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バスタブのマーメイド

作者: 新兎

 休日の昼下がり、男二人がかりでも運ぶのが大変そうな大きな宅配物が届いた。

 全く覚えのない宅配物だったが、宛先はしっかりと我が家になっている。ただ宛名は俺ではなかった。

 同居人の水城夕魚みずきゆうな。どうやら彼女は通販だかなんだかで勝手にこんな大きな物を購入したらしい。

 それならそうと一言いっておいてくれればいいのに。


 荷物はリビングのど真ん中に置かれた。

 ユウナがいそいそと包装を解くのを後ろから見ながら「それなんだよ?」と問いかける。


「見たほうが早いよ」


 ニコニコしながらユウナがもっともなことを言う。

 一分としないうちに、でてきたのはオレンジ色のバスタブだった。映画に出てきそうな猫足のバスタブ。

 結構、高そうだ。出会ってから3年ほど、ユウナがコツコツとバイト代を溜めていたことを思い出す。それでこんな物を買うとは思いもしなかったが、彼女らしいといえば彼女らしい。呆れつつも認める。


「ねぇ、これ部屋に運ぶから手伝って」

「ああ」


 促されて、俺は大きなバスタブ運びを手伝う。バスタブは風呂場にはいかずに、ユウナの部屋に鎮座した。

 変な光景だ。滑稽な光景だった。ユウナがなにを考えているのかさっぱり分からない。


「私、今日からここに住むから」


 首を傾げる俺に向かって、ユウナはバスタブを指差しながら宣言した。

 ますます分からない。


「……ここって、風呂のことか?」

「うん」

「なんで? そういうの流行ってんのか?」

「秘密」

「……ふーん」


 新しい遊びなのか。それともバスタブに住むのがマジで流行っているのか。どちらにしろ、俺には興味のない話だった。


「ねえ、コウスケ」

「ん?」

「もうすぐ出会ってから3年だね」

「そうだな」


 唐突すぎて気のない返事になってしまう。


「3年って、あっという間だね……」


 バスタブを撫でながらユウナが言う。

 どことなく落ち込んでいるように見える。というか、泣いているように――


「どうした?」


 俺はユウナの顔を覗き込んだ。それを嫌がるように勢いよくユウナが顔を背けた。


「なんだよ」


 俺がムッとするとユウナは「えっと……今、肌荒れてるから」と曖昧な顔で言った。



******



「おい、遅刻するぞ」


 学校が終わる夕方から深夜でシフトを組んでいる俺と違って、フリーターのユウナは朝から夕方のシフトを組んでいる。

 朝の方が空気が気持ちいいとかなんとか、ワケの分からない理由で早起きが得意だからだ。

 だから、俺がユウナを起こすことなんて今まで一度だってなかった。

 けど――いつもならとっくに家を出ている時間になってもユウナは一向に部屋から出てこない。珍しいこともあるものだ、と訝しみながら部屋のドアを開けてギクッとした。


 部屋の真ん中に鎮座するオレンジ色のバスタブ。その底に毛布に包まって眠っているユウナ。もちろん、水は入っていない。

 すっかり忘れていた。昨日から、ユウナはバスタブに住むことになっていたんだった。


「にしても……」


 変な光景だ。

 部屋の真ん中にバスタブがある光景も変だと思ったが、その中で丸まって寝息を立てているユウナの姿の方がもっと変だ。

 バスタブの中はせまっ苦しそうで、とても住み心地がいいとは思えない。それなのに、ユウナは寝坊するほど熟睡している。

 これが変じゃなくて、なんだというのだろう。



**************



「ねえ、水城さんとなにかあった?」


 ユウナと入れ違いでレジに入るなり、先輩の高橋さんに声をかけられた。


「なにかって?」

「さっき更衣室で一緒だったんだけど、なんか全身がミシミシするとか言っててさぁ……あんた、無理矢理変なプレイしたんじゃないでしょうね」

「してませんよ」


 酷い言いがかりだ。プレイってなんだよ。ユウナの体がミシミシするのはユウナの自業自得だ。

 俺は肩を竦める。冗談だったのか高橋さんが「ならいいけど」と笑った。


「でも、なんか最近変なのよ」

「そうなんすか?」

「肌がカサカサするんです、とか言って尋常じゃないくらい化粧水吹き付けてたり、シンクの前でジーッと水滴見つめてたり」

「まぁ、ユウナが変なのは今に始まったことじゃないですし」


 なんとなく、ユウナがバスタブ暮らしを始めたことは言い出せなかった。ただでさえ、変に思われてるのに、さらに変度をあげることもないだろう。



**************



 バイト開け。朝が早いユウナはもう寝ているだろうから起こさないように静かに鍵を開ける。

 靴を脱いでいると、パシャンと水の跳ねる音が聞こえた。ユウナの部屋からだ。

 なんだ? 首を捻りながら、俺はユウナの部屋の前に立つ。中から、もう一度、水音が聞こえた。

 扉を開けて、俺はギョッとした。

 ユウナはバスタブの中にいた。朝と違って、バスタブには水が張られている。


「……ユウナ?」


 両腕をバスタブのヘリに置いて枕代わりにしたまま、ユウナは静かに息をしている。濡れた髪が、白い肩と背中に張り付いていた。

 窓からの月明かりが青く、反射した光が部屋中に満ちて、まるで海の底にでもいるような気分になる。


「おい、ユウナ。大丈夫か?」


 なにかあったんじゃないかとユウナの肩をつかんで揺り起こそうとして、俺はパッとその手を離した。

 ユウナの肌は酷くザラザラしていた。荒れている、なんてレベルじゃない。その肌触りに覚えがあった。まるで――鱗だ。


「……ん」


 ユウナが身動ぎする。ゆっくりと双眸が開き、俺の姿を捉える。俺の表情からなにかに思い当たったのだろう。


「ああ……」


 ユウナが諦念の溜息を吐いた。


「バレちゃったね」

「……バレたってなにがだよ? お前、どっか悪いのか?」

「私ね」


 ユウナが濡れた手で髪を掻き揚げる。ぽたぽたと滴り落ちる水の雫がいやに神秘的で、まるで童話の中の人魚のようだと思った。


「もうすぐ、帰らないといけないの」

「帰る?」

「3年、たっちゃうから」


 ユウナは夢見るような顔で窓の外の月を見上げた。

「帰るってどこにだよ? 意味わかんねーよ」

「人魚姫の話だよ」

「は?」

「でも、これは現代版。人魚姫は魔女から両足を貰ったけど、声は引き換えにしなかった。だって、好きな人と話が出来ないと、それこそ話にならないでしょ?」

「なに言ってるんだよ?」

「その代わり、この魔法には期限があって……それが3年。3年経ったら、また元の人魚に戻ってしまうの。だからその前に――」


 言葉を最後まで言い切らず、ユウナがふぅと一息おいた。俺の反応を窺うようにじっとこちらを見て、柔らかく微笑む。


「分かった?」

「わかんねーよ」


 今の説明で分かるわけがない。俺は顔をしかめる。ユウナが肩を竦めた。それでユウナがこれ以上説明する気がないのが分かった。


「もういい。俺が心配することはないんだろ?」

「……」


 俺の問いかけにユウナは曖昧に笑うだけだった。



※※


 翌朝。またしても、ユウナは時間になっても部屋から出てこなかった。


「おい、ユウナ? 起きてるか?」


 ドア越しに声をかける。チャプンと水の跳ねる音がして「入っちゃダメだよ」と制止の声が返ってきた。

 まだバスタブの中にいるらしい。


「入らねーけど、いい加減遅刻するぞ」

「今日は休む」

「どうかしたのか?」


 バスタブで過ごしていること自体どうかしてるけど、水に浸かったまま寝てたから風邪でもひいたんじゃないかと思った。


「うん、ちょっとね。ちゃんと電話しておくから、コウスケは学校ちゃんと行ってね」

「本当に大丈夫か?」

「うん」


 返事が元気そうなので、大丈夫だろうと判断して俺は一旦自室に戻った。

 結局、ユウナは俺が支度を終えて家を出るまで、部屋から出てこようとはしなかった。水の跳ねる音だけが鮮明に聞こえた。



※※※



 ユウナの欠勤は思ったよりも波紋を呼んでいたらしい。

 思えば、出会ってからの3年間。ユウナが仕事を休むのは初めてかもしれない。

 なにかあったんじゃないか、とマネージャーや高橋さんからしつこく聞かれて俺は少し辟易とした気持ちで帰路についていた。

 空はどんよりとした雲で埋め尽くされている。夜半過ぎから雨が降る、と天気予報で言っていた。ますます気が滅入る。

 溜息をついて、俺はふとユウナの携帯に電話をかけてみた。

 ユウナの声は朝と変わらず元気そうだった。


 夕飯の弁当を頼まれて、コンビニに寄る。適当に弁当を二つ、それから甘い物がないとユウナは不機嫌になるのでシュークリームを一つ買った。


「ユウナ、飯買ってきたぞ」


 また部屋に入るな、といわれるかもしれないのでドア越しに声をかける。


「こっち来て」

「いいのか?」

「うん」


 扉を開けると、ユウナはやっぱりバスタブの中にいた。テレビがくだらないお笑い番組を流している。


「こっちおいでよ」


 いつの間にか、バスタブの隣に折りたたみ椅子が置かれていた。俺がいない間に用意したのだろうか。

 腰を下ろしながら、ユウナの方を見る。入浴剤を入れたのか、バスタブの中は濁っていて何も見えない。

 ユウナの腰の下がどうなっているのか気になるのは、昨夜の御伽噺がまだ頭から離れていないせいだろう。


「どこ見てるの?」


 俺の目線の先を追ってユウナがちょっと怒った顔をする。


「え? いや……体ふやけないかと思ってさ」


 咄嗟にそう誤魔化すと、ユウナが笑った。


「大丈夫。そんなに柔な肌じゃないもの」

「そうか……」

「それより、食べようよ」

「ああ」


 俺はコンビニ袋から弁当を取り出してユウナに渡す。


「いただきまーす」


 ユウナはよほどお腹がすいていたのか、猛烈な勢いで弁当をかっ込み始めた。見てるだけでこっちは腹いっぱいになるような食べっぷりだ。

 俺は買ってきた弁当には手をつけず、テレビを見るともなしに眺めていた。


「あ、そうだ。コウスケ」


 弁当を食べ終えたユウナが思い出したように俺を呼んだ。


「写真撮ろ」


 携帯を揺らしながらユウナが笑顔で言う。


「なんだよ、急に」

「いいでしょ、思い出思い出」

「なんの思い出だよ」


 苦笑しながら椅子から降りてユウナの隣に移動する。

 ユウナがバスタブから携帯を持った手を天井の方に伸ばして、二人がきちんとおさまるように位置を調整する。


「はい、撮るよ」

「おお」

「笑ってよ」

「うっせーなぁ」


 ニカッと笑って見せるとユウナが「変な顔」と噴出した。そして、シャッター音。撮れた写真は二人揃って変顔だった。


「お前も変じゃん」

「ふふ、これはちょっとダメだね」

「いいんじゃね?」

「じゃ、次はコウスケ一人でキメ顔いこう」

「やだよ」

「いいでしょ、お願い」

「やだって」

「一生のお願い。最後のお願いだから」


 断ろうと思ったけれど、ユウナがあまりにも必死なので断りきれなかった。

 ただし、キメ顔はなし。当たり前だ。そんなキモイことできるわけがない。

 ユウナは少し不満そうにしていたが、撮ったあとは機嫌がなおっていた。


「ありがと、コウスケ。これ一生の宝物にするからね」

「大袈裟だな、お前」

「だよね」


 ふふ、とユウナは笑った。



※※※



 酷い雨音で目が覚めた。時計を見ると、午前三時。中途半端な時間に目が覚めてしまった。

 欠伸をしながら水でも飲もうとリビングに出る。どういうわけか雨音が大きくなった。

 不思議に思って暗い室内を見回す。ユウナの部屋から物音がしている。


「……ユウナ?」


 ドアをノックしてみる。少し待ってみても返事はない。俺はドアノブに手をかけた。


「ユウナ、起きてるのか?」


 ゆっくりとドアを開ける。

 強い風が俺を出迎えた。窓が開いているらしい。通りで雨音が大きくなるはずだ。

 部屋の中は酷い有様だった。バスタブが横倒しになっていて、中の水が全部床に零れている。ユウナがいるわけがなかった。

 不意にユウナがした人魚姫の話を思い出した。あれは俺をからかっているのでもなんでもなく、本当だったのだ。


「ユウナ」


 いないと分かっていて、俺はユウナの名前を呼んだ。

 叩きつける雨風に混じって「ふふ」と遠くからユウナの悪戯っぽい笑い声が聞こえてきたような気がした。

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