9:ハッピーエンドの後が幸せとは限らない
リンドグレーン帝国に赴いていた夫トリスタンがようやくカヴィル王城に戻ってきた。
どうせ私アリエルの元には来てくれない、そう思っていたから、侍女がトリスタンの訪問を告げた時は本当に嬉しかった。
「分かったわ、今すぐ湯浴みをして準備するから──」
「いえ、その必要はありません」
──は?
どういうことなの。
夫が深夜に妻と時間を共にするなんて、要はそういうことでしょ。
なのに、湯も浴びさせてくれないだなんて。
この侍女、こんなに聞き分けが悪かったかしら。
「ちょっと貴女、いったい何様のつもり──」
「それはこちらの台詞だ」
久々に聞いた夫の声は、まるで別人のようだった。
感情を全て押し殺したような声。
無機質だけれど、その奥にはどす黒い物が淀んでいるようにさえ感じる。
「と、トリスタン……?」
扉の方を振り返った私の目に入ったのは、夫と、その後ろにズラリと並んだ騎士達の姿。
「お、おかえりなさい。ここに来るのに、そんなに多くの人を引き連れる必要は──」
「拘束しろ。奴は人の心を操る──気を抜くな、目と耳と口を封じろ。呪文ひとつ唱えさせるな」
……嘘よ。
あんなに優しかった人が、どうして。
私の王子様が、私を拘束しろですって……?
頭が真っ白になる。
まるで現実感がない。
これは、悪い夢……? そうよ、夢に決まってる。
拘束って、誰を?
そう問い返す間もなく、騎士達が私の身体を床に押しつける。
頬に当たる冷たい感触。
後ろに捻られた腕が、軋みを上げる。
「ちょっとあんた達、私を誰だと思っているの!? 私は王太子妃なのよ!!」
抗議する間もなく、すぐに布を噛まされて口を塞がれてしまった。
目隠しをされて、視界も真っ暗。
腕は後ろ手に縛られて、動くことさえ出来ない。
なんなの。
なんなのよ、これ。
これじゃ、まるで──、
「覚悟しろ、この罪人が」
決定的な一言が、トリスタンの声で告げられた。
あれから数日、私は東の塔に幽閉された。
ようやく塔から出られたと思ったら、王都の広場に連れ出されて──、
今、処刑台の前に立たされている。
文官が朗々と私の罪状を読み上げる中、集まった民衆は口々に私を罵っていた。
名も知らぬ人々。
私が彼等に何をしたというの?
ヒュウ、と風を裂く音。
次の瞬間、こめかみに何かがぶつかる衝撃。
熱く滲む痛みと共に、群衆の罵声が渦を巻く。
……誰? 誰が私に石を?
どうして──どうしてこんなことに。
分からない。
ここは私の為の世界ではなかったの?
転生する前に女神様に会って、力を与えてくれた。
私がこの世界のヒロインではなかったの?
どうして。
どうして……。
「かくしてこの魔女アリエル・シュワードは人心を謀り、王太子殿下を籠絡。婚約者にあったクローディア・ハーシェル令嬢との婚約を破棄させて、自らがその地位を得た」
──クローディア。
ああ、そういえばそんな子も居たな。
悪役令嬢に仕立てあげようと思っていたのに、良い子過ぎて悪事の一つも働けないから、仕方なく親友キャラにしてあげたんだった。
……そう。
悪役令嬢なんて居なかった。
ここはゲームの世界ではなくて、現実世界だったから。
アカデミーに入学した時に私の目に入ったのは、幸せそうな本物の令嬢と、本物の王子様。
ゲームや絵本の世界みたいにキラキラしたものではなく、ご令嬢はお貴族様然としていたし、王子様は下心のあるただの男だった。
なんてことはない。
彼等は皆NPCではなく、一人の人間だったんだ。
当たり前だ、ここはゲームの中では無いのだから。
「──このように、魔女は我等の心を操り、弄んでいた。その罪状許し難く、またこれからも魔女の束縛から逃れる為には、死をもってその力を封じるほかない」
私の罪と、それに対する罰が読み上げられた瞬間、広場の興奮は最高潮に達していた。
これは現実と物語を混同していた私への罰?
皆をNPC扱いしていたからいけなかったの?
分からない。
分からないよ。
最後に聞こえたのは、風を裂く音と、
──ゴトリ。
まるで物語の幕が下りるように、静かに、冷たく響く音だった──。