雪解けの予感
菖蒲はすぐに大奥へ戻ると、孝子を訪ねた。
「孝子様っ」
「菖蒲、どうしたのです?珍しく慌てているようだけど」
「あの、少しこちらへ」
孝子の周りにいた女中たちから少し遠ざけ、菖蒲は今夜家光が訪ねてくるという事を伝えた。
すると孝子はどう解釈したのか分からないが静かに「心してお待ちしましょう」と答えた。
早々に夕餉を切り上げ、身を清めるため湯あみへと向かった。
菖蒲は風呂の外で孝子を待つ。
あの女中は結局あれ以来姿を見せていない。
孝子は今夜に限って一人で湯に入った。
家光様自らがこの離れの私の部屋に来る事は普通ならあり得ないのだ。
祝言を上げた日の夜に約束をした。
*****
「私は子を産めません。どうか二度とこちらには来ないでください」
「どういうことだ!子を産めないなど。俺は大そう嫌われたものだな」
「違うっ、違うのです。産みたくても、産めないのでございます」
孝子は泣きながら家光に話した。
人払いがされた初夜の褥には向かい合って座る家光と孝子がいた。
何故か来るべきものがやって来ない事を告げると、家光は関係ないと言った。
「来るべき時に来るものだ。俺はそれでも構わぬ」
「構います!私が構うのです。十五になっても来ないという事は私の体は女ではないのです。こんな女のもとへ通っては国が揺れます。どうか、どうかご理解くださいませ」
*****
将軍である家光を思えば、自分の存在が殿の威厳と信用を無くす。
であれば仲たがい、お家問題での計略結婚だと思われていた方がいい。
これ以上この方を愛してはいけない、孝子は頑なに殿の譲歩を断った。
一度正室に座った以上は簡単に譲れない、しかし大奥という組織がしっかりと構成された今ならもう世継ぎを心配することはないだろう。
孝子は今夜がこの江戸城で過ごす最後の夜だと思っていた。
何故か人払いがされ、菖蒲だけが後方に残った。
しんと静まり返った部屋は小さな灯りがゆらゆらと揺らめき、自分の影を映している。
そこへ部屋の外から声がし、静かに障子が開けられた。
「待たせたな」
それは紛れもなく家光だった。
家光がここに来るのはあの祝言の夜以来だった。
孝子は深々と頭を下げて出迎えた。
「堅苦しい挨拶などいらぬ。頭を上げよ」
「家光様、今宵は?」
家光は菖蒲の顔をチラリとみると、孝子の側により耳元で囁いた。
「今宵はそちに夜伽を頼みたい」
「な、なんと。今、なんと申されました!」
孝子は自分の耳を疑った。私に夜伽を頼みたい・・・と!?
思わず菖蒲の姿を確認し「菖蒲っ」と呼び寄せた。
「孝子、俺が言った意味が分からないのか?」
「分からないと言えば分かりませんし、そのものの意味は分かりますが」
「菖蒲、お主も今宵は外してくれ。なに、心配するな。きちんと段を踏んで行う」
「・・・はい」
「菖蒲?」
「孝子様、今宵は殿の御心に耳を御貸しになって下さい。大丈夫ですから」
柔らかな笑みを孝子に向けると、菖蒲は部屋を出た。
思わず涙を流しそうになってしまう。殿の御心と孝子様の御心がどうか晴れますようにと。
「殿?」
「孝子、これから話す事をしかと聞くがよい」
家光は孝子の身に起きていたことをゆっくりと話して聞かせた。
あの女中は忍びだったこと、毎日飲んでいた薬湯は女の機能を眠らせるものだった事を全て。
孝子は驚きすぎて言葉を発することが出来なかった。
「でも、それでも来るべきもものは来ません。やはり私は」
「孝子。薬湯を止めたからと言ってすぐに治る物ではないらしい。今まで飲んでおった時間の方が長いのだから。徐々に女子の体を思い出すまで待つしかないのだ」
「・・・う、うぅ。申し訳ございませんっ」
「なぜ泣く。なぜお前が謝るのだ」
「このような事で殿の御心を傷つけてしまったのです。もう、此処には居れません」
「なぜそうなる。お前の所為ではないだろう」
「でも」
孝子は泣くばかりだ。家光は初めて孝子の肩を抱き寄せ自分の腕の中に閉じ込めた。
ずっと待ちわびていたのだ。祝言を挙げて五年が過ぎていた。
家光は全身が震えるようだった。
女を抱きしめてこんなに震えたことはなかった。
ゆっくりと顔を上げた孝子の瞳は家光の瞳に焔を見た。
背中をぞくぞくと何かが走ったようだった。
孝子もこの時初めて家光に抱きしめられたのだった。