2:リンドグレーン帝国
「クローディア!!」
「お姉様っ」
贅を尽くしたリンドグレーン帝城。
そこで待っていたのは、結婚してさらに美しさを増したハーシェル公爵家の長女、現在はリンドグレーン帝国の皇妃となったマルヴィナ・リンドグレーンだった。
クローディアにとっては、幼少期を共に過ごした実の姉だ。
その顔を目にした途端に、緊張に強張っていた顔が緩む。
「随分と大変だったみたいね……婚約破棄の話を聞いてからというもの、すぐカヴィル王家に文を送ったのだけれど、何も音沙汰がなくて……」
姉のマルヴィナは、既に王家に問い合わせを送ってくれていたらしい。
リンドグレーン皇妃の文を無視するなど、普通では有り得ない状況だ。
「一体どうなっているの?」
「それは私も聞きたいな」
姉マルヴィナの背後から現れたのは、その夫デイル・リンドグレーン──リンドグレーン帝国皇帝その人だ。
「皇帝陛下、この度は滞在を許可していただき、ありがとうございます」
クローディアが頭を下げれば、皇帝はゆるりと首を振った。
「そう畏まる必要はない。マルヴィナの妹であれば、私にとっても其方は大事な妹なのだ」
皇帝の皇妃に対する溺愛っぷりは、遙か隣国カヴィル王国にまで聞こえていた。
皇帝という絶対的な立場にある以上、世継ぎを残す為に側室を迎えるよう側近達がどれだけ進言しても一切聞き入れる気はなく、一途にマルヴィナだけを愛し続けているという。
そんな二人の様子に、クローディアが目を細める。
仲睦まじい姉夫婦のように、自分と王太子トリスタンも、二人で協力して国を治めていくのだと信じていた。
胸の奥が、疼くような痛みを訴える。
でも、今はその痛みに俯いている場合ではない。
「お二人とも、聞いていただけますか」
しっかりと顔を上げて、クローディアは頼もしい姉夫婦へと声を掛けた。
リンドグレーン帝城の奥まった一室。
豪華な応接ソファーに座るクローディアの膝では、額に宝石を抱いた黒猫が丸くなっている。
「こんな話、とても信じてはもらえないかもしれませんが……」
自分でしていてなお突拍子もない話だと、クローディアは思う。
だが黙って話を聞いていたデイル皇帝はゆっくりと首を振った。
「いや、こうして神獣が居るからには疑う余地はないだろう。それに、最近のカヴィル王家の言動は、どうもおかしいと思っていたんだ」
膝の上で丸くなっていた黒猫──神獣カーバンクルが顔を上げて、誇らしげに髭を揺らした。
「彼女の力は、あくまで彼女が考える範囲にだけ効果をもたらしている。隣国にまでは、傀儡化の影響は及んでいないのだろうね」
クローディアの脳裏に、国全体を覆っていたあの異様な薄膜が蘇る。
あの膜が消えた今、王国内では何かが変わっていたりするのだろうか。
「“えんでぃんぐ”を迎えたことで拘束力は弱まっているが、いまだ彼女の力自体は残っているはずだ」
「なるほど……こちらとしても、カヴィル王家の出方に警戒を強めておくとしよう」
カーバンクルの言葉に頷いた皇帝が席を立ち、臣下に指示を出す。
その様子を眺めるクローディアの髪を、姉のマルヴィナが優しく撫でた。
「頑張ったわね、クローディア」
「お姉様……」
優しい姉の言葉が、じんわりとクローディアの胸に滲んでいく。
「もう大丈夫よ。ここに居る限りは、貴女に手出しなんて誰にもさせないんだから」
「はい、ありがとうございます」
傷付いた心を癒やしてくれるのは、やはり家族の絆だった。
姉とその夫に感謝しつつも、この場に居ない父と兄のことがやはり気に掛かるのだった。
(お父様とお兄様は、大丈夫かしら……)
いざとなれば、二人も王国を脱出して帝都に来ると言っていた。
そのような事態にならなければ良いのだが──。
遠くリンドグレーン帝国の地に居るクローディアには、二人の無事を祈ることしか出来なかった。
皇妃宮の一角に滞在することになったクローディアは、姉に帝城を案内されていた。
これからしばらく世話になるところだ、どこに何があるか覚えておいて損はない。
廊下を歩いていて、ふと気になる一角が目に入った。
やけに警備が物々しい。
等間隔で騎士達が配置されて、周囲を警戒しているように見える。
「お姉様、あちらは?」
「ああ、あそこは皇弟殿下が住まう離宮に通じているの」
「皇弟殿下……」
デイル皇帝に一人弟が居ることは知っている。
しかし、それにしてはやけに物々しい警備体制だ。
「陛下と彼は、母親が違っていてね。それぞれに支持する貴族達が居たの」
帝城の廊下を歩きながら、マルヴィナがゆっくりと語り出す。
「殿下自身は陛下を支える剣になろうと頑張っていたというのに、その支持者によって対立は激化して、陛下を支持する貴族達の陰謀によって……」
「まぁ……」
後継者争いによって顕在化した貴族達の派閥争いに巻き込まれ、皇弟は毒を盛られてしまった。
一命は取り留めたものの毒によって半身は動かず、帝城で寝たきりの生活を余儀なくされているという。
「ここで暮らすなら、ご挨拶させていただくべきでしょうか?」
「どうかしら……いまだ毒の影響が抜けきらず、一日の大半を寝て過ごしているというお話だから」
聞けば聞くほど、気の毒な話だった。
当人に叛意はなくとも、周囲が彼を祭り上げ、争いの種となってしまった。
厳重な警備、多く手配された騎士達は、皇帝陛下の采配によるものだろう。
彼が如何に弟を大事にしているか、その手厚さに表れている気がした。
マルヴィナが廊下を歩けば、騎士達が頭を垂れる。
厳重警戒されたエリアとはいえ、マルヴィナと一緒ならば制止されることはない。
騎士達が配置された、その先。
寝たきりとなった皇弟が住まう離宮。
皇弟の部屋は、扉をノックしても応えはない。
マルヴィナに促され、静かに部屋の中へと足を踏み入れれば、天蓋付きのベッドに横たわる一人の青年の姿があった。
青ざめた顔で静かに横たわる姿に、一瞬クローディアが息を呑む。
死んでいるのではないか──一瞬そう誤解してしまうほどに、皇弟の顔色は悪い。
時折苦しげに呻く声が、唯一、彼の生を感じさせる。
デイル皇帝とよく似た面立ちだが、その瞳は開くことなく、固く閉じられたままだった。
ズキンと、クローディアの胸が痛む。
婚約を破棄され、大事な婚約者を奪われ、不幸の底にたたき落とされた気でいた。
だが、彼の状況は自分以上に酷かった。
半身不随と言っていたが、一人では動くこともままならず、一日の大半を寝て過ごしているという。
元々は兄の剣となる為に、修行を重ねていたと聞く。
その悲しみは、やるせなさは、どれほどだろうか。
「やはり、眠っているようね。また改めて──」
マルヴィナが言いかけた時だった。
強く手を握りしめたクローディアの周囲に、ふわりと光が漂う。
金色の粒子が銀髪を揺らし、キラキラと瞬く。
「これは……?」
驚くマルヴィナとは違い、クローディアはこの光に見覚えがあった。
淡い金色の粒子──国境で祈りを捧げた時に現れたものだ。
あの時、自分は何と願っただろうか。
ゆっくり記憶を辿り、唇を開く。
「どうか、在るべき姿へ──」
クローディアの声と共に、目映い光が皇弟の寝室を包み込む。
横たわる皇弟の瞼が、ピクリと震えた気がした。