貴方の術を解く
菖蒲が目を覚ました時はもう誰もいなかった。
手には血判書という巻物が握らされており、外はすっかり暮れていた。
「わたし・・・これは何?」
頭がぼんやりとして霞がかかったように思考が働かない。
何となくその巻物を広げてみたが、単に文字の羅刹にしか見えなかった。
考えたいのに考えられない。
菖蒲はまた眠りに落ちた。
「菖蒲。おまえ遅いぞっ、もっと早く走れよ」
「待ってよ、早すぎるってば霧雨っ」
野を駆け、山を登り、木から木へ飛びうつり刀を合わせながら沢へ行く。
これが日々の日課だった。
雨の日も風の日も雪の日も欠かすことなく、それは修行だったからだ。
でも辛くなかった。いつも霧雨が一緒だったから。
菖蒲・・・、菖蒲・・・
いつも私の名前を呼んでくれた。
時に莫迦にしたように、時に兄のように、そして時に愛おしそうに・・・
ずっと離れない、離れることはないと信じていた。
「霧雨、何処?待って、置いて行かないでー。霧雨!」
目が覚めた。
「夢」
見渡すとここは見慣れない小屋の中、外は煌々と陽が差しこんでいる。
起き上がろうとすると軽く頭痛がした。
「えっと・・・私、何をしていたんだっけ。此処どこ?」
ゆっくりと体を起こすと自分が何かを掴んでいることに気が付いた。
それは霧雨が菖蒲に託した巻物だ。
「・・・ん?」
開けていいのか躊躇われる。それはどう見ても機密な香りがしたからだ。
でも自分が持っているという事は何か諜報中に手に入れたものなのかもしれない。
恐る恐るそれを広げた。
十数名の見慣れない名前と血判、最後に見た文字は・・・天下奪回。
「はっ!!これはっ」
すぐにでも家光に知らせなければならない。
ガバッと立ち上がり小屋の戸に手を掛けたとき、ふわっと香る二つの匂い。
この匂いを私は知っている・・・
ハク殿と・・・霧雨。 どうして!?
もう一度振り返り小屋の中を見回した。
何か自分は忘れているのではないか、とても重要な何かを。
このままこの血判書を家光に渡してもいいのだろうか・・・なぜそう思うのか。
考えてもどうしても思い出せない、なぜ私はここに一人でいるのか。
考えようとすると脳の奥で散らされるように思考が一つに絞れないのだ。
まるで何かの術にかかってしまったように。
「まさか霧雨が?」
どうして二人は居ないのか。
確かハク殿は・・・そう!霧雨の父親だと!
それからどうしたのだろうか。
「もうっ!苛々する」
菖蒲は左の眼帯を搔きむしるように引き千切った。
その双眸でただ一点を強く見つめる。
思い出せ!思い出せ!
この左の目で自分は見ていないのかもしれない、ならば右の目から手繰り寄せるしかない。
「うっ・・・く。はぁ、はぁ」
全ての力を集中させる。その翡翠色に光る左の目に。
「菖蒲・・・」
最後に見たのは自分を見下ろす霧雨の顔。とても切なげな、今にも泣きそうな。
でも何かを心に決めたときのような深い群青色の輝き。
(菖蒲。七日経っても俺が帰らなければ、これを家光様に渡すんだ)
「霧雨は私に術を施した!!」
何日ここで眠っていたのだろうか。霧雨を、霧雨を追わなければ!
甲賀の里がどこなのか分からない。
「先ずは柳生の所に」
冷静さを取り戻した菖蒲はすぐにその小屋を飛び出した。