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界壁の修復士  作者: 瑪栗 由記
第一章 神殿生活
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日々のお勤め

「よし、終了!」 


 サリカの声が内殿の回廊に響くと同時に、窓から朝日が差し込んできた。


 回廊全体が温かな光に満たされていくと、壁に掛けられた魔道具の明かりが、その役割を終えて端から順に音もなく消えていく。外では小鳥達のけたたましい鳴き声が朝の訪れを告げているはずだが、回廊の中は静寂に包まれたままだ。


 サリカは立ち上がると、手に持っていた使用済みの雑巾をバケツに入れて大きく伸びをした。


 サリカの暮らすセリウォル大神殿には、有名な三つの大回廊がある。回廊ごとに趣が異なり、それぞれが素晴らしい造形をしているが、特に主神の祀られた内殿の大回廊は最も美しいとの評判だ。


 壁と床には、白地に薄っすらと花のような模様が浮かび上がる花白石という石が使われ、天井は満天の星空を彷彿とさせる装飾がなされている。その荘厳な美しさから、『天界への道』とも呼ばれる回廊だ。


 そんな大回廊を維持するため、必要不可欠なのが掃除である。壁や天井には自動で浄化される魔法陣が組み込まれているが、床だけは人の手で掃除する決まりになっている。


 手順や方法は回廊ごとに異なり、この内殿は雑巾を使って素手で床を磨かねばならない。一人で掃除すると、慣れるまでは床磨きだけで半日かかる。しかも、真冬となれば手が千切れるかのように痛い。


 掃除を含め、神殿での作業は全て『お勤め』と呼ばれるが、数あるお勤めの中で、内殿の回廊が最も不人気な理由がそれだ。


 指導してくれた神官達は『全てのお勤めが修行だと分かれば、楽に終えられる』と言っていたが、その意味を理解するまで数年かかった。

 もっと分かりやすく説明してくれと思ったことは、一度や二度ではない。だが、言葉ではなく、経験を通して体得していくしか方法がない事もあるのだと、今ならそれがよく分かる。


 年月が経ち、サリカも指導する側となった。溜め息をつきながら休み休み行っていた床磨きも、今では短時間で楽に終えられる。


(見よ、この汗と涙と鼻水の結晶を!)  


 本日の成果を見渡しながら、サリカはニヤリと笑った。


 磨き上げられた花白石の床は、窓から差し込む陽の光を反射し、柔らかな輝きを放っている。

 大神殿の中で最も神聖な場所とされる内殿だが、掃除を終えた直後はいつにも増して場が澄み渡る。虹色の光に満たされた清浄な大回廊には、天界もかくやと思わせる何かがあった。


 サリカの初めてのお勤めは、この内殿の回廊掃除だった。嫌がる人は多いが、自分にとっては最も思い出深く、最も好きなお勤めだ。


 サリカは目を閉じて、朝の澄んだ冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 




 サリカは、パモス王国の小さな農村で生まれた。

 五人兄弟の上から三番目。自己主張するような性格ではなく、器用で手の掛からない子供だったため、忙しい両親からは、しばしば存在を忘れられていた。


 兄弟仲は悪くなかったと思うが、歳の離れた兄姉は学校と農作業の手伝いで忙しく、一緒に過ごす時間は殆どなかった。また、四つ下の双子の弟達は一緒に遊ぶには幼すぎたし、弟達の面倒をみるには自分が幼すぎた。


 以前聞いた話によると、神官になる者は家族との縁が薄いらしい。

 親から理不尽に怒られた事はないし、後回しにされても最低限の衣食住は与えられていた記憶はある。しかし、物心がついた頃から、自分一人が家族という枠から外れているように感じていた。おそらく親兄弟も、サリカに対して同じように感じていたと思う。


 大神殿から迎えが来て、五歳で家族と離れて見習い神官となったサリカだが、神殿での生活は決して悪いものではなかった。むしろ来られて良かったと、今でも心の底から思っている。


 満足な食事と清潔な寝床に感動し、世話役の神官が自分を気にかけてくれることに驚いた。

 最初は少々戸惑ったものの、同じ年頃の子供達と一緒に過ごせる時間は楽しく、家族と離れた不安や寂しさは殆ど感じなかったように思う。


 そんなサリカだったが、世話役の神官に連れられ初めて内殿に足を踏み入れた時、不安と心細さに涙目となった。内殿の回廊は別世界に続く道のようであり、立ち止まってじっと見ていると、知らない世界へと吸い込まれそうに感じたのだ。


 怖くなって世話役の神官の服をギュッと掴んでいると、困ったような笑みを浮かべた彼女から雑巾を手渡された。

 服から手を離して雑巾を受け取り、床を掃除し始めた彼女の姿を見て、見様見真似で床を磨いてみたものの、すぐに疲れて動けなくなった。幼い子供なら当然だろう。


 その場に座り込んで、こぼれ落ちる汗と涙と鼻水を服の袖口で拭いながら顔を上げた時、涙で潤んだサリカの視界に奇妙な光景が飛び込んできた。


 母親と同年代に見える世話役の神官が、風と共に猛スピードで自分の横を駆け抜けて行ったのだ。四つん這いなのに、サリカが全力で走るよりずっと速い。しかも、楽しげな鼻歌まで聞こえてくる。


 人型の魔道具かと思った。


 以前姉が『お貴族様のお屋敷には、魔力で動くすごい魔道具がたくさんあるんだって』と話していたのを思い出したのだ。


 ポカンと口を開けて眺めていると、傍を駆け抜けながら呼びかけられて、驚きのあまり叫んで後ずさった自分は悪くない。粗相しなかっただけ偉いと思う。


 すぐに勘違いだと分かったが、だいぶ後になって彼女が祖母と同年代だと知り、『やっぱり人型の魔道具なのか?』という心の声が、本人の目の前で口から漏れ出てしまった。慌てて取り繕ったものの、その後一ヶ月間は行儀作法の時間が二倍に増やされた。


 いつもと変わらぬ優しい笑顔だったが、彼女の全身から凍えるような冷気が立ち昇っていたのは気のせいではないと思う。思い出しただけで、今でも震える。


 サリカが母といわれて思い浮かぶのは、自分を産んだ実の母親ではなく、この世話役の神官だ。叱る時は怖いが、愛情深い優しい人だった。


 あの日、彼女がサリカを内殿に連れて行ったのは、親兄弟と離れたばかりの幼い子供を一人にしたくなかったから、それだけが理由だったらしい。

 優しい笑顔で『手伝ってくれてありがとう』といわれた時の嬉しさを、幼いサリカは彼女に伝えることが出来なかった。だが、きっと彼女には、サリカの気持ちなど全てお見通しだったに違いない。


 実年齢よりずっと若く元気であった彼女も、去年の冬に体調を崩し、そのまま光の道を歩んでいった。


(あっちに行っても、掃除してるのかなあ)


 内殿の回廊を掃除していると、心の中で母と慕っていた人をふと思い出すことがある。


 頑張った時には頭を撫で、荒れた手には丁寧に薬を塗ってくれた。悩んでいる時には、静かに話に耳を傾けてくれた。その時の、胸の中心がほわっと温かくなる感覚は、今でも確かにサリカの胸の内にある。


 この回廊のお勤めも、彼女と一緒に行っていた頃より格段に早く終えられるようになったが、まだまだ彼女の域には達していない。

 それでも、彼女は優しい笑顔と声で言うだろう。


『よく頑張りましたね』


 そんな母の姿と声を思い出しつつ、サリカはバケツを持ち上げた。


 

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