雪解け道は二人で歩く
家光は強く強く孝子を抱きしめる、自分の想いが届くように。
孝子に起きていた事は恐らく自分が絡んでいるに違いないと思っている。何故ならば孝子を許嫁としたのがちょうどその頃だからだ。
「殿、私にいつ月のものが来るかは分かりません。もしかしたら、もう・・・」
「孝子、名を」
「え」
「名を呼べ、俺の名は?」
「・・・家光、様」
「もしもは考えるな。お前は犠牲者なのだ。もしも二度と月のものが来なくてもお前は俺と夫婦なのは変わらん」
「でも」
「子が出来ない事を気に病むな、と言うのは無理であろう。だが、もう少し気を楽に持て。幸か不幸か俺には世継ぎを産みたいという女は手に余るほどおる。それはあやつらに任せておけばよい。お前は俺の事だけを想っていればよいのだ」
孝子は離縁を言い渡されると覚悟していた為、家光の今の言葉にはとても驚いていた。
「家光様」
「なんだ、不満か」
「不満など、ただ、ただ身に余るお言葉にどうお答えすればよいか分かりかねているのでございます」
すると家光は孝子の顔を覗き込むように、下から見つめる。
そんな家光の仕草にどきりと胸が高鳴る。
少年でやんちゃな家光の事はよく憶えている。あの方が許婚だと知らされた時は嬉しいような、恐ろしいような気持ちだった。
しかし十五を待っても月のものは来なかった。乳母も、母も、父も承知の上でこの事実を隠し自分を家光に輿入れさせたのだ。
全てはお家の為に。
偽りを抱えたまま迎えた祝言は背徳感でいっぱいだった。
だからあの夜、孝子は家光に打ち明けたのだ。
家光は尚もこんな自分でも、この先、子が出来なくても良いと言ってくれている。
「孝子、俺の気持ちはまだ伝わらぬか」
「家光様。伝わっております。痛いほどに」
「そうか、そうか」
嬉しそうに泣きそうなとても困った顔で自分を見つめる家光に、孝子は込み上げてくるものを抑えられなくなった。
「私は、ずっと、ずっと、家光様をお慕いしておりました。この婚姻が決められた日から変わることなくっ」
「孝子」
今度は孝子の方から家光に体を寄せた。
自ら両の腕を家光の広い背に回し、強く抱きしめ返した。
もっと早くにこんな風に素直になれれば、あの初夜の日に家光を傷つけることはなかったのに。
あの時も、そんな自分でもよいとこの人は言ってくれていたのに。
「申し訳ございません。家光様に私は自分の気持ちだけを押し付けて、家光様の御心に目を背けておりました。どうかお許しっ---」
最後まで言わせてもらえなかった。
それは、家光に口を塞がれたからだ。
その熱い唇で。
驚きで目を閉じる事さえ忘れその熱い唇を感じていた。
瞬きをすれば止まることを知らない涙が後から後から流れてくる。
それは悲しみの涙ではない。
ゆっくりと唇を離した家光は孝子の涙を指で拭う。
暫くしても涙は止まらない。
「ふっ、まるで雪解け水のようだな」
「雪解け、水」
「そうだ。これでようやく春が来たと言う事だろう。この先の雪解け道は険しいやもしれん。だが、案ずるな。一人で歩かせたりはせぬ」
「・・・はい」
家光の言葉に涙は勢いを増して流れてゆく。
孝子は「止まりませんっ」と、戯けたように笑みを作る。
その笑顔はとても美しかった。
「今夜は添寝をしてくれ、手を繋いで貰えると有り難いのだが」
「添寝だけで?」
「物足りぬか?」
「いえ、そんなっ」
「はは、そう硬くなるな。今夜はと言っただろう?明日からはそれでは済まぬ、という意味だ」
そう言うと、孝子が顔を赤く染めた。
それがあまりにも嬉しくて「手加減はせぬ故?」と更に煽った。
孝子は耳まで赤く染めながら、
「覚悟いたします」と、言った。
二人は静かに褥に入ると、互いの手を繋ぎ向かい合って目を閉じた。
初夜から五年の月日が経っていた。