか。むしろ大喜びですよ」
「それが出来ぬからこうして・・・もうよい。それより霧雨、お主とて人の事は言えぬぞ。菖蒲とさっさとくっ付け」
「殿っ」
こうやって俺の話にすり替えて誤魔化してくる。
本当は知っている、家光は孝子を嫌ってなどいないと。
理由は分からないが、祝言の翌朝悲しい顔をして戻ってきた事を覚えている。
殿には人に言えない理由があるのだろう。
遠くから孝子を見つめるその瞳は将軍とは思えないほど切なく、愛おしそうに、そして見守るようにその面影を映していた。
「霧雨、お主には自分が好いた者と楽しくやってほしいのだ」
「殿・・・。俺だって殿には幸せになってほしいのです」
花を摘み終わった菖蒲は孝子の部屋へ戻り花を生ける。
「菖蒲?」
「あ、孝子様。お戻りでしたか」
「ええ、今日もいらしてたのね」
「家光様ですか?また、抜け出したみたいですよ」
菖蒲は知っていた。孝子は家光が嫌いでない事を。
しかし、一度も招き入れたことは無い。
「困ったお方ですね」
「お招きしたら宜しいのに」
すると、孝子はふっと笑う。
「そのような事は出来ません。あの晩にお約束しましたから」
孝子が言うあの晩とは祝言をした日の夜、初夜だ。
幼い頃から孝子と家光は知り合っていた。
生まれた時からの許嫁であり、家光の一本気な所と孝子の真っ直ぐな性格は一見仲が悪く見えた。
しかし、本人同士はそうではなかったのだが・・・
「孝子様?お茶を飲むくらい許さると思うのですが」
「ふふふ、人の事はよいから菖蒲は自分の幸せを考えたら?」
「私の幸せ、ですか?」
瞳の奥には切なくなるような淡い光を残し、孝子はそう言った。
「霧雨とはよくお似合いです」
「まさかっ!」
孝子は二十歳を超えていた。
この時代、女盛りである彼女には誰にも明かすことの出来ない事情があった。
それは妻として、将軍の正室としてあっては成らない事だったのだ。
「私の楽しみは、菖蒲のお子を抱くことです」
「孝子さまっ」
この事を知っているのは菖蒲と専属の医者。そして、家光だけである。
もしその医者がその事を漏らす素振りを見せる事があれば、殺せと言われている。
この事が知れれば、孝子は追い出され、鷹司家も危くなる。
初夜の夜にどの様な約束を交わされたのかは知らない。
しかし、互いを想い合った上での犬猿の仲を演じていたのだ。
菖蒲は家光と孝子の秘密を暴く者があれば、誰であろうとこの世から葬ると心に決めている。
霧雨と菖蒲は家光に仕え、幕府と孝子に起きる災いを排除すべく任務に付いているのだ。
任務遂行時の二人は冷酷無情、それは生まれ持っての才であり隠密としては完璧だった。
「孝子様の幸せなくして、菖蒲は幸せになどなりません」
「菖蒲は頑固ですね」
そう言って、孝子は柔らかく笑うのだった。
この日を境に、家光の乳母であるお福こと春日局が大奥を切り盛りし、世継ぎを産ませるべく、各地から大名の娘を集め始める。
それが時に孝子を傷つけ、時に側室同士の陰険な攻防が繰り広げられる事となる。
菖蒲が今より忙しくなるのは言うまでもない。