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思い出  作者: 香川 尊
香川家と原発事故
10/25

3.12 ~3.13 原発事故時の香川家

3.12 の午前中、私と香川家は別行動することにしました。


午前中、私はNAISTのオープンキャンパスに一人で参加しました。父がせっかくだからと送り出してくれました。オープンキャンパスは終始穏やかな雰囲気でした。それがひどく非現実的で、頭には何にも入ってきませんでした。

 

 その間、私以外の家族は、水や食料を買い込んでいました。午後、実家に帰ることにしました。首都高は、地震の影響で使えません。そのため奈良から、日本海側を使って新潟⇒会津⇒中通り⇒浪江のルートで帰ることにしました。カーナビのテレビでは、原発がまずいというニュースをずっと見ていた気がします。ずーと原発の建屋の映像を見ていました。


 原発から10km圏内は避難という情報が出てきたときに、車に置いてあるマップル(地図帳)で浪江町のページを開いて、赤丸を引きました。車内灯で照らされた地図をみんなで見ていました。私は数回、地図の縮尺と半径があっているか確認しました。「たしか10km圏内だよ。」と車を運転していた父が言いました。我が家は10km圏内でした。


 原発の水素爆発の映像が流れました。父が「終わった・・・。」とつぶやいていました。父は原発の常駐業者で働いており、事態の重さを十分に知っていました。


 3.12は、福島県の会津(福島県の左側)のホテルに泊まることになりました。人生で初めて会津に泊まりました。


 3.13は、会津から中通り(福島県の真ん中)に行くことになりました。途中、渋滞があれば、私が車から降り、渋滞の先頭で何が起きているのかを探ったりしていました。車の助手席に座っていたのですが、やることは多かった気がします。


 10km圏内で逃げた方(避難民)の避難場所に合流することができました。そこで、父は情報収集し、私たちは車の中で段ボールで車の窓をふさいだりしていました。3月はまだ寒いです。父が、避難場所の地元の方と仲良くなり、その方の家に居候させてもらえることになりました。我が家の二郎は障害者です、避難先での集団生活は無理だったので渡りに船でした。客間の一室で家族全員が何とか寝ることができました。


父は相手の懐に入っていく能力が高く、それで助けられました。


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