9 Bisilteo
愛しい愛しい我が娘。
サリが王の間へと足を運ぶ事は余り多くはない。特に用がなければ寄り付かない。冷めているようでいて、邪魔をしない様にというサリの遠慮の現れであった。そんな愛娘が王の間へと訪れたというのに、王の間には冷ややかな空気が流れていた。
「生きた、人間を、連れてきたのですか」
我が娘は、東洋の伝説の妖怪雪女なのではなかろうか。
サリは真っ黒な瞳に冷たい光を宿して王を見据えた。と、いうのもサリは王が自分の為にその生きた人間を連れてきたのではないかと疑ったからだった。この王は愛娘の為ならば、箍が外れてしまうことがある。この世は死後の世界のほんの一部に過ぎないのだが、他の世の住人にまでもその愛娘の溺愛ぶりは轟いていた。この所増して調子の悪い娘のために生きた人間を連れてきたのではないか、娘が喜ぶと思ってとそんな気持ちで。そんな様子のサリの考えを察したのは、王の隣に控えていた参謀だった。
「違うんです! いや、違わないんですけど、サリ様、そのようなことではないんですよ!」
「本当に?」
「ええ! 王、ね?」
「う、うむ」
ね? なんて、今まで一度も敬愛する王に対して使った事もないような疑問符を目配せしながら投げかける参謀に、王も愛しい愛娘の冷たい瞳に動揺したのか吃って返事をした。
「そうですか。では、説明をいただきたい」
おかしな様子の二人に少し面白くなってしまったサリは口角を上げてさらに問いかけた。普段であれば、娘が笑った! なんとお可愛らしい! なんて言って手を叩く二人だったが、こんな状況では悪魔のようにしか見えない、とでも思っているようで二人とも顔を引きつらせた。普段では決して見る事のできない二人の様子に、サリは目元をやわらげた。様子の変わったサリに気が付いた王と参謀は気付かずに止めていた息を吐いた。くすくすと笑う娘に、この緊急事態にも関わらず王の間には和んだ空気が流れた。あの少年を連れてきてしまってから続いていた緊張がやっと解れた。
どうにもこうにも、説明をしないと話は進まないので、状況の確認も含めて三人はこの緊急事態を整理する事にした。
「王の話によりますと、少年はまず生きてます。それに五体満足な状態で今は緑の部屋で眠ってます」
参謀の言葉にサリは胸を撫で下ろした。少年の状態が一番の気がかりだった。
「ロルカに様子を見ていてもらいましょうか、この後は私も外に出ませんので」
「ふむ、それが良いだろう」
サリの申し出に王は断るはずも無く、ピリリに伝言を頼もうと頷いた。
「それにしても、王が何かを間違えるだなんて、私は信じられません」
「ふむ……」
「サリ様、それに関しては王にも思う所があるようなんですが……」
参謀は少し声を落としてそれは聞いてやらないほうが良い事かもしれません、と耳打ちをした。
「では、聞きません」
「いや……話しておこう」
「え!」
「……無理に話してくれなくても……」
サリは参謀の申し出に素直に従ったのだが、王は少し迷う素振りを見せると自慢の黒く光る角を一撫でした。
「三つ前の月が沈む頃、一つの魂がこの水底の世から出ていった」
「出ていった?」
二人が首を傾げると、王は一つ頷いた。あれはあちらの世では何年も前の話だが……と語り始めた。
「クラントロワという国がある」
「ああ、ありましたね。確か内乱で半分程もの国民が亡くなった国だったかと」
「……」
ああ、あの国かと頷く参謀だったが、サリは初めて耳にする名前の国に首を傾げた。それはサリがこの水底の世に来る前の出来事だった。
「……名はビシルテオ。悪い奴だ」
「……はあ」
「魂の全ては出ていけなかった。しかし、クラントロワに戻り悪い風を撒いていたようだ」
王はビシルテオ脱走の日から通常の彷徨える魂の回収に加えビシルテオの魂の一部の捜索も行っていた。しかし、あちらの世では魂の形を保つ事も難しかったのか黒い塵となり空気と混ざってしまっていたそうだ。
「おそらく、あの少年にビシルテオの悪意が纏わりついていたのだと思う」
「そんなことが! なんと、不運な」
「……」
サリは頭を傾げた。何故その少年に纏わりついていたのか。ただの不運なのだろうか、と。