10:語られない物語
リンドグレーン帝城の奥まった一室。
いつもは凛とした皇妃マルヴィナが、閨でだけ見せるしどけない姿。
だが、今夜ばかりは甘い言葉も空気も遠かった。
夫婦の会話には、別の温度が宿っていた。
「ようやくあの女が処刑されたのね……あとは、あの王太子が諦めてくれれば良いのだけど」
「うむ……」
マルヴィナの言葉に、デイル皇帝が重々しく頷く。
どうしてこんな時にまでこんな話をと思わなくはないが、彼女にとっては妹のことが第一なのだから仕方が無い。
「処刑が済んで国内が落ち着いたら、またクローディア嬢を迎えに来るだろうなぁ」
暢気とも言える夫の言葉に、マルヴィナが眉を吊り上げる。
「貴方はどうしてそう──」
「まぁまぁ」
デイルがマルヴィナの肩を抱いて、布団の中へと引きずり込む。
ムッと表情を顰める妻に、皇帝の表情が綻んだ。
「クローディア嬢のことならば、大丈夫だよ」
「そりゃ、あの王太子は帝城への出入りを禁止はしたけれど……何かにつけて、纏わり付かれても困るじゃない」
「当然、困りはするけれど」
デイル皇帝の表情が、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いかに一国の王太子とはいえ、既婚者には求婚できないだろう。その夫が身分ある相手なら、なおさらね」
夫の言葉の意味が分からずに数度瞳を瞬かせた後、その言葉はゆっくりとマルヴィナの中に浸透していった。
「まぁ……まぁまぁまぁまぁ!!」
興奮して語気を強める妻の唇に、デイル皇帝が人差し指を押し当てる。
「まだ内緒だよ。外野があれこれ言うようなことではないから」
「分かっているわ……!」
自分達の役割は、ただ若い二人を見守るのみ。
彼等の弟妹を想いながらも、二人の間には負けじと甘い空気が漂うのだった。
「クローディア嬢!」
「ごきげんよう、ノエル様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「どうぞお掛けください」
帝城の庭園。
花に囲まれた四阿で、ノエルはクローディアを出迎えた。
その顔が緊張に強張っていることに、招かれたクローディアは気付いていない。
「綺麗……」
風が吹く庭園を、花びらが踊る。
その様子に目を奪われるクローディアに、ノエルは釘付けになっていた。
「クローディア嬢、あの……」
「はい」
ノエルに声を掛けられ、クローディアの視線が真っ直ぐノエルに向けられる。
穏やかな瞳。
その瞳に息を呑みながら、ノエルは懐から小さな箱を取り出した。
「どうか……これを受け取っていただきたい」
「まぁ、これは……?」
小箱を受け取ったクローディアが、包みを解いて、箱を開ける。
その中には、ノエルの瞳を思わせるルビーが嵌められた指輪が収められていた。
「これは……」
クローディアが、瞳を瞬かせる。
一瞬の後に、ハッと顔を上げた。
「柄飾りの御礼など、別に良いですのに。あれ自体が、御礼のつもりでしたし……御礼の御礼だなんて、申し訳が無くて……」
「え……」
クローディアの言葉に、今度はノエルが声を上擦らせる。
「ち、違います、決して御礼とかそういうのではなくて……!」
しどろもどろになりながら僅かに視線を俯かせたノエルが、意を決したように顔を上げる。
「あ……」
無骨な男の手が、華奢なクローディアの手を取った。
その手に握られていた小箱から指輪を取り、クローディアの指に、そっと嵌める。
「クローディア嬢……どうか、俺の妻になってください」
「ノエル様──!?」
クローディアの深い青色の瞳が、大きく見開かれる。
「ノエル様のお気持ちは、嬉しいです。でも──」
「でも?」
暴れだしそうな心臓を抑え、じっとノエルがクローディアの瞳を見つめる。
目の前の女性は、悲しそうな笑みを浮かべた。
「……怖いんです。また、同じことが起きるんじゃないかって」
華奢な肩が、小さく震えている。
気丈に振る舞っていても、よほどにショックだったのだろう。
その気持ちは、ノエルには察するに余りある。
「ノエル様が恩義を感じてくださっているのは嬉しいですが、私は──」
「クローディア」
クローディアの言葉を遮る強い語気に、ピクリと身を竦める。
「最初は確かに、貴女に恩義を感じていた。この身をもって返そうと思っていた。だが……」
細い肩を、逞しい腕が抱きしめる。
クローディアの細い身体は、ノエルの胸にすっぽりと包まれていた。
「決して、それだけではない。傷付きながらも真っ直ぐに立とうとする貴女を見て、この人をずっと支えていきたいと思ったんだ」
「ノエル様……」
じわりと、クローディアの瞳に涙が浮かぶ。
それはやがて、ぽろぽろと頬を流れ落ち、逞しい騎士の胸元を濡らした。
クローディアの姿を追い求めるトリスタンが帝都に辿り着いた頃には、帝都全体が皇弟の吉事に湧いていた。
自らが追い求める女性はもはや手の届かぬ存在になったと、隣国の王太子が膝をついたことなど、誰も知らぬままに。
これは転生者が紡いだ“げぇむ”では描かれることのない、一つの物語だった。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!