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物心ついた時には、私は男が嫌いだった。
その大きな要因の一つが、今、ここにいる拓馬からのイジメだったのだ。
まず、幼稚園の時。
鼻垂れガキ大将だった拓馬にライダーキックを背中から食らわされ、地面に顔面から倒れ込んで前歯を折った。
幸い、折れた歯は乳歯であったので、それから間もなく永久歯が生えてきて事無きを得たが、あの時の恐怖と屈辱は今でも忘れない。
拓馬は現場を抑えた先生に叱られて、その場は「もうしません、もうしません」と泣きながら平謝りだったが、翌日にはさっぱり忘れたように他の女の子に暴行を繰り返していた。
中学生になってからは更に最悪だ。
無駄に図体だけ肥大した中学男子の拓馬は、見ているだけで暑苦しい男子の集団の中にいた。
私はなるべく関わらないように、彼らを避けるように生きていた。
この頃になると、女子の方も色気づいてきて、「◯組の◯◯君、最近、かっこよくない?」などと浮ついた事を言っていたけど、私は一向に男子に目が向かなかった。
初恋もなければ、興味すら湧いた事がないまま、私の思春期はいつの間にか終わっていた。
短大の時のコンパで出会った元夫は、年齢的にも差があったせいか、すぐに性交渉をしてこなかったのが私は気に入った。
「結婚するまでは綺麗な体でいたいの」と誤魔化して、先送りにしてきたのが、彼的にはツボだったらしい。
結婚するまでは焦らないと言ってた彼だったけど、結婚した途端、毎晩のように求めてくるようになった。
でも、私はどうしても彼の要望を受け入れる事ができなかった。
我慢を強いられ続けた元夫が外で女を見つけてくるのに時間は掛からず、彼が離婚したいと言ってくれた時、ようやく開放された気分だった。
愛があれば、精神的な繋がりがきっと出来る筈。
そう思って結婚したものの、やっぱり駄目だった。
私は最後まで元夫を受け入れる事ができなかったし、彼も私を体の関係なしでは、認める事はできなかったのだ。
◇◇◇
「・・・そういう訳で、一年で離婚しちゃったの」
「・・・お前なぁ」
運転席でハンドルに掴まるようにして、拓馬は私の話を聞いていた。
短い髪をグシャグシャ掻いて、私を横目で見つめる。
「・・・つまり、俺が幼稚園の時、お前を苛めたのがトラウマになったせいで、旦那とできなかったと。そういう事か?」
「うん。だから、8割方は拓馬のせいなんだよ」
「俺のせいかよ?」
「だから、8割くらいはね」
「それはちょっと極論じゃないのか?大体、旦那の事だって、最初からさほど好きだって訳でもなかったんだろ?」
「まあね」
「そもそも、お前が本当に好きな男と結婚しなかったのが一番悪いんじゃないのか?」
「だって、私、男が嫌いなんだもん。拓馬のせいで」
「・・・・・・」
拓馬は額に両腕を当てて、天井を仰いだ。
こんなに困っている拓馬を見るのは初めてで、可哀想だけどとても愉快だ。
髪を掻きながら、拓馬は気まずそうに続ける。
「あー、まあ、その、つまり、お前ってまだしたことないわけ?」
「そうよ。悪い?」
「それも俺のせい?」
「もちろん」
再び、ハンドルの上に頭を乗せて、拓馬は唸った。
責任の所在をどこかに転嫁したいのか、必死で頭を掻いている。
「・・・分かった。俺も男だ。責任取るよ」
「え・・・?」
低い声でそう言って、拓馬は助手席の私をシートごと押し倒した。
完全に寝かされた助手席で、私は無防備な姿勢で仰向けにされてしまった。
「ちょ、やだ、拓馬!何すんの・・・」
「何もしないよ。怖がんなくていいから」
寝かされた助手席からサンルーフ越しに満天の星空が見えた。
こんな時でも空って綺麗だ。
「あ・・・綺麗!」
「だろ?」
拓馬も運転席のシートを倒して、私の横に並んで仰向けになる。
私達は並んで仰向けになったまま、サンルーフ越しに星空を眺めた。
枕代わりに両腕を頭の後ろで組んで、拓馬は黙っている。
そのまま寝てしまったんじゃないかと思った時、低い声がした。
「俺さ・・・ガキの時、俺はお前が好きだったから、構ってもらいたくて意地悪してしまったんだけど・・・まさか、そんなに精神的なダメージを与えてるとは思わなかった。悪かったな」
「・・・」
「でも、体の関係って、無理してするものでもないと思うな。特に女がしたくないって言うなら。結婚してるからってそこを無視したら、それはDVだろ?」
「でも、夫は・・・・・・」
言いかけた時、拓馬の左手が私の右手をギュっと掴まえた。
大きくて熱い手が、夜風で冷えた私の手を優しく包み込む。
「お前の旦那は肉食系だったかもしれないけど、夜の営みってヤツが嫌いな男も結構いるよ。だから、お前もそういう草食男を探して結婚すれば良かったんだよ。まあ、当たりが悪かったんだな」
「理想はそうだけど・・・でも、そんな奇特な男の人、いないと思うわ」
「いるじゃん、ここに。俺で良ければ立候補していい?」
「え・・・?」
「俺も実はバツ一なの」
「ええっ!?」
気不味そうに頭を掻きながら、拓馬はさっきと打って変わった歯切れの悪さでポツポツと語り出した。
「お前ンとこと逆だよ。俺は仕事が忙しくて、結婚したばっかりの奥さん放ったらかしにしてたんだ。営業職だったから、飲み会も多かったしな。で、人が深夜に疲れて帰ってくるのに、排卵日だなんだって迫られてみろ。男だって受け入れられないよ」
「ま、まあ、そうだよね・・・」
「生活リズムの違いって言えばそれまでだけど、結果的に奥さん、実家に帰っちまったんだ。まあ、寂しがらせて放っといたのは俺だから、慰謝料だけはしっかり払ったよ。彼女、すぐに他の男と結婚したけどな」
「・・・・・・」
拓馬のまさかの告白に、私は絶句した。
今まで、女の私ばかりが被害者だと思ってたけど、男の拓馬が同じ悩みを抱えていたなんて。
いや、これは男女関係なく、不朽の人権問題なのか・・・。
その時、拓馬の熱い手がそっと首筋に触れた。
不器用そうな太い指が私の唇に触れ、髪を撫でる。
「だから、俺も体の関係は苦手。てか、トラウマだな。ただ、好きな人を見たい、触りたい、感じたいって思うのは普通な事だと思う」
「うん・・・・・・」
「で、いつか、お前も同じように思えるようになったら、トラウマは治った事になるだろ?でも、それには時間を要すと思うんだ。だから・・・」
「だから?」
愛おしそうに見下ろしてから、彼は私の上に覆いかぶさり耳元で囁いた。
「とりあえず、休みが終わったら大阪に来ないか? リハビリだと思って」
一人になって故郷に戻ってきたこの夏。
拓馬と会って、私は少し大人になって、「好き」の意味が少しだけ分かるようになった気がした。
あんなに苦手だった男なのに、今、私はすごく拓馬の肌に触れたいと思う。
倒した運転席で穏やかな寝息を立てている拓馬の頬に、起こさないようそっとキスをする。
サンルーフから見える空は、いつの間にか星が消えていて、明け方の薄紫色の雲が広がっていた。
Fin.