霧雨の決意
ハクジは自分が霧雨の父親だと言った。
「父親が、なんで狼なんだ」
『お前と菖蒲を両脇に抱えて俺はイチかバチか崖から飛んだ。幸いお前たちは無傷だった。目の前に驚いた顔の若き日の柳生がおったのだ。二人を柳生に託した後死んだ・・・はずだった』
ハクジは霧雨と菖蒲を柳生に託して安堵し、気を失った。
もう死ぬと覚悟したのだという。しかし、心の奥底では二人の事が心配でならなかった。
追手は簡単に諦めはしない。なによりも里の中でも指折り数える精鋭たちが相手になれば、関係のないあの男(柳生)を巻き込んでしまうかもしれない。
『俺の心残りが天に通じたのかは知らぬが、気付いたらこの姿だ。因みに記憶を取り戻したのも最近だ』
「どうやって取り戻したのです?」
『孝子様が飲んでいた薬湯の臭いだ』
「あれで?」
『あれは我が里に伝わるものだからな』
霧雨はハクジの姿をじいっと見る。そこには父の面影どころか人の面影など無いただの狼だ。
『菖蒲、すまん。お前の父と母は・・・』
「ハク殿、それはいいんです。私の命があることが父と母の慰めになるのですから。ありがとうございます」
そしてハクジは霧雨の方へ体を向けた。
『霧雨、この巻物は徳川を乗っ取る事に同意した者たちの血判書だ。これを家光に渡せ。そうすれば甲賀の悪巧みも世に知れもう二度と過ちを犯す事はないだろう』
ハクジは一通の巻物を咥え、霧雨に差し出す。
受け取った霧雨は中を出し確認した。十数名の名が連ねられ、血判が押されてあった。
「これを出したらどうなるんだ、里の連中は」
『・・・里が潰されるだけだ』
「潰される・・・」
『因果応報だ。甲賀は消えたほうがいい、忍びも全て。しかしお前たちはもう甲賀の人間ではない。これを家光に渡した後はすぐに此処から去れ!ここよりもっと遠く、遥か西へ』
「ハク殿は?」
『・・・俺もそのうち消えるだろう。もともと死霊なのだから。もう俺に関わるな、幸せになれ』
そう言うと、ハクジは小屋を飛び出し山奥へ消えて行った。
「ハク殿!!霧雨、追わないとっ。ハク殿がお父上が!」
「・・・」
霧雨はただ茫然としていた。体が動こうとしない。
いや頭が上手く動かないのだ。
狼の死霊が父親で、今手に持っているのは甲賀の忍びの天下奪回の血判書、里の取潰し。
甲賀と伊賀の両方の血を引く自分はどちらの肩も持つ気はない。
しかし、それでいいのだろうか。
自分だけのうのうと生き延びていていいのだろうか。
父や母が命を懸けて護り抜いたこの命は、このままその意思通り逃げて生きるべきなのか。
「菖蒲」
「霧雨?」
「俺、甲賀の里に行くよ」
「え!!」
霧雨は甲賀の里に行くと言った。それは死に行くようなものではないか。
「どうして?殺されるんだよ?ねえ」
「俺たちはこのまま逃げていていいのか。俺たちが生まれた意味があるはずだ。親父が死霊になってまでもこの世に留まったのはそれだけじゃないはずだ」
二人の命を助ける為だけなら狼の姿に変えてまでこの世に留まる必要はない。
早々に成仏してもいいはずだ。
「あいつは(ハクジ)里と一緒に滅ぶつもりだろう」
「止めるの?」
「何か俺に出来ることがあるはずだ、まだ作戦を止められるはずだろう?里には罪のない人間だって住んでいるんだ。俺たちみたいに何も知らずに」
「霧雨・・・」
「菖蒲。七日経っても俺が帰らなければ、これを家光様に渡すんだ」
「え?・・・嫌!一人で行くの?絶対に嫌。私も行くっ!」
「菖蒲、二人とも死んだら徳川が潰れるかもしれないんだぞ?分かってくれ」
「分からない!もう離れないって決めたから。これは柳生に託します」
菖蒲は霧雨の袖をぎゅっと握り離そうとしない。
霧雨はどうしても菖蒲を連れて行きたくなかった。
「菖蒲・・・」
霧雨は菖蒲の腰に腕を回し、ぐっと自分に引き寄せると右の眼帯を取り除いた。
「っ、霧雨っ。嫌っ」
霧雨は魅了の術を菖蒲に施そうとしていた。柳生が掛からないようにと術をかけていたが、もう柳生の術力をはるかに超えているのだ。霧雨が菖蒲に術を施すのは容易いことだった。
菖蒲は力を込めて抗うが、どうしても瞳を逸らすことが出来ない。
せめて自分も左の眼帯を取り対抗したい。しかし両手は拘束されそれさえも敵わない。
(嫌、嫌っ。お願い、霧・・・雨。やめ、て-------。)
瞳から一筋の涙が頬を伝うと、ストンと菖蒲の体から力が抜けたのを確認した。
霧雨はそっと囲炉裏の横に菖蒲を寝かせ巻物を握らせた。
「ごめんな。お前を危険な目には合わせたくないんだ。約束するよ、絶対に帰ってくるから。な?」
眠った菖蒲の頬を愛おしそうに撫で、唇に口づけを落とす。
「愛している」
その言葉を残し、霧雨は小屋から姿を消した。