69 Goodbye
ひやりとしたサリの掌の感覚にフラットの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「意外とよく泣く」
「……そんな事なかったんだけど」
サリの言葉に笑いを混ぜて返す。あちらに帰ってもこの世での出来事を思い出して頑張れると思っていたのに、全て消えてしまうらしい。思えば皆親切すぎるくらいなんでも教えてくれた。いずれ記憶を消してしまうからだったのだろう。しかし、それが悪意からではない事など分かりきっている。フラットは唇を噛むと、王に塞がれているせいで見えないサリの顔を思い浮かべた。
「もしも……」
「うん」
「もしも、俺が思い出して、名前を呼んだら……一度くらいは会えるかな」
「……ああ、もしも、万に一つ、億に一つ、いいやもっとありえないけど、私の名前を思い出したら呼んでみるといい。気が付いたら行くかもしれない」
「ふふ、全然会える気がしない」
「うん」
ふう、とフラットは細く息を吐くとサリの顔に手を伸ばした。ふわふわの黒髪に指先が当たる。頬までずらしていくと濡れている感覚がした。元気で、と声を掛けると小さい顔がこくりと頷いた。階段の上にいる皆に向かって声をあげる。
「皆ありがとう! 忘れてしまっても此処に、少しでもいた事は無くならないはずだから……皆に教えてもらったことはきっと俺の一部になってる。だからきっと思い出すよ!」
だめだよー、やめろー、忘れろー、忘れてしまえー。レギュラー達は涙ながらに気持ちとは裏腹な返事をした。
「王様、あっちまでよろしくお願いします」
「うむ」
しっかりと頷く王の気配を後ろから感じる。サリの顔から手を離す。
「サリ」
「……」
「ありがとう。きっと思い出すから」
……消して。
サリは目を閉じると掌に力を込めた。掌が熱くなる。髪の毛に隠れるほどの小さな角がほわっと光る。
「う……」
フラットの頭に鈍い痛みが走る。頭の中をかき回されている気分だ。
「フラット、ありがとう。さようなら」
一際強い衝撃がフラットの頭を襲う。気持ちが悪くて吐きそうだった。何か話している声が聞こえるが遠くて分からないような、水の中に居るように聞こえる。
「後は頼む」
「ああ、フラットをちゃんと! 無事に! 届けてくれよ」
「あいわかった」
ばさりと黒いマントでフラットを包み込むと、アジエーリダに城の事を任せて湖まで駆け抜ける。ばちばちと黒い影がぶつかって来るがフラットには当たらないよう大事に抱える。ちらりと見えた顔色が悪い。月は真ん中池の真上に昇った。
「行くぞ」
「王様……はあ、うぇ」
「なんだ」
「また、覗きにきてください、ね」
「……うむ」
いかん、記憶がまだ消えていない。しかし月が!
「兄と、一緒に……おもてなしするから」
「! ……」
「一回、さようなら」
ことりとフラットの頭が落ちる。気を失ったようだが、不安が残る。しかし今を逃しては手遅れ。王は意を決して真ん中池に足先を入れた。
暗い水の中で影たちが争っている。暗い池どころか黒い池だ。しかし王には関係ない。輝く二つの金色の目ですいすいと影を避け、避けきれなかったものは握り塵にしぐんぐんと進む。抱えた少年には傷一つ付けさせない。
王はどんどんと池の奥底へ進む。暗い池の底に明かりが見えた。あちらの月を目印に、黒から藍色、青から緑へと進む。
「……」
ぱしゃり。
王は、目までを湖から出して周りを覗き込む。
しんと静まり返った暗い夜、人の姿は見当たらない。静かに湖の淵まで移動してもう一度周りを見やる。
「ふむ」
「フラット!」
「!」
びくりと震えた王の目の前に息子によく似た三つ編みが揺れた。
「我が弟は無事ですか」
「……クラウディオ」
クラウディオは王に手を差し伸べるが、王は抱えているフラットを大事に抱えたまま歩いて湖から上がった。膨らんだ黒いマントを避けると一際顔色の悪いフラットを地面に横たえる。頭、首、肩、腕、指先、腰、足、足先とすべて揃っているか見つめる。
「フラット……」
クラウディオはフラットの冷たい頬に手を当てると呼吸を確認した。眉間に皺を寄せているが、しっかりと息をしているようだった。羽織っていたキナリのマントでフラットを包むと見た目によらず力があるのかしっかりと体を抱え込んだ。
「弟がお世話になりました」
正しく礼をするクラウディオに王は気まずくてしょうがない。もともと自らが起こした事件だ。アジエーリダを通して弟の安否は伝わっていたとは思うが、まさか迎えに来ているとは。一応、住まいの小さな家まで運んでやるつもりではいたのだが。内心ひやひやとする気持ちと、お気に入りの物語の主人公二人を前にしたどきどきと、真相を知れば何と言われるかの恐々がない混ぜになる。早く立ち去りたい。
「……病は終息したか」
「はい。もう大丈夫です」
フラットの肩を抱く手に力が入っている。
「心配を、させたな」
「! ……それは、もちろん」
「気を失っているだけだ。後は……」
正直起きてみないとわからない。
「今日は城に連れて帰って休ませます。起きたらびっくりするでしょうけど……」
クラウディオは苦笑した。こんな形で城に連れ帰ることになるとは。
「……あちらの世の記憶は消してある」
「え?」
「失言しないように」
王はもはや白い顔のフラットの額に張り付いた髪を避けてやると、では、と黒いマントを翻し湖の中に戻って行った。
「……」
残されたクラウディオは、しばらく王の消えていった湖を眺めてから、冷え切った弟を温めてやらねばと帰路についた。




