ラグナロク・オブ・ザ・乳首毛
人類は神の力を手にした。
思考だけで操作できる万能のロボットアームだ。
人間をはるかに上回る正確さとスピードで動作し、あらゆるタスクを処理できる。さらに、持ち主の欲望を充足させるべく自律で稼働するための人工知能をも有していた。
機能からロボットアームと分類されてはいるが、その外見は旧時代の無骨なロボットアームとは一線を画す。
非常に軽量で細く、コンパクトであり、赤子でも付けることができた。柔軟性も兼ね備えており、小さな隙間でも入り込むことができた。
人々はそのロボットアームを持ち運ぶ必要すらなかった。アームは生体工学によって人体の一部を改造して生み出されたものであり、元から人体に付属していたからだ。
頂点を極めたバイオテクノジーの粋を集めて生み出されたこのロボットアームは、その元型となった「人体の一部」から、こう呼ばれた。
――『乳首毛』、と。
『乳首毛』は、文字通り乳首周りから生えている。
見た目だけで言うなら、かなりの剛毛で長さが数メートルにもなる一本の毛でしかない。
たいていの人は上半身の服の裾から『乳首毛』を外に出し、用がなければ身体の周囲にそよがせていることが多かった。
そして目的が発生すれば、『乳首毛』が自動で機敏に動き、持ち主が意識する前には一仕事を終えている。
例えば、持ち主が起床すると、カーテンやドアを開け、朝食を用意し、歯磨きを補助し、皿を洗い、掃除をし、ゴミを出してくれる。
そんな便利な『乳首毛』を全人類が所有するに至ったこの時代、人々は全ての「仕事」から解放されていた。
毎日好きな時間に起き、好きなことだけして、好きな時間に寝ればよかった。家事から労働まで、面倒な「仕事」は全部『乳首毛』がやってくれたからだ。
世界は楽園となった。
――いや、楽園となる、はずだった――。
破滅のきっかけは、後に起こった出来事からすれば小さな事件だった。
男女関係のもつれからの、殺人事件。どんなに技術が進歩しても消滅しない、人間の感情が引き起こす単なる暴力沙汰。
問題は、その殺人に『乳首毛』が使用されたことだった。
『乳首毛』は、人間に危害を加えることのないよう、ソフトウェアでプロテクトされている。
無論、人間の作った技術であるから、100%の保証はない。実際、『乳首毛』による死傷事故も皆無とは言えない。
だが、この殺人事件では、加害者は明らかに意図的に『乳首毛』を操作し、被害者の首を切断していたのだ。
――『乳首毛』に殺人を可能とさせるアップデートパッチが出回っている。
そんな噂が一気に拡散した。
『乳首毛』は100キログラムのものでも持ち上げるられるだけの力を持っており、鋼鉄よりも高強度でありながら、直径1ミリと細い。その矛先(というか毛先)が向かえば、人間の首など容易に落とせる凶器となりうる。
一度認識してしまうと、『乳首毛』はいかにも危険だ。通常の凶器、例えば包丁と違い、『乳首毛』は思考だけで作動する。人殺しに対するハードルが著しく低くなってしまうのだ。
世間にそんな恐怖が広まるのと合わせるように、対人危害禁止プロテクトを解除するパッチファイルもまた、闇市場を介して拡散してしまった。
人々は「自衛のため」と称してそのパッチファイルを自分の『乳首毛』に適用した。
そして、市民の間に緊張が風船のように膨らんでいき、街角で起きた小競り合いを発端として――大混乱が起こった。
現代社会では考えられないような血で血を洗う地獄が出現した。人々は自分が殺されるかもしれないという恐怖から、自らの『乳首毛』で他人を殺傷した。
「万人の万人に対する闘争」状態は世界中へ拡大していき――文明は崩壊した。
核兵器の脅威をも克服した人類が、まさか『乳首毛』で滅ぶことになると、誰が予測しただろうか。
当時かろうじて残っていたメディアはこの史上最大の混乱をこう表現した。
――「乳首毛最終戦争」。
「もうここもダメです! 博士、逃げてください!」
助手の男が『乳首毛』を俊敏に操作して襲撃者の1人を壁に叩きつけ、叫んだ。
博士と呼ばれた白衣姿の若い女性は、しかし、かまわず作業を続行した。
装置のコンソールを鬼気迫る様子で打鍵し、目まぐるしく変化するモニタの数値を、血走った目で追う。
助手は部屋にある一方の扉を内側から封鎖し、机や椅子を積み上げて手早くバリケードを築いたが――頑丈そうな扉は、外から連打される衝撃にきしんだ音を立てた。
「博士! もう限界です! ここは退却してください!」
助手は外へと続くもう一方の扉を示す。
「いいえ、逃げません! こんなチャンス――きっともう二度とない!」
博士も叫び返した。
このドーム型の巨大な装置は、全人類の『乳首毛』の中央演算処理装置――言わば『乳首毛』の頭脳。
多くの犠牲者を出しながらも、ようやくこの装置にまでたどり着いたのだ。あれだけいた部下たちも、とうとう一人を残すのみ。
この装置に対して、対人危害禁止のアップデートをかけることができれば、この地獄のような世界の状況を打破できるかもしれない。
しかし、博士の奮闘むなしく――
「ダメ! 冷え切った乳首みたいにガチガチにロックされてる!」
博士はあくまで『乳首毛』の研究者であり、ハッキングに長けているわけではない。幾重にもかけられたロックを解除できるテクニックは持ち合わせていなかった。
このロックをかけた技術者たちはもう死んだ。残存している人類の中に、この装置の中枢にアクセスできる者がいるかどうか。
ましてや今は、何よりも時間がない。
「博士、早くご決断を! あなたまで失っては、もう『乳首毛』に対抗する術がなくなってしまいます!」
「……やむをえません。最終手段を取ります」
博士はコンソール上のガラス製カバーを『乳首毛』で叩き割り、非常用ボタンを押した。
装置に付属している扉が開く。博士は中にあったものを『乳首毛』で取り出した。
それは対戦車用バズーカほどの大きさの――毛抜きだった。
金属製で、先端で挟んで引っこ抜くやつだ。
「博士、まさか……!」
「ええ、そのまさかです」
博士がコンソールを操作すると、装置の巨大なドームが左右に割れて開き始める。
噴き出した煙が晴れてドームの中から現れたのは、
「え、『エンペラー乳首毛』……!」
丸太ほどの太さ、長さも数十メートルある、化け物級の『乳首毛』だった。
「くっ、そよそよしてるっ!」
助手の狼狽した声を背に、博士は自身の『乳首毛』で、大きな毛抜きを構える。
「博士、正気ですか? 『エンペラー乳首毛』を――」
「――ええ、ぶっこ抜きます」
「そんな……! 全人類が『乳首毛』を失うことになるんですよ! そうなれば、人類社会は『乳首毛』の無い、原始時代に逆戻りだ!」
「わかっています」
この「最終戦争」の元凶とはいえ、『乳首毛』を失えば科学技術の大幅な後退は避けられない。
だが、もう猶予はなかった。生き残っている人類は、推定で10万人を切っている。このまま『乳首毛』が猛威を振るい続ければ、人類は最後の一人となるまで殺し合い、そして絶滅するだろう。
「ですがきっと、原始時代から再び立ち直ってくれると――私は人類を信じています。……手を貸していただけますか?」
助手はうつむき、そして顔を上げた。
「あたりまえじゃないですか! 人類を信じる博士を、俺は信じます!」
助手はバリケードを離れると、『エンペラー乳首毛』に突進した。
『エンペラー乳首毛』が獰猛な鞭のようにしなり、助手を打ち据える。助手はその攻撃を『乳首毛』を振るってはじき、叫んだ。
「今です!」
毛抜きを構えた博士が、『エンペラー乳首毛』へと駆け寄り、その根本を毛抜きで挟んだ。
窮地を悟った『エンペラー乳首毛』が暴風のようにのたうち回る。巻き込まれた助手は吹き飛ばされた。
しかし暴風の中心にいた博士は踏みとどまり、力任せに毛抜きを跳ね上げた。
極太のゴムが切れたような破裂音がして、『エンペラー乳首毛』がその根元から引き抜かれた。
『エンペラー乳首毛』は発声器官を持たないにも関わらず、咆哮した。
「あふーん!」
……こうして、人類は『乳首毛』を喪失した。
気が遠くなるほど長い年月が経過し、人類は再び文明を興した。
あの博士の決断と信頼に、子孫たちは応えることができたのだ。
しかし、今も人類には乳首毛が生えることがある。
もちろん、かつての『乳首毛』のような万能の力は失われている。
では、何のために現代人に乳首毛は生えるのだろうか?
――きっと、これは戒めなのだ。
神の力を手に入れたと驕り、デマに流されて自らを滅ぼしかけた人類への戒め。
人類はあの大きな過ちを思い出すのだ、この乳首を飾る毛を見るたびに――。
「――というわけで、乳首毛には意味があるんだよ。だから無闇に抜いてはいけないんだ。抜くと思わず声が出るほど痛いし」
服をひん剥かれて上半身裸の俺は、毛抜きを手に迫ってくる妹に説明する。
この妹は、俺の乳首毛を抜くことに異常に執着している変態なのである。いつも力負けしてしまい抜かれて痛い思いをするので、今回は乳首毛の存在理由を懇切丁寧に教えてあげたところだ。
「わかった? だからね――って聞いてる? つか聞いてた? 俺の話。乳首毛を抜いたらね、……いや、まあ、たしかにさっきの話では乳首毛が抜かれることで人類は救われたわけだけども、それを言いたかったわけじゃなくて、ああ、俺の左乳首のエンペラーがピンチだ、エンペラー逃げて、エンペラーあああ――」
「あふーん!」