浪江町にできるもの
浪江町に今後できるものを述べます。
避難により、浪江駅周辺の一等地に立っている民家は、かなり解体されました。戦争や、大災害があった後の街並みを彷彿とさせます。ほぼ更地になったことで再開発がしやすくなったと思います。駅前はかなりの再開発がされます。
大きいイオンモールが駅前にできます。浪江町には小さいイオンが震災後にできました。ただ、小さいので食材のバリエーションが少ないです。そのため服屋や雑貨もある原町(南相馬市)に買い出しに行くことが多いです。それが浪江町だけで完結できることが期待されます。
F-REIと呼ばれる研究機関が、浪江駅近くにできます。外国の研究者が来ることを期待しているため、町民に英語ができるように働きかけをしています。どこまで研究施設として成果を出せるのは未知数です。私はあまり期待していないです。また、F-REI向けのマンションが、駅前にできます。
牛丼屋ができるらしいです。避難前もわが町には牛丼屋はありませんでした。牛丼屋ができるようなるとは、町もえらくなったものだなと思いました。
鮭のふ化施設ができます。請戸港の鮭を復活させるらしいです。
浪江町は、避難前と同じ形には戻らないです。違った形になります。復興とは復元ではないことが実感できます。
震災にて、私の中で変化したものについても話します。
以下の話は、あまり浪江に関係ないかもしれません。
震災後、出身地を正直に言わなくなりました。もともと、浪江町はマイナーな町です。震災前に出身地をいうときには、福島県の海側、あるいはいわき市の上と言っていました。
出身地を話すときは、飲み会や集まりの時が多く、楽しい雰囲気の時が多いです。その時に、暗い雰囲気にしたくはありません。震災後、福島県の海側というと、さらに町名を聞かれるときがありました。浪江町と話すと、ちょっと雰囲気が暗くなります。申し訳ない気持ちになります。
そこで、震災後は出身地は避難先を使い、『今は、福島県の中通り』と答えていました。そうすれば、雰囲気が暗くなることもなく、雑談が進行するからです。福島県の福島県の中通り出身者がいた時が困りました。中通りのことは知らないからです。最近は、福島県の海側と答えても、かわいそうと思われることがなくなってきました。時間がたち、その地方が被害と結びつかなくなることが復興だと感じています。