しょんべん滝の桃剣
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
こーちゃんは、茶柱が立つところを実際に見たことあるかい?
いや、僕は見たことがない。映像越しには目にするけれど、いざ自分がお茶をいれたり、いれられたりした折りに、目撃したことはないな。
茶柱が立つためには、茶葉に茎が入っていること。そいつが湯のみの中へ入っていけること。茎に入り込むお茶の量が、端っこ同士でうまいことバランスをとれること……と、様々な条件をクリアしないといけない。
それはめったにないことであって、たとえ細かい理屈が分かっていなかったとしても、幸運の象徴であると昔の人がみなしたのも、自然なことだろう。
時間に限りがあるなら、機会も限りがあるもので。
今度こそ、今度こそと思いながら、そのチャンスを永遠に失ってしまう……なんてことは、よく耳にするし、もう体験しているかもしれない。
実は私も、いまのところ生涯に一度だけ、不思議な経験をしたことがあってね。
そのときの話、聞いてみないか?
「なあなあ、『桃剣』抜こうぜ~!」
そう友達に誘われたのは、夏休みの中でも、特に暑い盛りの日のことだった。
当時は「桃○○」といった感じで、桃関連の商品が私のまわりにあふれていたからねえ。
てっきり桃剣なるものも、そのひとつかと思って、どこのお店に行くのか尋ねたんだ。
けれど、友達はいずれのお店でもない、と話す。
行先は、ここから2キロほど先にある登山道の途中にある、「しょんべん滝」だという。
滝の定義となると、5メートル以上の落差をもって、常に水が激しく流れているところ……となるらしい。
これに照らし合わせれば、文字通りに水がしょんべん程度の勢いで岩肌を垂れ落ちていく「しょんべん滝」は、本来だと滝の看板をおろすべきなのだろう。
しょんべん滝自体も、一部の地元民が勝手にそう呼んでいるばかりなのだけど、子供心には延々と水を流すスポットというのは、それだけで魅力を感じてしまったもので。
話題にあがるときはあがる、特徴的な場所のひとつだったんだ。
しかし、この炎天下に2キロほどの遠出となると、ちょっと及び腰になる。
自転車を駆ればそれほど時間はかからないだろうけど、いざ足を運ぶと考えたら……。
そのような私の考えを察知してか、友達さらに付け加える。
向こうへ着いたら、アイスをたらふく食おうぜ、と。
登山道の入り口や途中には、夏季限定で臨時のアイス屋が設けられることは、私も知っている。ときには、珍しい味のものが売っていたりして、コンプリート欲をそそられた。
まだ今年は確かめていないが、面白い味があったのを、夏が過ぎてから知るのもシャクではある。
結局、友達の誘いに乗って自転車にまたがったはいいが、本目的である「桃剣」については、アイスとは関係ないという友達の言。
しょんべん滝に着いてから、詳しいことを話すとのことで、二人して事故を起こさないようにしながら運転していく。
たどり着いた登山道入り口は、想像していた通り「氷」の看板を出したアイスの屋台が出ていた。
半分ほどアイスに釣られてきた私としては、前金代わりに買って食べても……と思ったものの、友達はよっぽど「桃剣」にご執心らしく、さっさと先へ進もうとのこと。
「アイスならいつでも食べられる。でも桃剣は期間限定だ。いまにもなくなっちゃうかもしれない」
「桃剣は食べ物なのか?」
「食べられないことは、ない」
ない、の手前の微妙な間隔がちょっぴり気にかかるも、私たちは登山道を歩き始める。
幾千人が足を運んだか分からない道は、手すりなどもつき、だいぶ整っていた。ここまで自転車を漕いできて汗ばんだ身体に、木陰を抜けてくる風が気持ちいい。
山の中腹あたりまでは、背の高い木々の樹冠たちが陽をさえぎってくれるから、直射日光に苦しむこともあまりない。
そしてしょんぺん滝は、この木陰の途切れるより先に出会うことができる。
楽な話だし、とっとと済ませたいなあと思っていた。
伸びる手すりたちより、数メートル奥の岩肌から垂れ落ちる、しょんべん滝の前まで来る。
周囲に草が生い茂る中で、この水がしたたり落ちる幅2メートルほどの空間のみ、きれいに葉が及ばないというのも、手入れの賜物か。あるいは滝そのものの流水に自然が遠慮してくれているのか。
その右わきへ生える、草たちの壁に友達は飛び移った。
手すりに足をかけ、そこからぴょんと弾むや、ツタのひしめく一角へぴとりとくっつき、私のほうへ手招きしてくる。
昔から、この草のぼりは何度かしてきた。大人に見つかれば怒られるだろうが、いまはちょうど道を行く人の姿はない。
私も彼にならって、草へ飛びつき、這いながら滝の上部へ向かっていく。
以前にも同じようなことをしたとき、しょんべん滝は高さ4メートルほどの岩の割れ目あたりから、ちょろちょろと水を出していた。
そこから軒のようにせり出した石が、あたかも空から何かを守っているような格好だったのは覚えていたよ。
そのせり出した石のてっぺん、数十センチほどのところ。
以前に見た時はごつごつとした表面をさらすのみだった、その茶色い身体に茎らしきものが何本か生えている。
高さはおよそ20センチ強といったところで、それぞれが十字架のような形をしているが、全体的にあたりの緑とそぐわない、桃色に染まっていたんだ。
なるほど、桃剣。
大きさを考えず、姿だけをみれば岩に突き立った、つば付きの剣に見えなくもない。特殊な剣は、岩なり台座なりに刃を刺したまま置かれている逸話も多い。
その一本を、友達はさっと引き抜いて口へ含んでしまう。
シャクシャク、と氷菓子のそれによく似た音を立てながら、「くう~」と鼻先を押さえている。よっぽど冷たかったのだろうか。
お前も食べてみろって、と促されて、私もおそるおそる一本に指をかける。さほどの抵抗はなく、桃剣は抜けた。
友達の真似をして食べてみたが……味うんぬんより、冷たさが何よりまさった。
本のミリ単位でのかじりだったにもかかわらず、鼻どころか頭蓋の奥まで一気に冷やされ、ガンガンと頭痛を覚えるほどに。
アイスクリーム頭痛に対する耐性はそれなりにあると思っていたが、このほんのちょびっとで、こうも苦しめられたことはなかった。
痛みはなかなかひかず、どうにか声を出してもだえたいのをこらえる私の前で、友達は顔をしかめながらも、新たに二本、三本と目の前で口へほおばっていき、「本気か?」と心配になったね。
そうして、私自身がなかなか口にできず、持ったままでいる桃剣。そのかじりかけの部分から、とろりと垂れるのは中身と思しき桃色の液体。
が、それはたちまち鉄に似た金属臭を放ちながら、赤黒く色も染めて石の上へ垂れ落ちていく。
まるで、私たちの身体を絶え間なく循環し、機能を支えている液体そのもののように思えて、私は桃剣をつい放り捨ててしまう。
「あらら、もったいない」
そういいながら、友達は私の捨てた桃剣まで食べてしまってね。ここに生えたものもすっかり食べつくすと、さっさと滝を降り始めてしまったんだ。
その日から、私は彼に隔意を持ってしまって、容易に誘いへ乗ることもなくなってしまう。
次第に付き合いも少なくなってしまったんだが、この間の同学年の同窓会で会った彼は、背こそ伸びていたが、みんなの中では頭一つ抜けて若々しかったなあ。
うらやましがる声もあったが、私は落ち着いたときにこっそり尋ねたよ。
まだ桃剣を食べているのかと。
彼はにこりと笑いながら、首を横に振る。そして「桃剣はもう、あそこに生えることはないよ」とも。
もしちゃんと食べていたら、そうして老けることもなかったろうに、とも残念がられたな。