前を向いて
微かな物音と人の声に、眠りの中に沈みかけていたソニヤの意識が引き戻された。
目を開けると、激しい雨音に混じって扉を叩く音が聞こえる。
「ソニヤ起きてる?」
扉の向こうから聞こえたのは、『癒し手』仲間のライラの声だった。もぞもぞとベッドから起き上がり、ソニヤは大きな溜め息をついた。
「……今起きた」
答えた声は、自分のものとは思えないくらい酷く掠れていた。時計をみると、ベッドに潜り込んでから三十分も経っていない。
「ごめんね。せっかく休んでたのに……」
「気にしなくていいよ。何かあったの?」
カデウスを震源とする地震が起きてから、教団内の神官達はあちこち駆けずり回っていた。
ソニヤも地震の起きた翌日から、シノフィスに作られた療養施設へ派遣されていた。約一ヶ月半ほど癒し手として働き続け、今朝大神殿に戻ってきたばかりだ。
それを知るライラが、わざわざソニヤの部屋まで来たのだ。何か理由があるのだろう。
「さっきね、ソニヤに面会したいという人が来たの」
「私に?」
「そう。年配の女性とその娘さんで、クラネオスから来たらしいの」
「クラネオスの人?」
中級神官であるソニヤが、他国の人と関わる機会はあまりない。隣国のカデウスならともかく、クラネオスに知り合いはいなかったはずだ。
「なんかね、イリアという人に紹介されたって。それって、サリカの事じゃない?」
「今すぐ行く!」
弾かれる様に立ち上がり急いで身支度を始めたソニヤの耳に、ライラの落ち着いた声が聞こえてきた。
「慌てなくて大丈夫だよ。その人達も、この雨の中さっき王都に着いたばかりみたいでね。宿泊する場所も決めてないみたいだから、客間にお泊めする事になったの。私は面会室の準備をしとくから、声かけてね」
「わかった、ありがとう!」
廊下で飴を渡した日以来、サリカからの連絡は一度も無い。お役目でカデウスに行くことは聞いていたので、神殿長にサリカの安否を尋ねてはみたが、結局何も分からなった。
幼い頃から姉妹のように過ごしていたのだ。サリカが、ただ優秀なだけの神官ではないことは、ソニヤが一番良く知っている。
無事だと信じたいが、カデウスの状況が明らかになるたび、その思いがどうしても揺らいでしまう。
そんなサリカ情報がやっと手に入るかもしれないのだ。神官服に着替えたソニヤは、面会室へと駆け出していった。
ソニヤが面会室で待っていると、ライラの案内で二人の女性が入って来た。
「お初にお目にかかります。神官のタニアと申します」
胸に手を当てて頭を下げ神官名を名乗ったソニヤに、その二人は深々と頭を下げた。
「私は、飲み物売りの屋台をしているヒルダ・カントラといいます。こっちは娘のセルマです」
「セルマ・カントラと申します。突然押しかけたのにも関わらず、会ってくださって、本当にありがとうございます」
「神殿は故あって訪れる者を拒むことはしませんので、お気になさらないで下さい。それより、お二人ともお疲れでしょう。どうぞ、お掛け下さい」
ソニヤの言葉にようやく頭を上げた二人は、ライラに促されて怖ず怖ずとソニヤの正面に座った。
ライラが入れてくれたお茶を飲むと、緊張していた二人の表情が少しだけ柔らかくなるのがわかる。
ソニヤはライラが部屋から出るのを待ってから、本題に入った。
「それで、私に何かお話があるという事でしたが」
「私は貴方様の作った飴に命を救われたんです。その御礼を言いにきました」
そう言って、ヒルダは祈りを捧げるかのようにソニヤに向かって両手を合わせた。
たまに大神官や上級神官に向かって合掌する人はいる。だが、ソニヤはただの中級神官だ。合掌されたことなど一度もない。
「どういう事なのか、もう少し詳しくお聞かせ願えますか? それと、私はただの中級神官なので敬称は不要です」
「ほら、母さん。タニアさんが困ってらっしゃるわよ」
「だって、お前……」
母と娘のやり取りを、ソニヤは不思議な気持ちで眺めていた。自分にも母親はいたが、互いを思いやるようなやり取りをした記憶はない。
「すみません。母から聞いた話を、私が代りにお話ししても構いませんか?」
「ええ、勿論」
「母がイリアさんという方に会ったのは、カデウスのメソアードなんだそうです」
セルマは母親に代わって、メソアードでの出来事を説明し始めた。どうやらサリカに渡した二種類の飴が、ヒルダの手に渡っていたらしい。
「屋台を引いている二匹の飛狼は調子が悪かったらしくて、母はメソアードで一泊してからゆっくりクラネオスに向かう予定だったそうです。イリアさんに飴をいただかなければ、母は今ここに居なかったと思います」
「飴を作ったのはパモスの大神殿いる友達だから、機会があったら直接お礼を言ってあげてと、そう言われたんですよ」
そう言うと、ヒルダとセルマは再び深く頭を下げた。
ライラの話では、二人は飛狼が引く獣車に乗ってきたらしい。これまで使っていたカデウス国内の道が使えなくなり、リマペデル大陸の南にパモスとクラネオスを直接繋ぐ街道ができたのは、つい先日のことだ。
おそらく、道が開通したと知って、すぐにパモスに向かうことにしたのだろう。
「なるほど、そういう事情だったんですね」
「はい。できればイリアさんにもお礼を言いたいのですが、何処に行けばお会いできますか?」
「申し訳ありません。イリアは今、役目があって神殿を離れてるんです」
「お役目というと、イリアさんも神官なのですか?」
「はい。イリアはパモスの上級神官になります」
ソニヤを見つめる二人の目が大きく見開かれた。そして、母親であるヒルダの目が徐々に潤み始めた。
「も、もしかして、あの日から……」
どう答えるべきなのか分からず、ソニヤは曖昧な笑みを浮かべた。
神官として嘘はつけないが、うまく言い繕うことはできる。だが、混乱するカデウスを越え、わざわざパモスまでやってきてくれたこの母娘に対し、できる限り誠意ある対応をしたかった。
だが、ソニヤが言葉を探している間に、ヒルダが両手で顔を覆って泣き始めた。
「やっぱりあの時行くなって、止めときゃ良かった。コダルに用事があるって言ってたけど、近頃コダルの様子が変だって噂があったんだよ」
「そうは言っても、イリアさんはお役目中だったわけだし。それに何処かで元気にしてるかもしれないじゃない。悪い方ばかりに考えてたら、それこそ失礼よ」
幾度も繰り返されたやり取りなのだろう。そして、二人の一番の目的は、サリカの安否を確認することだったに違いない。
神殿関係者以外にも、サリカの心配をしてくれている者がいる。その事実に胸の奥に温かいものが湧き上がってくる。
「すみません。お騒がせして……」
「いえ、イリアを心配してくださるお二人のお気持ちに、彼女の友人として感謝いたします。連絡はありませんが、イリアは優秀な神官ですから、どこかで神官としての役目を果たしていると、私はそう信じております」
ソニヤの言葉に、二人はハンカチで目元を押さえながら大きく頷いた。
その後、ヒルダがアキルムのジュースを作りたいから厨房を使わせてくれないかと言ってきた。なんでも、サリカが温かいアキルムのジュースを気に入ったらしく、ソニヤに飲ませたいと言ってたらしい。
ジュースにすると傷むのが早いからと、わざわざアキルムの実を持参してきたという二人を厨房まで案内し、その後の対応はライラにお願いする。
美容にも良いと言われるアキルムのジュースは、神殿内の子供達や女性達に喜ばれることだろう。
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クラネオスから来た客人と別れたソニヤは、その足で大神官であるエリナの執務室へと向かった。
地震以来、国内外を飛び回っている神殿長に代り、今はエリナが神殿長代理として大神殿に居るはずだ。
(知らされてないことが、沢山あるみたいね)
神殿長に話を聞きにいった時から気になってはいたのだ。
各国の王族と渡り合っているぐらいだ。神殿長が、ただ穏やかで優しいだけの人ではないのは知っている。かといって、血も涙も無いような冷たい人間ではない。
ヒルダの話からすると、サリカがいたのは最も被害が大きいと言われている所だ。
何かあった場合、神官は必ず神殿長に連絡することになっている。当然、神殿長はサリカの置かれた状況を知っていたはずだ。
だが、神殿長がサリカを心配している様子は、少し芝居がかって見えたのだ。
(上の立場にある者にしか、教えられないって事よね)
ソニヤが眉間にシワを寄せた。
神官達は皆仲間だと思っている。友人もいる。だが、ソニヤにとって一番大切なのは、子供の頃から姉妹のように過ごしてきたサリカなのだ。
本当なのか分らないが、ソニヤは貴族の血を引いているらしい。
貴族の屋敷で下働きをしていた母親と、その家の息子との間に出来た子供なのだと、ソニヤはそう母親から聞かされて育った。
二人の間に何があったのか、当事者以外に分かる者はいないだろう。もしかしたら、当事者も分かっていないかもしれない。
ソニヤが知っているのも、その男に早く迎えに来てほしいと言って、ベッドで泣いているだけの母親の姿だ。
七歳になった冬の寒い日、母親が流行り病であっけなくなく亡くなり、その日を堺にソニヤの見ていた世界が一変した。
それまで親切だと思っていた大家が、自分を何処かに売り払う算段をしていると知ったのは、母親を共同墓地に埋葬した直後の事だ。
そして、呆然としているソニヤの手を引いて神殿まで連れてきたのは、隣に住んでいた一人暮らしの無愛想な老女だ。いつも文句を言ってくるので、どちらかというと嫌いな人だった。
だが、『逃げなさい』と言った彼女の言葉と、荒れた手の温かな感触は、今でも鮮明に覚えている。
幼いソニヤを放置し、泣く以外に何もしなかった母親を、恨む気持ちが全く無いといったら嘘になる。
そして、色々な理由を並べて自分を誤魔化してきたが、上級神官になろうとしなかったのは、父親と同じ貴族に関わりたくなかったからだ。
だが、今のソニヤは、亡くなった時の母親や、母親と出会ったときの父親よりも年上になった。いい加減、自分も前を向いて歩いていく時期になったのだろう。
大神官になるには、まずは上級神官なる必要がある。そして、上級神官になるために必要とされるのが、上級神官もしくは大神官の弟子として学ぶ事だ。
(大神官じゃなきゃ教えられないというなら、大神官になってやろうじゃない)
エリナの弟子になるため、ソニヤはエリナの執務室のドアを叩いた。




