~2~
オードリックが守るジョルダーノ辺境地は、国境を沿う魔物の森に隣接していた。
日々、魔物と戦うこの地の兵士には、魔物退治でついた傷が体中にあった。だがそれは国を守るための誇り高い傷なのだと、貴族達も市井の民も十分理解をしている。
領主自ら先頭に立ち戦うオードリックの顔には、斜めに伸びた魔獣の爪痕が生々しく残っていた。貴族紳士たちはわかっている。彼らのお陰で、自分たちの日々の安寧があるのだと。だから彼の傷跡にも、多少の無礼な態度にも腹を立てることは無い。
しかし淑女たちからしたら、それは痛々しくもあり、恐ろしくもあった。
年に一度、建国記念の祝賀会には国中の貴族達が集う事になっている。
普段は自らの領地で国を守っている彼も、その日ばかりは来ないわけにはいかない。
その時に自分の姿を見た女性たちの様子は、さすがの彼でも気分の良いものではなかった。そしてもう一つの懸念が、彼は齢三十過ぎにして、未だ未婚であることだった。
辺境の地を守る男には、ぜひとも次世代への後継ぎを儲けてもらわねばならないのだ。親戚縁者の血も耐えたジョルダーノ家で、彼が子を成さねば誰か他の者がこの地を統治しなければならないのだから。
誰が好き好んで魔獣に襲われる恐怖と戦いながら、辺鄙な辺境の地に住みたいと思うものか。だからこそオードリックの活躍に貴族達も、国王ですら惜しみない賛辞を贈るのだ。
一年前の建国記念の夜会でのことだった。式典の後に行われる王宮での舞踏会で、オードリッは目を奪われた。
魔獣に脅えて暮らす恐怖など感じたことの無い者達が、ここぞとばかりに着飾り、鼻が曲がるほどの香水や化粧で顔を化かし、大したことのない話に興じていた。
毎年のことながらうんざりする思いで、早く時間が過ぎることを念じていた彼の目に飛び込んで来たのは、まるで有象無象の中に咲く一輪の花。
彼の目には草原に咲く小さくも美しく、そして可憐で強いタンポポの花に見えた。見栄えの良い薔薇や百合のような華やかさなどなかった。だが、か弱そうに見えるのに強く逞しく見えたそれは、まだデビュタントを迎えたばかりのような少女のようだ。
心に波打つ衝撃があまりに強すぎて、彼はその少女から目が離せなかった。
「どうしました?」
オードリックとともに雑談をしていた知り合いが、彼の様子に疑問を持ち声をかけた。
「い、いや。なんでもない」
オードリックの言葉に違和感を持った仲間は、彼の視線の先を追う。するとそこにはデビュタントを迎えたばかりと思しき少女とも呼べる令嬢たちが談笑をしていたのだった。「はは~ん」と納得した知人はそれとなくオードリックにカマをかける。
「ああ、あれはデビュタントを迎えたばかりの令嬢たちですね。いやぁ、若いとはすばらしいですよ。あんなに純粋無垢な令嬢も、あと数年もすればどこかに嫁ぐことになるんですからね。早めに手を打たないと誰かにとられてしまうでしょうなぁ」
知人の言葉にも動じない風を装ってはいるが、内心は焦りを感じているのが分かるほどに、オードリックの視線はチラチラと令嬢達の方へと向いていた。
ちなみに赤いドレスの令嬢は……、青いドレスは……。と、家名を上げていく中で、
「黄色のドレスはキャリスタン伯爵家のご令嬢ですね」
「キャリスタン……」
「キャリスタン伯爵家は文官出身の多い家だが、あそこはすでに嫡男が結婚し子もいるはずだ。問題はないはずですよ」
オードリックがぽつりと呟いた声を聞き洩らさなかった知人は、すぐに彼の背を押し始める。知人の言葉にオードリックは意を決したように、さらに令嬢を見つめ続けるのだった。
「ねえねえ。さっきからあちらの方が私たちを見ているみたいなの」
「え? どちらの方?」
「まあ、どなた?」
オードリックが視線を送っていた令嬢達もさすがに気が付いたようで、彼を遠巻きに観察し始めた。
「え? あの方が? だって、なんだか怖いわ」
「そうね。あのお顔の傷って、騎士様なのかしら」
周りに言われてコーネリア・キャリスタンも視線を向ける。するとそこには顔の中央に斜めに付けられた大きな傷跡のある大男。名誉の負傷であるはずの傷も、まだ少女のような彼女らには恐怖心と嫌悪感を覚えるには十分だった。
「あのお顔の傷はジョルダーノ辺境伯爵様ではないかしら?」
コーネリアの言葉に周りの友人たちは
「辺境伯って魔獣が出るところなのでしょう?」
「では、あれは魔獣との戦いでついた傷なのかしら?」
「怖いわ、魔獣だなんて。そんなところに住むなんて信じられない」
「それにあんな傷を隠すこともしないなんて、どういうおつもりなのかしら」
コーネリアを除く友人たちは皆、オードリックの顔の傷や辺境という地の恐ろしさばかりを口にする。
だが、辺境の地の者が魔獣を討伐してくれているからこその平和なのだと両親から聞かされていたコーネリアに、嫌悪感は微塵も湧くことはなかった。むしろ、感謝の念の方が強く心に残るほどだった。
遠巻きに見ている友人たちの中から、コーネリアはオードリックを見つめていた。
特に深い意味があるわけでは無かったが、何となく目が離せない。そんな思いで見つめていたら、彼と目が合ってしまった。
大勢の中に埋もれてしまうほどの、特別目立ちもしない地味な令嬢。それがコーネリアが自分で思う自身の印象。そんな彼女のことを見るはずが無いと、わかっているのに、思っているのに。それなのに、どうしても目を離すことが出来なくて。
気が付けば時が止まったように、ふたりは視線を交合わせていたのだった。
忘れることの出来ない。そんな一瞬だった。
ただ目が合うだけの、そんな夜会を過ごした翌日。
キャリスタン伯爵家は朝から上へ下への大騒ぎになるのだった。
朝一に先触れを出したオードリックは、待ちきれぬとばかりに、先触れの使者とほぼ入れ替わりでキャリスタン家の門をくぐった。
驚いたのは家人だ。当主の伯爵を含め夫人も兄夫婦も、そしてコーネリア自身が一番驚いていた。
応接室に案内したオードリックを待たせてはならぬと、父と兄が彼に向かい合った。
そして、彼の口から出た言葉に父も兄も驚き、そして言葉を失った。
「突然の訪問、申し訳ありません。私は辺境の地を守るジョルダーノ家当主オードリックと申します。まずはこれを……」
そう言って二人の目の前に差し出した書簡には、国王の印が押してあった。
いわゆる王命。
突然のことに驚き慌てて目を通すと、そこにはコーネリアをオードリックへと嫁がせるとの内容だった。
こうなっては何をどうしても覆すことは叶わない。
どうしてこうなってしまったのかは誰にもわからない。当の本人であるコーネリアですらわからないのだから。
準備期間もないままに、コーネリアを連れ去るようにオードリックは辺境の地へと旅立つのだった。
「お父様、お母様、お兄様も。私なら大丈夫です。心配なさらないでください」
「そうは言っても、コーネリア」
「そうですよ。まだデビュタントを迎えたばかりのあなたを嫁がせるなんて」
「何かあればすぐに連絡を寄こすんだ。すぐに兄である僕が駆けつけるから」
家族との別れも満足に出来ぬまま、コーネリアはオードリックの妻となった。