1:エンディング
クローディア・ハーシェル公爵令嬢は、カヴィル王国の王太子トリスタン・カヴィルの婚約者だった。
それが王国中が沸き立つ王太子の結婚式で参列席に並んでいるのは、婚約者であるトリスタンが彼女を選んだからだ。
『ごめんね、クローディア。僕はアリエルと生涯を共にしたい』
生涯を共にしたい。
それは幼い頃のクローディアが受けたプロポーズと同じ言葉。
王都の教会、祝福の光が降り注ぐバージンロード。
トリスタンと腕を組んで歩くのは、クローディアではなく、友人のアリエル・シュワード伯爵令嬢だ。
貴族令嬢らしからぬ肩口で切り揃えたストロベリーブロンドの髪をふわりとなびかせ、幸せそうな笑顔を浮かべている。
(どうして……どうしてこんなに胸が痛むの)
トリスタンに告げられた婚約解消は、一方的なものだった。
とはいえ相手は友人のアリエルであり、クローディアも婚約解消には納得していたはずだった。
なのに今、バージンロードを歩く二人を見ていて、熱いものがこみ上げてきそうになる。
目出度い席なのに。
自分にとって大事な二人を祝わなければならないのに。
なぜ、こんなにも胸が痛むのだろう。
(私は二人の幸せを願っていたはずなのに……幸せを、願って……)
思考と感情とが噛み合わず、クローディアの心が軋みをあげる。
司祭の前で、トリスタンとアリエルが誓いの言葉を口にする。
(……おかしい、どうしてあんなにあっさりと婚約解消に納得してしまったのかしら)
どれだけ自問自答しても、答えは見付からない。
(本当なら、あそこに立っていたのは私だったはずなのに)
ズキズキと胸が痛む。
誓いの言葉を終えた新郎新婦が口付けを交わす、結婚式で最も盛り上がる瞬間。
(いや、見たくない──!)
堪らず、クローディアは視線を逸らした。
『そうだよ、それでいいんだクローディア!!』
突然耳に響いた声に、クローディアがハッと顔を上げる。
祝福の拍手が鳴り響く中、誰かの声なんて聞こえるはずもないというのに。
確かに、クローディアには誰かの声が聞こえていた。
「ふぅ……」
結婚式を終えて公爵邸に戻る馬車の中で、クローディアは深く息を吐いた。
祝賀パーティーは、体調が優れないからと参加を辞退してきた。
頭が重く、割れそうに痛い。
自分の意思と感情がちぐはぐなのと同様に、心と体もまた相容れぬ状態のようだ。
どうにか公爵家の馬車に乗り込んだまでは良いものの、それっきり、クローディアの意識は深い沼の底に沈んでいった。
『ごめんなさい、ごめんなさい……』
誰かの声が聞こえる。
聞き覚えのない女性の声だが、その澄んだ声音はクローディアの魂を揺さぶる。
(誰? なぜ謝っているの?)
クローディアの問いに、返る言葉は無い。
“声”はただ謝罪を繰り返していた。
『貴女の幸せが、全て彼女に奪われてしまった』
声はひたすらに嘆き、悲しんでいた。
(私の幸せ? 私の幸せとは──)
思考するより先に、意識が波間を漂う。
小さな波が、少しずつ大きくなっていく。
やがて、巨大なうねりとなって──、
「クローディア!!」
気付いた時には、クローディアは父であるファーディナンド・ハーシェル公爵に抱きかかえられていた。
「あ……お父様?」
「良かった……帰り道で倒れたと聞いて、どれだけ心配したことか……!」
父の言葉に、状況を察する。
公爵邸の自室、見慣れたベッド。
誰かが倒れたクローディアを運んでくれたらしい。
「ごめんなさい、お父様。心配をおかけして──」
「クローディアが謝る必要なんてないよ!」
不意に、ベッドの上で布団がもこもこっと揺れた。
否、布団ではない。
布団のような柔らかな質感。それでいてもっと毛並みの良い──額に赤い宝石を抱いた黒猫だ。
「やっと目が覚めたね、クローディア!」
「こ、この子は……?」
驚き目を見張るクローディアに、父のファーディナンドが苦笑を浮かべる。
「おそらく神獣様だと思うのだが……お前から離れようとしなくてな」
神獣──神の遣いと言われる聖なる獣。
伝説の中で語られる存在。
それが今、クローディアと父ファーディナンドの前に居る。
「ずっと君を見守っていたんだ。今までボクの声は届かなかったけど、“えんでぃんぐ”を迎えて、やっと君の前に姿を現すことが出来るようになった」
「えんでぃんぐ……?」
クローディアとファーディナンドにとって、馴染みのない言葉だ。
「ボクも女神様から聞いた話なんで、詳しくはないのだけれど……」
神獣カーバンクル曰く、彼女──アリエル・シュワード伯爵令嬢はこの世界とは異なる世界の記憶を持って生まれたらしい。
いわゆる“転生者”なのだと。
「転生者だと? そんな存在が居るだなんて……」
博識なファーディナンドにとっても、初耳の存在だった。
「珍しい存在なのは、間違い無い。だから女神様は、彼女の魂が宿る際に、一つだけ彼女の願いを叶えることにしたんだ。彼女がこの世界で生きやすくなるために」
それが、彼女の願い──『彼女が好きな乙女ゲームのような生き方がしたい』というものだった。
「おとめげえむ……ですか?」
「げえむというのは、皆で楽しく遊ぶ為のものらしい。乙女と付いているからには、女性達が行う遊戯なのだろうね」
乙女ゲームの存在を知らぬ女神も、カーバンクルと同じように理解をした。
だからこそ、アリエルの願いを受け入れ、彼女が望む加護を授けた。
そうして、アリエルに与えられた能力。
世界の成り行きを、人々の行動を、ゲームのルートを決めるかのように自在に操れる能力。
「彼女に合わせて、げえむだの何だのと呼ばれていたけれど、要は“傀儡化”だ。一個人に与える能力としては、あまりに大きすぎた」
「傀儡……」
その恐ろしい響きに、クローディアが肩を震わせる。
「他者を思うように操れる。傀儡化によって操られた人物は、彼女が決めた役割によって動くだけの人形になってしまう」
神獣カーバンクルは、吐き捨てるように言った。
アリエルによって人生を狂わされた人々を目にしてきたからこそ、彼女の言動に、その過ぎたる能力に、嫌悪を抱かずには居られないのだろう。
アリエルの能力による最大の被害者が、今目の前に居る。
「だから……だから、私は……」
クローディアの深い海を思わせる澄んだ瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
幼い頃から大好きだった婚約者トリスタン。
彼となら、幸せな家庭を築いていけると信じていた。
その婚約者がアリエルと恋に落ちていく様子を、クローディアはただ応援することしか出来なかった。
自らの心に、悲しみに蓋をして、アリエルの相談役兼良き友人として彼女の傍に立つ。
それがアリエルの求めた“クローディアの役割”だったのだ。
涙を零すクローディアの肩を、父のファーディナンドが抱く。
王太子の婚約者として、未来の王妃として、クローディアは幼い頃から厳しい王太子妃教育に耐えてきた。
その努力も全て無駄になってしまった。
アリエルがトリスタンと結ばれることを望んだ為に──。
「婚約解消後のことについて、王家から何も申し入れが来ていないのが幸いだな」
ファーディナンドがぽつりと呟く。
本来であれば、王太子妃教育の内容は門外不出。
その知識は秘匿されるべきものだ。
婚約が解消されたとはいえ、王太子妃としての教育を受けた者は、王宮で飼い殺しされるのが常であろう。
その軛から逃れられているのは、正に幸運と言えた。
あるいは、それこそが王家の者達が正常な判断が出来なくなっているという証左なのかもしれない。
ただ、それもいつまで続くかは分からない。
今すぐにでも、将来の王妃としての教育を受けたクローディアを、王宮に差し出せと言われるかもしれないのだ。
それより先に、策を練らなければならない。
「あいつの束縛から逃れる為に、クローディアには女神様から特別な力が与えられたんだ」
アリエルを“あいつ”と呼ぶカーバンクルの声には、憎しみさえ込められていた。
「特別な力……?」
クローディアの言葉に、カーバンクルが頷く。
「その力があれば、皆の傀儡化も解けるはず」
転生者によって運命を捻じ曲げられてしまったクローディアに対し、女神が授けた力。
それは『全ての異常から解き放たれる』という、伝説で語られる聖女にも匹敵する力だった。
ハーシェル公爵家には、三人の子供が居る。
第一子の長女マルヴィナは、カヴィル王国の隣国リンドグレーン帝国の皇妃となった。
第二子の長男ケヴィンは、ハーシェル公爵家を継ぐべく父ファーディナンドの補佐をしている。
第三子の次女クローディアは、カヴィル王国の王太子妃となる──はずだった。
それが今、クローディアはカヴィル王家から逃れるべく、一路北を目指している。
馬車の窓から流れる景色を見つめながら、クローディアが小さく息を吐く。
その膝には、額に宝石のある黒猫──神獣カーバンクルが丸くなっている。
こんな風に国を逃げ出すことになるなんて、王太子妃としての教育を受けていた頃は想像もしていなかった。
このままクローディアが国内に居ては、いつカヴィル王家から登城命令が下されるかは分からない。
父ファーディナンドが出した答えは、長女の夫──リンドグレーン帝国皇帝デイル・リンドグレーンを頼ることだった。
護衛騎士達と共に、北方のリンドグレーン帝国を目指す。
カヴィル王国北の森、国境線付近に差し掛かった頃、馬車の中からも奇妙な光景が目に入った。
「あれは──?」
北の森を──否、国全体を覆うように、ぼんやりと薄い膜のようなものが掛かっている。
ハッキリと見える訳ではない、靄のような存在。
なんだか不気味な薄膜が、だがクローディアの目には確かに感じられた。
「あれが、あの女の能力だ。この国の民が皆彼女を祝福するように、暗示がかけられている」
「なんてこと……」
アリエルの力は、クローディアや王家の人間に対してだけではない。
国全体を覆うほどに強力なものだったのだ。
だからこそ、王太子妃教育を受けた公爵令嬢との婚約破棄に、誰も異議を唱えない。
それがおかしなことだと、気付きもしない。
何もかもが異常で、歪められていた。
「クローディア、今の君なら解けるはずだよ」
カーバンクルの言葉に、クローディアが華奢な手を握りしめる。
(私にそんな力が、本当にあるのかしら……)
分からない。
つい最近まで──アリエルと出会うまでは、王太子の婚約者として多忙ではあっても、変わることのない毎日をただ繰り返していた。
ただ、クローディアの人生は、大きく変わってしまった。
否、変えられてしまった。
もはや、元の日常に戻ることは出来ない。
(それでも……少しでも、皆の目が覚めてくれるのなら……)
馬車の中で、静かに手を合わせる。
仄かな光が、柔らかな銀の髪をふわりと浮き上がらせた。
「どうか、全てを在るべき姿に──」
彼女の祈りに応えるように、銀の髪が淡く輝き、空間そのものが淡い金色の粒子に満たされていく。
その瞬間、世界から音が消えた。
木々のざわめきも、小鳥のさえずりも、風の音も──何もかもが時を止めたように音を失い、そして、一瞬の後に動き出す。
何かが、変わった気がした。
慌てて顔を上げて馬車の窓から外を見ると、あの不気味な薄膜はもうどこにも見えなくなっていた。
「さぁ、行こう。きっと今に皆正気を取り戻すはずだ」
カヴィル王家に呼び出されるより先に、その権力が届かぬところ──リンドグレーン帝国に向かわなければならない。
馬車は再び、一路北方を目指し進んでいった。