アパート生活の香川家
居候生活が終わることになりました。早く出ていくようにと言われました。
私たちが浪江から、ものを持ち帰ったのが家主には気に入らなかったみたいです。ニュースではいかに放射能が危険なのか述べています。そんな危険地帯から、危険なものを家主に黙って持ち込むなど言語道断という形でした。私たちが借りていた布団も持って行ってくれといった形でした。何とも言えない悲しさがありました。
父がアパートを探してくれて、そこに移ることになりました。通常、4月から住みはじめる契約でしたが、父がお金を余分に払うことで、すぐ住めるようにしてくれました。居候先から出ていくときには、父の月収くらいのお金を封筒に包んで、迷惑料として家主に渡しました。
お金を余分に払うことでアパートにすぐ住めるようにできるのは、当時は衝撃でした。私は、この事故によってお金があれば、横車を押すこともできるし、トラブルがあったときの立て直しが迅速にできることを学びました。お金への執着が強くなった気がします。
アパート暮らしが始まりました。アパート暮らしでは、トイレは各人の自由にしてよく、寝るときも安心感がありました。私たちは、アパートをすぐ借りて、生活することにしたので、避難民の中では幸せなほうだったと思います。長期の集団生活で疲弊した人も多いと聞いています。
集団避難は、難民とあまり変わりません。約2万人の難民を一挙に受け入れる余裕は、どこにもありません。そのため、避難民は中通りの中に分散し、さらに会津、新潟県まで移る方がいました。父方の祖父は、新潟県まで移り、そこで生涯を終えました。