~1~
月を見ていた。
深い眠りについた愛しい人をこの腕に抱きながら見る月は、青白く揺らめいて見える。この目に映るのは、笑みすら浮かべた女性。
二度とその瞳を開き見つめ返してはくれないと、己の名を呼んではくれないと知りつつ、その唇にそっと指を這わす。
月が見ていた。
青白く揺らめくその光は全てを包み込むように、淡くきらめいていた。
全てが終わったのだ。
もう望むものはこの腕の中にある。
誰にも奪われることなく、気を病むことも無い。
あんなに焦がれ、熱望し、それなのに不安と恐怖がこの身を覆い尽くしてしまう。
それももう昔。
今はこの穏やかな心をどうして良いかすらわからない、愚かな自分がいるだけ。
二度と笑わないと知っているのに、その笑みが見たくて瞼を閉じた。
そこには笑顔のあの女性がいる。その笑顔が自分に向けられたものでないと知っていても、もう一度見たい。この名を呼んで欲しい。
渇望にも似たこの想いを、誰か叶えて欲しい。
どうか、私をあの女性の元へ。
再び、陽の光の元へと。
-・-・-・-
「っ!!」
オードリックはベッドの上で目を覚ました。
あまりの衝撃的な夢に、しばらくその身を動かせないままに天井を見上げる。
じっとりと粘りつくような汗が身体を湿らせ、あまりの気持ち悪さに首筋の汗を手で拭った。
いまだに心臓の鼓動が激しい。
「夢か……」呼吸を整える為につぶやいた声は、喉の渇きのために掠れている。
上半身を起こすと「はぁ」と大きく息がもれる。
「コンコンコン」
寝室のドアがノックされ「入れ」と声をかけると、執事のセバスチャンが使用人と共に入室する。
「おはようございます、オードリック様。本日は王都へ向かう日でございます。
準備は出来ておりますので、出立は何時でも大丈夫でございます」
「王都へ?」
「はい。来週に行われる、建国記念の祭典に合わせての王都訪問でございます。
あちらの邸宅の準備はいつでも万全でございます。ご安心ください」
「建国記念……」
「はい。滅多に王都へはお顔を出されないオードリック様も、建国記念の祭典にだけは仕方がないと……。年に一度でございます、国王陛下への嫌味もほどほどになさいませ。陛下も心配でいらっしゃるのです。かわいい甥っ子が魔獣討伐の最前で戦い、命をはっているだけでなく、いつまでも身を固めないことにも心を痛めておいでなのです」
オードリックは今朝の夢の衝撃さに心が未だ追いついていないようで、思考を順にたどり始める。
最後に建国記念の祭典の為に王都へ出向いたのは、一年前。
しかも、身を固めない?
一年前の王家主催の夜会の後、最愛の女性、コーネリアを半ば強引にこの辺境の地へと連れ、妻に娶ったはずなのに。
まさか、それすらも夢だったのか? と、自分の頭を疑い始めた。
あまりに現実味のある記憶。生々しいほどの情景。全ての五感が彼女を覚えているというのに、あれら全部が夢であったなど、とても信じられなかった。
セバスチャンの差しだすタオルで顔を拭く。気持ちの良い温度に濡れたタオルで顔を拭き、彼は少しずつ目を覚ましていく。
ベッドから起きるために、枕元に手を入れる。そこにはいつも肌身離さず持ち歩く、先祖伝来の短刀が入っている。はずなのに、ある場所に無かった。
「無い」
ポツリと呟いた言葉に「いかがなさいました?」と、セバスチャンが反応をみせる。
「いや、何でもない。大丈夫だ」
「どうやら我が主には珍しく、目覚めが悪いようでございますね。眠気覚ましに濃い目の珈琲にいたしましょうか?」
「ああ。そうだな」
「かしこまりました」
オードリックはベッドが起きると、すぐに隣の執務室へと向かった。
急ぎ引き出しを開けると、そこには代々受け継がれてきた家宝とも呼べる短刀が入っていた。「何故ここに?」そう思いながら手に取ると、微妙な違和感を覚えた。
何かが違う。そう感じたオードリックは、短刀の鞘を抜いてみた。するとそこには、わずかに残る血痕のあとと、微かな血の匂い。
「まさか、そんな……」
慌てて記録帳簿を開くと、そこには過ぎたはずの過去の日付が書かれていた。
他の帳面を見るも、全て過去の日付。信じられない思いでふと窓を見ると、そこには少しだけ若い顔つきの自分が映っているのだった。
どうなっているのかわからず崩れるようにソファーに座ると、セバスチャンが入れてくれた珈琲が差し出された。それを口に含みながら、新聞を手に取る。やはり日付は一年前のものだった。
「そうなのか……」
オードリックは確信した。
一年前に戻っていると。
王都へ向かう馬車の中で、オードリックは考えた。
これから先のことを。過去のことを。そして、己はどう動けば良いのかを。
「まだ時間はある。彼女のために最善を考えよう」
そう呟くと、王都へ向かう馬車の中で腕を組んだまま瞼を閉じるのだった。
不定期更新になると思います。
よろしくお願いします。