前触れ
再び門近くの獣車屋まで戻ると、既に食事を済ませていた三眼馬は機嫌よくサリカを迎えてくれた。ここの食事が余程お気に召したのか、休む時間など殆ど無かったはずなのに、これまでで一番機嫌が良い。
預けた時と同じ顔色の悪い店員に少しばかり多めに料金を支払い、ついでに三眼馬用の携帯食も購入すると、サリカはすぐにメソアードを出発した。
カデウスの北は、高い山々と高原が広がる自然豊かな場所だ。お隣でも平野の多いパモスとは、景色がまるで違う。
サリカは幼い頃、師匠と共にカデウスに訪れては野山を駆けずり回らされた。あれは神官の修行というより、冒険者の修行だ。当然サリカと同じ修行をしたという神官には、まだお目にかかった事がない。
だが、上級神官となった今になって考えてみると、自分には貴族に混じっての社交よりも、野山を駆けずり回る方が性に合っている気がする。
「おかしいな……」
御者台の上から周囲の景色を眺めていたサリカが、首を傾げながらポツリと呟いた。
街道から少し離れた場所には、温かい季節には緑の葉が生い茂る林があるのだが、視界に入る木々は全て葉が落ちているようだった。
サリカの記憶が確かなら、この辺りには冬でも葉を残す木もあったはずだ。距離があるため定かでないが、どの木も枯れかけているようにも見える
(一応確認しとくか)
舗装された街道から外れた場所に獣車を止めると、サリカは御者台から降りて、街道の傍にある林に向かって歩き始めた。
一歩踏み出すたびに、足元で枯れ草がカサカサと音を立てる。その乾いた音を聞きながら獣車と林の中間あたりまで来ると、サリカは足を止めた。心を沈めるように、立ったまま一度だけ大きく深呼吸する。
目を閉じて雑念を頭から追い出し、己の感覚を徐々に広げていく。感覚が切り替わっていくと共に、先程まで感じていた肌寒さも感じなくなり、自分の体が周囲と一体化したような感じがしてくる。
そして、もう一度大きく深呼吸すると、サリカはゆっくりと目を開いた。
様々な色の微細な光の粒が、くるくると回転しながら周囲を漂っている。その粒一つ一つが僅かに発光しており、何もない場所からパッと現れては、動き回りながら空気に溶けるように消えていく。
まるで、一つ一つの光の粒が生きていて、それぞれ意思を持っているかのようにも見える。
サリカの見ている光の粒は、魔素だ。
この世界に存在する魔素には、『風』『火』『土』『水』の四種類がある。場所や環境によって濃度が異なり、種類に偏りもあるが、ありとあらゆる場所に全ての魔素が存在している。
『読み手』の役目は、その場に存在する魔素を読むことである。ただし、同じ『読み手』であっても魔素の捉え方は人によって異なり、視覚以外で捉える者も多い。
サリカは光の粒に見えているが、それが魔素本来の姿ではなく、サリカにはそう感じられるというだけだ。
(かなり少ないねえ)
通常、自然豊かな場所の魔素は濃く、動きも活発である。
以前ここに来た時は、光の洪水のような魔素の輝きに頭がクラクラしたが、今は周囲を僅かに漂う程度しかない。しかも、動きは遅く、光も弱い。
この辺りの木々が枯れかけ、人々が魔素欠乏症になっているのは、おそらく土地の魔素が減少しているせいだろう。周囲の様子を見る限り、北に行くほど酷くなってくるに違いない。
その場に存在する魔素が、淀みや偏りなど本来の状態とは異なる状況になると、そこに存在するもの全てに様々な問題を生じさせる。『操り手』は、魔素の状況に異常があった場合、様々な手段を用いて本来の状態へと戻す手伝いをする。
『操り手』でもあるサリカは、魔素を動かし調整することはできる。だが、新たに魔素を創り出すことは不可能だ。こればかりは神の領域である。
サリカは再び目を閉じると、両掌を勢いよく打ち合わせた。弾けるようなパンッという音が響き渡り、その音と同時に感覚が元に戻ったのが分かる。
音に驚いたのか、三眼馬の嘶きが背後から聞こえてきた。
「驚かせてごめんよ。今そっちに戻るから」
今ここでできる事は何もない。サリカは、三眼馬の待つ獣車まで戻ることにした。
『人は世界の一部である』
かつて師匠に言われた言葉が頭を過る。
一般的に神官は神に祈りを捧げ、人に教義を説く者と思われている。確かに日々神に祈りは捧げるし、神殿に訪れる人々に対して話もする。
だが、神官の役目とは場の調整だ。その場というのが、土地であったり、人であったり、物であったりするだけだ。
神に祈り、神と共に魔素を調整し、世界の均衡を保持する者が神官である。サリカはそう教わってきたし、後輩達にもそう伝えている。
足元の枯れて茶色くなった草に目ををやり、サリカは溜め息をついた。
(カデウスの神官は何をしてたんだろう?)
魔素が枯渇している原因は分からない。だが、早めに対応していたら、ここまで酷い状態にはならなかったのではないか。
そんな考えが頭に浮かび、サリカは自嘲して口の端を歪めた。
事情を知らない他国の者が、外からあれこれ口で言うのは簡単なのだ。
カデウスの神官達とて、彼らなりに必死に何かをしているのかもしれない。そもそも、中央大神殿でも手を拱くカデウスの中で、ただの神官にどれだけの事ができるというのか。
手紙を届けに来ただけの何も知らないサリカに、カデウスの神官達を批判することはできない。
「待たせたね」
三眼馬の体にポンポンと軽く触れてから、サリカは御者台へと上がった。
手綱を手に取ると、コダルへと続く綺麗に整えられた街道をじっと見つめる。
この先に何があろうと、今は進んでみるしかないのだ。
「すまないが、もう少し頑張ってくれ」
三眼馬は嘶きで返事をすると、コダルに向かって機嫌よく走りだした。
以前訪れた時には多くの獣車が走っていた街道も、今はサリカ達以外は誰もいない。聞こえてくるのは、三眼馬の足音と獣車の車輪の音、そして風や木々のざわめきだけだ。
頭上に広がる雲一つ無い空が、その色彩を少しずつ変化させていく様を、サリカは一人黙って眺めていた。
空の色や雲の形が変わっていくのを見るのが好きで、子供の頃からよく空を見上げていた。暇があれば、ぼーっと眺めていたので、ソニヤによく呆れられていたものだ。
「静かだねえ」
口からこぼれ出た呟きに、答える者は誰もいない。
こうして一人獣車に揺られていると、何故か自分だけがこの地に取り残されたような気持ちになってくる。
一人で淋しい、というのとは違う感じがする。何となく、初めて内殿に入った時の心細さに似ている、そんな気がした。
じっとしていると思考が暗い方へと傾いていきそうに思ったサリカは、屋台の店主から貰った焼き菓子の袋を取りだした。
カデウスで屋台を開くのはこれが最後と、夫が亡くなってから作っていなかった焼き菓子を、いつもより早起きして焼いたらしい。
綺麗な焼色がついた焼き菓子には、細かく砕いた木の実が入っている。
袋の中から一つ摘み出して齧ってみると、木の実の香ばしさと一緒に優しい甘さが口の中に広がった。
高級菓子店の焼き菓子とは異なる、どこか懐かしさを感じる素朴な美味しさだった。
「おばちゃん、そろそろ国境に着いたかな」
メソアードからクラネオスとの国境に行くには大きな川を一つ越えねばならないが、距離的にはコダルへ行くよりも近い。
あの二匹の飛狼が頑張ってくれれば、日が落ちる前にクラネオスに入れるのではないだろうか。
メソアードでの事を思い返す度、あのまま街を出て来て良かったのかと、サリカは自身に問いかけていた。
何も出来なくとも、せめて神殿に寄ってくるべきだったのではないか、そんな考えが頭に浮かんでくる。
(師匠ならどうしてたかなあ)
答えが出ない時、つい師を思い浮かべてしまうのがサリカの悪い癖だ。
人は皆違うのだ。同じ神官でも出来ることは異なる。
後悔する事はこれまでも沢山あったし、これから先もあるだろう。だが、その時に最善と思った事を選択していくしかない。
師匠の人を小馬鹿にしたような笑顔を思い出しつつ、サリカは手に持った残りの焼き菓子を、ポイと口の中に放り込んだ。
コダルが近付いてくると、周囲に幾つかの町や村があるせいか、街道を走る獣車がちらほら目に入るようになってきた。
空は既に紅く染まっており、コダルに到着する前には星空へと変わるだろう。今回の旅で夜に獣車を走らせたことは無いが、三眼馬は夜目が利くので特に問題ないだろう。
途中で僅かな休憩を挟みつつ、順調にコダルまで向かっていたのだが、あともう少しで街が見えてくるという時に、三眼馬が急に足を止めた。
「あれ、どうした?」
この三日間、こんな事は一度として無かった。
不思議に思って獣車から降り、三眼馬の体に触れながら様子を見てみるが、特におかしな点は見られない。
魔素の少ない場所を走らせたので、いつもより疲れたのかと思って魔力回復の飴を食べさせてみるが、嬉しそうな様子は見せるものの、その場から動こうとはしない。
とりあえず、他の獣車の通行を邪魔しないようにしたい。
サリカは祈るような気持ちで三眼馬に声をかけ、手綱を持って歩いてみた。すると、不思議なことに横には動いてくれる。
何事も無かったように歩く三眼馬と共に、獣車が通らない街道から外れた場所まで来ると、サリカは安堵の溜め息をついた。
「お前は一体何がしたいんだよ……」
質問したところで言葉は返ってこないし、三眼馬の訴えが分かるほど魔獣に詳しいわけでもない。だが、魔素なら自分にも読める。
『癒し手』ではないが、魔素の状況が見えれば体調の良し悪しぐらいは分かるだろうと、サリカは三眼馬から距離をとり、自分の感覚を切り替え始めた。
だが、感覚を切り替えた瞬間、背後から今まで感じたことの無い奇妙な感覚に襲われ、サリカは反射的に後ろを振り返った。
「あれは……何だ?」
サリカは目の前に広がる光景を呆然と眺めながら、掠れた声で呟いた。




