3:捧げられた剣と、壊れた絆
「な、何、この光は……!?」
光の中、マルヴィナが戸惑いの声を上げる。
突然の異変に、離宮の警護に就いていた騎士達も駆けつけてきた気配がする。
そんな中、クローディアはじっと寝台を見つめていた。
光の粒が、少しずつ消えていく──否、寝台へと吸い込まれていく。
光が収まった頃、低いうめき声が寝台から上がった。
「う、今のは、一体……?」
低く澄んだ声。
天蓋付きベッドの中で、のそりと上体を起こしたのは、艶やかな黒髪とルビーのような紅色の瞳を持つ青年だった。
病床にあってやつれてはいるが、自らの手を見下ろし握りしめる様は、元はかなりの美丈夫であったことを思わせる。
「ノエル殿下、本当に……!?」
「マルヴィナ様? と、貴女は──」
マルヴィナの声に顔を上げた青年の目が、クローディアを捉える。
クローディアの銀の髪に、僅かに残る光の粒子。
それを目にした瞬間、青年は自分を助けたのが誰であったか、瞬時に理解したようだ。
「ご無沙汰しております、皇弟殿下。マルヴィナの妹、クローディア・ハーシェルでございます」
クローディアと皇弟ノエルは、デイル皇帝とマルヴィナの結婚式で一度挨拶をしたきりだ。
それ以外に面識はなく、ほとんど話をしたこともない。
突然寝室まで押しかけるのは失礼だっただろうかと内心焦るクローディアとは対照的に、ノエルが布団を剥ぎ、ベッドから起き出す。
「皇弟殿下!?」
マルヴィナだけではない、光に驚いて寝室に駆けつけた騎士達も全員、驚きの声を上げた。
毒を盛られて以降起き上がることは勿論、半身を動かすことさえ出来なかったノエルが、ベッドから起き上がり、自らの足で立ち上がったのだ。
「クローディア嬢」
「は、はいっ」
突然の展開についていけずに、クローディアが長身のノエルを見上げたまま、瞳を瞬かせる。
その様子に目を細めながら、ノエルがゆっくりと膝を付いた。
「貴女に助けられたこの身体、この生涯、貴女の為に捧げます」
「ノエル様!?」
突然の言葉に、クローディアが狼狽する。
ノエルの大きな手がクローディアの手を取り、その甲に口付けが落とされる。
(まるで、物語の騎士様のよう……)
とくんと、クローディアの心臓が跳ねる。
その隣では、皇妃のマルヴィナが「あらあらまぁまぁ」と楽しげな声を上げていた。
「なんだ、今の光は!?」
異変を聞きつけた皇帝デイルが、離宮へと駆けつける。
彼の目に飛び込んできたのは、寝たきりになっていたはずの弟が、義妹の前に跪く姿だった。
「ノエル、お前──」
「兄上」
信じられないとばかりに目を見張る兄に、ノエルが微笑みかける。
硬直する皇帝の足下で、黒猫が誇らしげに髭を揺らした。
「言っただろう、クローディアの力は凄いんだ!」
その言葉に頷きながらも、皇帝デイルはいまだ目の前の光景が信じられないといった様子で瞳を瞬かせる。
「なんという……これは奇跡か……」
「いえ、奇跡ではありません、兄上。これは全て、彼女がもたらしてくれたこと」
立ち上がったノエルは、頬が痩せこけ、幾分筋肉が落ちてはいたが、居並ぶ騎士達に劣らぬほどの体格をしていた。
「兄上、俺は彼女にこの剣を捧げたいと思います」
「ああ……私としても、どうにかして彼女に報いなければな」
「いえ、そんな……」
恐縮するクローディアの手を、皇帝の手が包み込む。
「頼む、弟を助けてもらって何もしないのでは、こちらの気が済まない。君がここに居る間は絶対に危険に晒したりはしないから、安心してくれ」
「あ……ありがとうございます」
困ったように笑うクローディアの隣で、ノエルが眉間に皺を寄せた。
「兄上、危険とは?」
「積もる話は色々とあるが……ひとまずノエル、お前身支度を調えたらどうだ」
デイル皇帝の言葉に、クローディアが頬を赤らめる。
寝台から起き上がったばかりのノエルは、寝衣姿のままだ。
「そうですね……すぐに仕度をします」
とてもつい先ほどまで寝たきりだったとは思えぬほど俊敏に、ノエルが身を翻す。
「ああ、そうだ。食事も用意しておいてください。久しぶりに、自分の手で思う存分食べられそうだ」
ノエルが浮かべた心からの笑顔に、クローディアの心臓がやけに騒いでいた。
夕食の後、皇帝夫婦と皇弟ノエル、皇妃の妹クローディアに茶が振る舞われる。
その席にあって、皇弟ノエルの紅い瞳には燃えるような炎が宿っていた。
「我が恩人にそのような仕打ち……絶対に許さん」
クローディアの婚約破棄と、それに伴うカヴィル王家の異変を耳にしたノエルは、静かな怒りを滾らせていた。
「私だけでは、目が届かないこともあるだろう。ノエル、どうか彼女を守ってあげてはくれないか」
「この命に代えましても」
兄弟の言葉に、クローディアが慌てて首を振る。
「そんな、大袈裟過ぎます。命に代えるなんて言わないでください!」
「まぁ、いいんじゃないの? 彼は貴女に剣を捧げると心に決めたみたいだし」
そんなクローディアを揶揄うように、マルヴィナが声を上げて笑う。
「もっとも……」
そんなマルヴィナの表情が、一瞬で凍り付く。
クローディアが今まで目にしたことのない顔。
優しい姉ではなく、皇妃マルヴィナとしての何度も修羅場を乗り越えてきた顔だった。
「これ以上クローディアを傷つけようものなら、私だって容赦はしないわ」
笑顔のまま、瞳だけが鋭く光る。
声色は変わらぬまま、背筋が凍るような威圧感を放っていた。
「お姉様まで……」
「それだけ、皆が君のことを大切に思っているということだよ」
デイル皇帝の言葉に、クローディアが唇を尖らせる。
その少女らしい仕草に、居並ぶ面々の顔に自然と笑みが零れた。
和やかな様子のリンドグレーン帝城とは打って変わって、クローディアの祈りで呪縛が解けたカヴィル王家は、大混乱に陥っていた。
「僕は……僕は、クローディアに何てことを……」
王宮の自室で、王太子トリスタンは一人髪を掻き毟らんばかりに頭を抱えていた。
確かに、アリエルのことは憎からず思っていた。
可憐な少女だと思った。
だが、クローディアとの婚約を破棄するほどだったか?
──違う。そんなはずはない。
自分は、幼い頃からクローディアだけを大事に想っていたのだから。
王宮で催されたお茶会。
幼いクローディアに初めて会ったその時に、トリスタンは恋に落ちた。
婚約は、トリスタンの側から申し出たことだった。
(クローディアとの婚約は、僕が望んでいたことだったはずなのに……)
それが、何故。
どれだけ考えても、分からない。
あの時の自分は、何を考えていたのだろう。
確かにアリエルと出会った時、奇妙な胸騒ぎを感じた。
彼女を強く意識して、彼女を可愛いと思うようになっていた。
それが、いつからだろう。
気付けば、盲目的に彼女のことしか考えられなくなっていた。
「最初は、学生時代だけの戯れのつもりだったのに……」
アリエルと仲良くすることで、クローディアの表情が翳るのが嬉しかった。
彼女が自分のことでアリエルに嫉妬をしてくれているようで、優越感に浸っていたんだ。
アカデミーを卒業したら結婚式を挙げて、次期国王となるべく政務に励まなければならない。
婚約者以外の女性と付き合えるのは、学生時代のほんの一時だけだ。
そう思って、今だけの甘い時間に浸るつもりだった──はずなのに。
「いつの間にか、僕はアリエルを選んでいた……」
そんなはずはない。
僕はあんなにもクローディアを愛していたのに。
「いつから、間違えていた……?」
どれだけ後悔しようが、既にクローディアとの婚約は解消されて、自分はアリエルと結婚式を挙げてしまった。
もう過去には戻れない。
隣に居るのは、自分が愛した人ではない……そんな違和感に、どれだけ苛まれていたとしても。
「クローディア……」
あの銀の髪に、あの微笑みに、もう二度と触れることはできない。
失った女性の名を呼ぶ声が、虚しく響いた。