2 Lorca
冷やりと張り詰めた空気が夜の訪れを告げる頃、水底の世にある長い廊下にはトロリーを引く車輪の音が響いていた。
暗い通路を照らす燭台の明かりを頼りにロルカは主の部屋へと少し急ぎ足で向かっていた。
「7、8……9……え、ない? 数え間違えたかしら」
右手を燭台のある方の壁に当て、主の部屋と続く通路を探して歩くが見当たらない。本来ならば8つ目と9つ目の燭台の間の壁には突然壁が無くなる所がある。主の部屋へと続く通路になるはずなのだが……。主の食事を乗せたトロリーを左の手で引きながら、右手を壁に当てて歩くというのはロルカには中々に難しいことだった。
「通り過ぎてしまったかしら……少し戻ろう」
9つ目の燭台から8つ目の燭台まで今度は左手を壁に付けて歩く。
「……もう1つ戻ってみて、なかったらもう少し進んで……あ!」
8つ目から7つ目の燭台へと向かう途中、ロルカの左手から硬い感触が無くなりふっと手が浮いた。
「数え間違えていたのね」
ロルカの左手は暗い闇に指先が飲み込まれている。その指先の向こうを目を凝らして見てみると微かに赤い光が見えた。
ロルカは主の部屋を見つけたことに安堵し、トロリーを引いて先程よりも暗い通路を進んだ。
三十歩ほど進むと、とても小さな蝋燭が主の部屋の扉をゆらゆらと照らしていた。扉にはめ込まれたつるりとした飾りの石を一度指先で撫で、ロルカは扉をノックした。
「失礼します。おはようございます、サリ様」
「おはよう」
ロルカは主の部屋の窓にかかる黒く重たいカーテンを寄せて歩いて回る。
本日も月が昇り冷たい夜の刻が訪れた。水底の世の一日が始まる。
「良い月が昇ってます。本日のお加減はいかがですか?」
「問題ない」
「そうですか……」
ロルカの主はベッドに腰を掛けてすでに起きていたようだ。この世の姫、サリはこの所体調が優れない。いや、この所ではなく、この世に来てから徐々に弱ってきていた。黒く波を打った髪は肩に付くかつかないかの所で伸びることをやめ、まだ少女の歳のはずが細い身体は骨ばっていた。さらに、こちらの世に来たときに瞳を半分落としてきたようで光に弱く、いつもフードを目深に被っており、その姿は魔女と呼ばれる人のようだった。
「今日は、迷わずに辿り着けた?」
「え! あ、少しだけ。ほんとに少しです」
「そう」
表情の乏しい姫は、少し口角を上げてみせた。それにロルカは頬を膨らませて答える。僅か十三歳の姫と、何十年の時を超えたロルカとどちらが年上なのかと問いたくなる一幕である。それ程大きな城ではないが、何せ暗い。月明りだけの廊下もある。流石に灯もあるが、一つの燭台を過ぎると次の燭台の灯が見える程度だ。ロルカはよく城の中で迷子になる為、サリは少しの不安を抱えていた。
「それより、本日はこちらのお召し物はどうでしょう?」
ロルカはレースやビジューが至るところに散りばめられたドレスをクローゼットから取り出して主に見せた。その黒いドレスは姫を想ってロルカが仕立てたものだった。
「いや、いつもので頼む」
「え……ではこのドレスはいつ着てくださるのですか」
「ごめん、少し重たいんだ。動きやすい方が良い」
「そうですか……」
ドレスを胸に抱いて見るからに肩を落とすロルカにサリは息を一つ吐いた。
「何かの催しの時に取っておく」
「まあ! そうですか! かしこまりましたわ!」
ロルカは見るからに元気を取り戻すと、いつもの上質な生地の長袖のドレスを用意した。
「今日は広間を見廻ってからジルの所へ行ってくる」
ジル、とは太陽を沈ませ月を昇らせる時の番人の事。はて、何か用があるのだろうか。ロルカは、引いてきたトロリーから食事のミルクティーをテーブルに並べつつ頭を傾げた。
「王がパーティーを開くと言っている。ジルにも知らせて来なくてはいけない」
「まあ! そうでしたか! では広間の住人達も少なくなってきたのですね?」
「ああ。けれどまた、すぐに溢れ返ってしまうだろうから、できる限り在るべき所へ帰ってもらわないと」
「そうですね」
ドレスに袖を通す主をロルカは盗み見た。まだ少女の年だというのに枯れ枝のような折れてしまいそうな腕を。どうしたら弱っていく主を助けることができるのか。ティーポットからカップへなみなみとミルクティーを注ぐロルカの瞳には涙の膜が張っていた。
「ロルカ、溢れてしまう」
「あら! ごめんなさい」
姫はテーブルに着くと波打つティーカップを持ち上げることはせず、顔の方を寄せてミルクティーを少しすすった。
「……今日は少し味が濃い」
「あら、そんな事はありません! 全部召し上がってくださいな」
「……」
姫は渋々、少しずつミルクティーを啜っていった。