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界壁の修復士  作者: 瑪栗 由記
第一章 神殿生活
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変異

 空が裂けていた。

 青と赤が混じり合う夕暮れの空に、稲妻のような形の縦長の黒い裂け目が、ポッカリと口を開けて浮かんでいるのだ。


 裂け目はコダルへと真っ直ぐに伸びる街道の上空にあり、ガラガラと音を立て走っていく獣車に合図を送るかのように、時折その隙間から白い光を放っている。


 鋭い刃物で切りつけられ、破れてしまった風景画を見ているようだった。


 美しい景色の中に存在する異物は、その強烈な違和感ゆえに目を逸らすことが出来ない。一瞬でも目を離したら、黒い裂け目はその隙に大きく広がり、辺り一面を飲み込んでしまう、そんな気がしてくる。

 だが同時に、見ていると体の内側からザワザワとした不快感が込み上げ、この場から走って逃げたくもなる。


 周囲の音をかき消し、心臓のドクドクという音だけが耳に響いている。


 サリカは無理矢理視線を下げると、その場に崩れるように座り込んだ。片膝の上に頭を乗せ、浅い呼吸を繰り返しながら不快感を体の外へと必死に逃がす。


 目を閉じ、数を数えながらゆっくりと呼吸しているうちに、少しずつ周囲の音が分かるようになってきた。街道の上を獣車が走り去る音も、耳元を通り過ぎる風の音もちゃんと聞こえる。


 サリカは顔を伏せたまま、思考が停止しないよう必死に自分を叱咤した。


(あれは一体何なんだ?)


 読み手の意識に切り替えた瞬間に認識できたのだから、魔素が関わっている物だとは思う。だが、神殿で叩き込まれた知識にあんな物は無かった。神話や歴史にも、空に裂け目ができたなどという話は無かったように思う。

 大神官や中央大神殿にいる者なら分かるのかもしれないが、サリカには見当もつかない。


(どうする……)


 良い考えは浮かばない。というより、良い考えというのが何かすら分からないでいる。


 サリカは顔を上げると、一度だけ大きく深呼吸をした。

 ゆっくり立ち上がり、微かに震える手で服に付いた枯れ草を払った。パンパンという乾いた音と手に伝わってくる服の感触に、少しだけ落ち着きが戻ってくる。


 こんなに緊張したのは何年ぶりだろうか。

 王族の前に出てもただ面倒くさいだけであり、そんな図太さをカイに呆れられた事が、今はひどく懐かしい。


「お前は、私にあれを教えてくれたのか」


 いつの間にか隣に立っていた三眼馬に声をかけ、琥珀色の体に触れた。掌に伝わってく温もりに、緊張で強張っていた自分の体から力が抜ける。


 サリカは三眼馬と並んで、不規則な光を放つ裂け目を眺めた。


 不測の事態が起きたときには、できるだけ早急に神殿長に連絡を入れなけれはならない。

 魔素の減少だけなら、お役目完遂時に報告すれば良いと思っていたが、得体の知れない裂け目についてはそういう訳にはいかないだろう。


(さすがに情報が少なすぎるな)


 報告するにしても、分からない事が多すぎる。空に浮かんでいるので、どの辺りにあるのかさえ定かではないのだ。

 それに、いくら神殿長でも『空に裂け目が見えた』では意味が分からないだろう。サリカ自身、今見ている光景が現実のものだと信じきれずにいるのだ。


 自分にできる事といえば、あの裂け目の近くまで行って観察する事ぐらいである。

 不快感を押し殺して見に行っても、何も分からないかもしれない。これ以上近寄りたくないという、防衛本能のようなものも湧き上がってはくる。


(だけど……)


 今この場から立ち去ってはいけない気がした。

 自分が何かできるとは思っていない。だが、何かを見届ける必要がある、そんな気がするのだ。


『神殿長からの直接の依頼は厄介事ばかりだ』


 そうぼやいていた師匠の気持ちが、今なら何となく分かる。簡単なお役目だと思い込んでいた数日前の自分に、胸ぐらを掴んで説教してやりたい。

 だが、いくらぼやいた所で、今この場所にはサリカしかいないのだ。腹を括るしかない。


「もう少しだけ付き合ってくれるかい?」


 サリカの問いかけに、三眼馬が低く嘶いた。




 感覚を戻さず御者台に座ったサリカは、走る獣車の上から前方の空をじっと見つめていた。 


 獣車に乗りながら魔素を読むという行為は、どんな神官でも滅多にやらない。揺れている所では集中しにくいのと、情報過多で獣車に酔いやすくなるからだ。


 だが、飛び交う魔素の量が異様に少ないのと、三眼馬がいつもよりゆっくり走ってくれているので、なんとか御者台に座っていられる。


 前々から思ってはいたが、この三眼馬はサリカの話すことを全て理解してる節がある。独り言のつもりが、その度に相槌のような反応があるので、いつの間にか三眼馬と話をしている気分になるのだ。

 端から見たら、話し相手が魔獣しかいないただの淋しい人かもしれない。だが、お陰で楽しく旅ができたし、今もこうして助けられている。


 日はすっかり落ち、周囲は夜の闇に包まれ始めた。だが、星の瞬く夜空の中にあっても、空に浮かぶ裂け目ははっきりと認識することができた。

 コダルに近付くほどに、より大きく、より鮮明となってサリカの脳裏に飛び込んでくる。


 縦長の裂け目は、その切れ目の上下左右に幾つものひび割れが入っていた。刃物で切ったような綺麗な切り口というより、何かに押し破られたような感じである。


 目に見えない何かに体全体を覆われているかのような感じがし、その奇妙な感覚に鳥肌が立つ。片手で体を擦ったり叩いたりしてみてたが、嫌な感覚が薄れる事はない。

 深呼吸しようとしても、息が吸い込み難い。まるで、豪雨の中で、雨に打たれながら立っているかのようだった。


 必死に不快感に耐えていたものの、手綱を握っている手も覚束なくなってきた。徐々に目眩と吐き気も加わり、冷や汗が額から流れてくる。


 もう限界だと思ったその時、前方に街の明かりが見えた。


(コダルだ)


 サリカが安堵のため息を洩らすと同時に、三眼馬は街道から外れた枯れ草の上で足を止めた。


「……ありがとう」


 サリカは掠れた小声でお礼を言うと、水筒に入っているアキルムのジュースを一口飲んだ。既に冷たくなっていたが、程よい酸味が胸のむかつきを押し流してくれ、気分の悪さが少しだけ和らぐ。


 コダルの街は高い壁に囲まれているが、サリカのいる場所から少しばかり下った場所にあるため、魔道具の街明かりが微かに見てとれる。

 そのコダルの真上に、裂け目は浮かんでいた。


 遠くから見た時は、何もない暗い空間から時々光が漏れ出ていると思ったが、ここでよく見ると、漆黒の闇と眩い光が交互に現れては裂け目を押し広げていた。その度に、裂け目から伸びるひび割れが長くなり、裂け目自体も少しずつ広がっているようだった。


 更に詳しく読み取ろうと思った時、サリカの視界がぐにゃりと歪んだ。


「……っ」


 御者台に倒れ込んで目を閉じると、その場でグルグルと回転しているかのような目眩に耐えた。ガクガクと震える全身から、冷や汗が吹き出す。

 サリカは音を立てながら息を吐き出すと、感覚を元に戻すべく両手を打ち鳴らした。


 パンという音が響き渡ると同時に、目眩がすっと引いて行くのが分かる。込み上げてくる不快感も、先程より幾分軽くなってきた。

 水の中から顔を上げた時のように思いっきり息を吸い込んでから、サリカはゆっくりと目を開いた。


 頭上には美しい満天の星空が広がっている。御者台に転がったまま眺めていると、煌めく星々の中に一筋の光のが走っていくのが見えた。


(これ以上近寄るのは無理だろうなあ)


 サリカは目を閉じ、溜め息をついた。

 感覚を元に戻してもこの状態だ。三眼馬が頑張ってくれたとしても、コダルに到着する前にサリカは御者台の上でぶっ倒れているだろう。


 とりあえず、今分かっている事を神殿長に報告するしかないだろう。

 報告書を書くなら、少しでも安心できる所で頭を整理しながら書きたいのだが、メソアードまで戻るには時間が掛かり過ぎる。

 この周囲にある町や村に行くという手もあるが、今誰かと話をするような気持ちの余裕はなかった。


(確か、この近くに祠があったはず)


 フォシアル教は、神殿以外に各地に祠を作っている。神殿は人が暮らす場所にあるが、祠があるのは人があまり行かない自然の中だ。祠の立つ場所はその地の要となる場所であり、祠の中には巨大な球体の魔石が置かれている。


 神官は要となる場所で、土地の魔素を読み、土地の声を聞きながら、神に祈りつつ場の調整を行うのだ。これは巡祈と呼ばれ、神官達は最低でも年に二回ほど各地の祠をまわる。


 サリカのカデウスでの修行は、師匠の巡祈に同行しながら行われた。パモスの神官なのに、何故一番大変なカデウスの山の中に行かねはならないのかと不思議でならなかったが、お陰で祠に向かう事ができそうだ。


 サリカは起き上がると、星々と双生の月に照らされたコダルの街をじっと見つめた。感覚は素に戻したはずなのに、街の上には薄っすらと残像のような裂け目が見えている。


『このままでは、とんでもない事が起こる』


 空に浮かぶ裂け目を見た瞬間から、そんな考えがサリカの中に絶えず湧いてくる。

 あの裂け目の下では、これまでと大して変わらぬ人々の営みがあるはずだ。胸の内から湧き上がる不安の塊が、サリカの杞憂であってほしいと思う。


「行き先を変えるよ」


 サリカは三眼馬に声をかけて再び手綱を握ると、祠に向けて獣車を走らせた。



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